Episode 4:前編
Episode 4:前編
指輪の発見から数日。
ハート刑事のテラスハウスには、
いつも通りの平穏な朝が戻ってきた──はずだった。
「クシュンッ!」
リビングに、ハートの大きなくしゃみが響く。
ホームズはソファの上で優雅に
(犬の体としては精一杯のポーズで)あぐらをかき、
冷ややかな視線を彼女に送った。
(ハート君、朝から実に見苦しい。風邪か? それとも……)
「うぅ、なんか昨日から鼻がムズムズするのよね。
……あれ? ホームズ、あなたその足、どうしたの?」
ハートが指差したのは、ホームズの白い前足だった。
そこには、まるで黒いインクでも踏んだかのような、
奇妙な煤の汚れが付着していた。
(む……? 私は昨日から一歩も外へ出ていないぞ)
ホームズは己の前足を凝視し、即座に鼻を近づけた。
ツンと鼻を突く、かすかな硝酸の臭い。
そして──あの、甘ったるくも冷徹な、
脳の裏側を痺れさせるような香気。
(この匂い……モリアーティ……!)
ホームズの背中の毛が逆立つ。
犯人は、昨夜この部屋に侵入したのだ。
名探偵の鼻を欺き、足跡だけを残して。
「あ、もしかして泥棒!? 大変、ベランダの鍵は……」
慌てて窓へ駆け寄るハート。
しかし、鍵は厳重に閉まったままだ。
(いや、ハート君。窓ではない。
奴が通ったのは──あそこだ)
ホームズはリビングの片隅にある、
今は使われていない古い暖炉の煙突を見上げた。
床には、うっすらと白猫の毛が落ちている。
そして、その暖炉の縁には、
見慣れない小さな木箱が置かれていた。
「ねぇホームズ、これってあなたの新しいおもちゃ?
暖炉の上に置いてあったんだけど……」
ハートがその木箱を手に取る。
箱の表面には、イギリスの伝統的な紋章をパロディにしたような、
「猫の肉球」の焼き印が押されていた。
ホームズは鋭く吠えた。
「ワンッ! ワンッ!」
(触るな、ハート君! 罠かもしれない!)
「え? 開けろって? よーし、開けちゃうぞ〜」
(なぜそうなる……! 私の警告のトーンを少しは学習したまえ!)
ホームズの焦りを余所に、ハートはパカッと箱を開けた。
中に入っていたのは、爆弾でも毒薬でもなかった。
そこにあったのは、丁寧にラッピングされた「黒いドーナツ」。
竹炭でも練り込まれているのか、
不気味なほど真っ黒なドーナツが一つ、鎮座していた。
そしてその中央の穴には、丸められた小さな紙切れが突き刺さっている。
「わぁ、美味しそう! ……じゃなくて、
これって『シャーロック・ドーナツ』の新作?
でも、なんでうちの暖炉に?」
ハートは首を傾げながら、穴に刺さっていた紙切れを引き抜いた。
「なになに? 『親愛なる宿敵へ。
新メニューの試食会を、今夜零時、時計塔の真下にて執り行う。
遅れぬことだ。
──M』……えっ、Mって誰?」
ホームズは
(犬の短い爪で器用に)
床をガリガリと引っ掻いた。
(モリアーティ……! 案の定、私を挑発しているな。
犬の姿になった私を、あざ笑うかのように!)
ハートはスマホを取り出し、
写真フォルダを高速でスクロールし始めた。
彼女の眼球が、恐るべき速度で動く。
「写真記憶」
のスイッチが入ったのだ。
「M……M……。あ、この筆跡!
警察の指名手配データベースにある、
数年前の国際詐欺グループのボスが残したサインの癖にそっくり!」
(ほう……?)
ホームズは少し見直した。名前は覚えられずとも、
視覚情報の合致能力だけは、
スコットランドヤードの無能な刑事たちより遥かにマシだ。
「よし! 今夜零時、時計塔ね! 犯人はきっと、
この『M』っていう国際派のイケメン詐欺師よ!
フラれた腹いせに時計塔を爆破する気ね!」
(……なぜ毎回、犯人を恋愛体質にしたがるんだ、君は)
ホームズは深くため息をついた。
動機は完全に的外れだが、向かうべき目的地は一致した。
その夜、11時45分。
街の喧騒が消え失せた深夜のロンドン。
霧がうっすらと立ち込める中、ハート刑事とホームズは、
街のシンボルである古い時計塔の前に立っていた。
「うぅ、寒い……。ホームズ、本当にここで合ってるの?」
ハートはトレンチコートの襟を立てながら、周囲を警戒する。
時計塔の針が、ゆっくりと重なり合っていく。
ボーン……ボーン……。
午前零時を告げる鐘の音が、夜の街に響き渡った。
その瞬間、ホームズの耳がピクリと動いた。
時計塔の入り口の影から、音もなく滑り出てくる影があった。
月光に照らされたのは、やはりあの白猫。
オッドアイの瞳を妖しく光らせ、
時計塔の階段の上から、見下ろすようにホームズをじっと見つめている。
(……モリアーティ)
「あ! 白猫ちゃん! あなた、この間の……」
ハートが声をかけた瞬間。
白猫は小さく「ニャア」と鳴いた。
それは猫の鳴き声というよりも、
明確な意志を持った「合図」のように聞こえた。
直後、時計塔の内部から、ガチガチと不気味な機械音が響き始めた。
いつもとは明らかに違う、急速に早まるギアの回転音。
ホームズは本能的に察知した。
(ハート君、退け! 試食会などというのは、ただの罠だ!)
「キャッ!?」
ハートの悲鳴と同時に、時計塔の文字盤の裏側から、
激しい火花が飛び散った!




