Episode 22:後編
Episode22 後編
テムズ川沿いの貿易倉庫街。
濃い霧が川面をゆっくりと覆い、石畳には朝露が残っていた。
古びたレンガ造りの倉庫が並び、車の車輪跡だけが静かに伸びている。
その一角で、一人の男が落ち着きなく辺りを見回していた。
「こちらです。刑事さん。電話したのは私です」
ハートは胸を張って歩み寄る。
「こんにちは。紅茶会の会場はこちらですか」
管理人は目を丸くした。
「……えっ」
「刑事さんですよね。」
ハート刑事は、迷いなく。
「ハイと答えた。」
刑事さん聞いて下さい。
今朝、見たら、鍵はかかっていたのに、今週入荷したばかりの最高級ダージリンの茶葉──通称**「ドラゴンの鱗」が、100コンテナ分まるごと消えてるんです。
ポケットの中でホームズが両前足で顔を覆う。
(違う。事件現場だ)
倉庫へ入った瞬間、ホームズの鼻先がぴくりと震えた。
焦げた鉄。
湿った木材。
そして。
ほのかに漂う上質なダージリンの香り。
頑丈な鉄扉には傷一つない。
鍵も壊されていない。
それなのに百個のコンテナだけが跡形もなく消えていた。
床には円形の焦げ跡が規則正しく並んでいる。
(……奇妙だ)
(焦げ跡は無作為ではない)
ホームズは小さな足で焦げ跡を一つ一つ歩き始めた。
やがて鼻先を床へ近付ける。
(鉄だけが異常に高温で焼かれている)
(木箱は燃えていない)
(つまり炎ではない)
ハートもしゃがみ込んだ。
「ホームズ。見て」
床には赤茶色の粉で三文字だけ書かれていた。
T
E
A
「やっぱりよ」
「これは紅茶好きの犯人からのメッセージね」
「最高級の茶葉を飲みながら優雅な午後を過ごしたかったのよ」
(……いや)
(そこまで優雅な犯人なら百コンテナも盗まん)
ホームズはため息をついた。
しかし。
その瞬間だった。
ハートが何気なく焦げ跡の間へ立つ。
「あれ」
「この位置から見ると」
「丸が全部きれいに一直線に見えるわ」
ホームズの耳がぴくりと動く。
(一直線)
(そうか)
彼は一気に駆け出した。
焦げ跡は単なる円ではない。
入口から見ると意味を持たない。
しかし中央から見ると。
一本の導線になる。
その延長線上には巨大な給排水バルブが有った。
(これだ)
ホームズは勢いよく吠える。
「ワンッ」
ハートは笑顔になる。
「なるほど」
「お水が飲みたいのね」
(違う)
「でも」
「せっかくだから見てみましょう」
(結果オーライだ)
匂いをたどりながら、
二人は、歩いた。
その先で、金属音が響いた。
奥では数人の男たちが巨大な装置を組み立てている。
積み上げられた木箱には消えたはずの最高級ダージリン。
その横には見慣れない熱線発生装置。
「あと十分で精製完了だ」
「この茶葉に含まれる特殊成分を抽出すれば高効率燃料になる」
ホームズの瞳が鋭く光る。
(馬鹿なことを信じたのか、エイプリルフールのジョークなのに)
(紅茶そのものが目的ではなかった)
その時。
男の一人が振り返った。
「誰だ」
ハートが一歩前へ出る。
「ロンドン市警です」
「その紅茶は返していただきます」
男たちは一斉に熱線照射器を構えた。
赤い光が収束する。
(危ない)
ホームズは全力で走った。
短い脚とは思えない速度だった。
近くに積まれていた缶へ体当たりする。
ガンッ。
缶が宙を舞う。
熱線が缶へ命中した。
缶は弾け飛び。
中の茶葉が吹雪のように舞い上がる。
その一瞬。
ホームズは消火設備の鎖へ飛びついた。
ガシャン。
次の瞬間。
天井から大量の水が降り注ぐ。
茶葉。
水。
蒸気。
倉庫中が琥珀色の香りに包まれた。
熱線装置は火花を散らして停止する。
床は一瞬で滑りやすくなった。
「しまっ」
男たちは次々と転倒した。
そこへ。
「えいっ」
ハートの一本背負い。
「それっ」
払い腰。
「まだまだ」
巴投げ。
紅茶まみれの窃盗団は次々と床へ転がっていく。
数分後。
倉庫は静けさを取り戻した。
管理人は涙ぐみながら頭を下げる。
「ありがとうございます」
「もう駄目かと思いました」
ハートは笑顔で答えた。
「ホームズのおかげです」
ホームズは少し照れくさそうに鼻を鳴らした。
その時。
梁の上から視線を感じる。
白い猫だった。
パッチリとした瞳。
優雅なしっぽ。
ホームズは静かに見つめ返す。
(……貴様か)
(また一歩先を歩いている)
(今回も私を試したというわけだな)
白猫は小さく喉を鳴らす。
そして霧の向こうへ音もなく姿を消した。
「ホームズ」
「事件も終わったし」
「本当に紅茶を飲みに行きましょう」
ホームズは小さく笑う。
(やれやれ)
(君は最後まで事件より紅茶か)
(だが)
(今日の一杯は悪くない)
夕暮れのテムズ川。
霧の中を一人と一匹がゆっくり歩いていく。
琥珀色の香りが風に溶ける頃。
小さな名探偵は胸の奥で静かに確信していた。
モリアーティの残した迷宮は。
まだ始まったばかりなのだと。




