Episode 21:後編
Episode 21:後編
真夜中の美術品と、甘い迷宮
(LABYRINTH)
ベアトリスをマダムへ無事に引き渡し。
ようやく一件落着。
そう思われた。
しかし、ホームズの鼻先には、まだ一つだけ消えない違和感が残っていた。
(違う。)
(まだ終わっていない。)
鼻をゆっくりと床へ近づける。
石造りの廊下。
古い木材。
展示ケースの防腐剤。
ワックス。
来館者の靴底。
様々な匂いが重なっている。
その中に。
一本だけ異質な匂いが混じっていた。
合成油。
それも。
極めて特殊な溶剤。
(……この匂い。)
(忘れるはずがない。)
以前。
贋作事件で嗅いだ。
特殊顔料を固着させるための溶剤。
美術修復師しか扱わない代物だった。
ホームズは迷わず地下へ向かう。
匂いは一直線に続いている。
地下修復室。
閉ざされた扉。
その僅かな隙間から、灯りが漏れていた。
ホームズは静かに中を覗く。
修復台の上には。
展示されていたはずのエジプト王朝の宝飾品。
そして。
その隣には。
寸分違わぬ精巧な複製品。
修復師の男は、小さく笑った。
「これで誰も気付かない。」
「本物は俺のものだ。」
慎重な手つきで本物を箱へ収める。
代わりに複製品を展示用ケースへ戻す。
その手際は鮮やかだった。
(やはり。)
(盗難ではない。)
(完全なすり替え工作。)
ホームズはさらに男の行動を見る。
男は周囲を見回し。
何かを隠す場所を探していた。
その瞬間。
一つの光景が頭の中で繋がる。
(そうか。)
(ベアトリスは偶然ではない。)
搬入口。
石棺。
怯えて震えるポメラニアン。
あれは。
男が作業の邪魔になる犬を適当に追い払った結果だったのだ。
「ホームズ。」
「また勝手にどこ行ったのよ。」
勢いよく駆け寄ってきたハート刑事。
扉の隙間から中を覗く。
数秒。
沈黙。
そして。
「分かったわ。」
ホームズは少しだけ期待した。
だが。
その期待は。
一瞬で砕け散る。
「あの人。」
「展示品を磨き過ぎてるのね。」
「歴史ある輝きを消そうとしているんだわ。」
「なんて恐ろしい。」
「これは歴史的芸術への冒涜よ。」
ホームズは心の中だけで深くため息をつく。
(違う。)
(違い過ぎる。)
(推理が銀河系まで飛躍している。)
しかし。
ハート刑事は止まらない。
「芸術を守るため。」
「逮捕よ。」
勢いよく扉を蹴り開けた。
大きな音が地下へ響く。
修復師は飛び上がる。
「しまった。」
男は宝飾品を放り投げると、一目散に走り出した。
「待ちなさい。」
ハート刑事も全力で追う。
ホームズも駆け出した。
地下通路は複雑だった。
右。
左。
階段。
隠し通路。
修復室同士を結ぶ細い廊下。
まさに巨大な迷宮。
犯人は慣れた足取りで逃げていく。
「えっ。」
「こっち。」
「違う。」
「あっち。」
「ええっ。」
ハート刑事は角を曲がるたび迷う。
ホームズは必死に吠える。
(このままでは逃げられる。)
その時だった。
暗い廊下の先。
白い尾が揺れた。
白猫。
モリアーティ。
まるで最初から待っていたかのように。
静かにこちらを見る。
そして。
逃げる犯人の足元を優雅に横切る。
男は驚き、一瞬だけ足を止めた。
白猫は振り返らない。
ただ。
一本奥の通路へ曲がっていく。
(……誘っている。)
(なぜだ。)
(奴なら犯人を逃がすこともできる。)
(それなのに。)
(こちらへ導いている。)
ホームズは迷わなかった。
ハート刑事の裾へ飛びつく。
「ワン。」
「ホームズ。」
「あっちなの。」
ホームズは再び吠える。
ハート刑事は頷く。
「分かった。」
二人は白猫の消えた通路へ飛び込んだ。
そして、次の角を曲がった瞬間。
犯人が真正面へ飛び出してきた。
「えっ。」
「うそだろ。」
前、ハート刑事。
後、ホームズ。
左右、壁。
完全な袋小路だった。
「行き止まりよ。」
「観念なさい。」
男は静かに膝をついた。
事件は終わった。
騒ぎが落ち着く。
その時。
ホームズは展示ケースの上を見る。
そこには、白猫モリアーティ。
静かに座り、瞳だけが輝いていた。
(……モリアーティ。)
(私を助けたのか。)
すぐに首を振る。
(違う。)
(奴は善でも悪でもない。)
(勝敗にも興味はない。)
(ただ。)
(ゲームが退屈になることだけを嫌う。)
白猫は。
ほんの少しだけ鼻を鳴らした。
まるで。
「今日は君の勝ちだ。」
そう告げるように。
次の瞬間。
白い影は闇へ溶けた。
「やったわ。」
「ホームズ。」
「あなたのおかげで事件解決よ。」
ハート刑事は満面の笑みでホームズを抱き上げる。
ホームズは小さく鳴いた。
「ワフ。」
鼻先には。
犯人の残した合成油。
そして。
白猫だけが残していった。
甘く。
どこか気品を感じさせる香り。
二つの匂いは。
交わることなく。
まるで一本の見えない糸となって。
ロンドンの夜へ消えていく。
(迷宮は終わらない。)
(奴はまた現れる。)
(そして。)
(次の事件もまた。)
(きっと私の前へ運んでくる。)
ロンドンの夜は静かに更けていく。
ポケット・ビーグル探偵と。
少しだけ推理がズレている。
けれど誰よりも正義感の強いハート刑事。
そして、霧の向こうで静かに笑う白猫モリアーティ。
こちらでの奇妙なゲームは。
まだ始まったばかりだった。




