Episode 21:前編
Episode 21:前編
消えたマダムの迷子犬と、オペラ座の怪人
ロンドンにも、ようやく穏やかな春が訪れていた。
連続暗号事件が終わり、街を騒がせていた奇妙な事件もひとまず鳴りを潜めている。
スコットランドヤードでは、相変わらずハート刑事が
「連続事件を解決した英雄」
として持ち上げられ、
その相棒である小さなビーグル犬ホームズも、
署内ではすっかり人気者になっていた。
もっとも、その人気の理由は、
「新聞をくわえてくる賢い犬」
程度の認識なのだが。
テラスハウスの窓から柔らかな陽射しが差し込む午後。
ホームズはお気に入りのクッションの上で前足を揃え、
ゆっくりと目を閉じていた。
(……静かだ。)
(事件もない。)
(白猫の気配もない。)
(実に結構。)
犬として転生してからというもの、毎日のように走り回り、
吠え、新聞を噛み、アルファベットブロックを並べ続けた。
たまには探偵にも休日は必要である。
ホームズがそう考えた、その瞬間だった。
ピンポーン!
玄関ベルが激しく鳴り響いた。
ホームズは片目だけ開ける。
(……嫌な予感しかしない。)
「はーい!」
ハートが元気よく玄関を開ける。
飛び込んできたのは近所でも有名な資産家マダムだった。
大きな帽子は曲がり、高価そうなバッグを抱えたまま泣きじゃくっている。
「刑事さん!お願いですわ!」
「私のベアトリスがいなくなってしまったんですの!」
ハートは目を丸くする。
「ベアトリス?」
マダムは写真を差し出した。
そこには真っ白なポメラニアンが優雅に座っていた。
宝石のような首輪。
丁寧に整えられた毛並み。
いかにも大切に育てられていることが伝わってくる。
「明日、お茶会がありますの!」
「ベアトリスがいなければ始まりませんわ!」
ハートは胸を叩いた。
「安心してください!」
「どんな事件でも全力です!」
「行くわよ、ホームズ!」
ホームズはゆっくり立ち上がった。
(国際犯罪組織の次は迷子犬か。)
(人生とは実に予測不能である。)
ナショナル美術館前。
休日ということもあり、多くの観光客で賑わっていた。
ホームズは地面へ鼻を近づける。
高級シャンプー。
花の香水。
焼きたてのパン。
子どものアイスクリーム。
犬。
犬。
また犬。
(……しまった。)
(今日は散歩中の犬が多すぎる。)
何十匹もの匂いが重なり、
肝心のベアトリスの匂いが途切れてしまう。
ビーグルの優れた嗅覚が、逆に仇となっていた。
ホームズは思わず顔をしかめた。
その様子を見たハートがしゃがみ込む。
「ホームズでも分からない?」
(今日は無理だ。)
(匂いが混ざりすぎている。)
美術館裏手。
搬入口。
そこにはポメラニアンの首輪だけが落ちていた。
ハートは地面に落ちていた首輪を拾い上げた。
「やっぱり!」
「誘拐事件よ!」
ホームズは周囲を見回す。
首輪は新しく外されたばかり。
するとハートは写真をじっと見つめ始めた。
何十秒も。
何も言わずに。
ホームズは首を傾げる。
「……おかしい。」
ハートがぽつりと言う。
(何か気付いたか?)
「この首輪。」
ホームズは耳を立てる。
「昨日撮った写真では傷なんて無かった。」
(その通りだ。)
「なのに今日は……」
「ここ。」
小さな革の擦り傷。
金具にも新しい引っかき傷が付いている。
ホームズは驚いた。
(よく見ている。)
(さすが写真記憶だ。)
ハートは真剣な顔で腕を組む。
「つまり。」
ホームズは固唾を飲む。
「ベアトリス。」
「レスリングを始めたのね。」
ホームズはその場に崩れ落ちそうになった。
(観察は満点。)
(結論だけ零点だ。)
しかし、その時だった。
風向きが変わる。
ホームズの鼻先へ、かすかな匂いが流れ込んできた。
高級シャンプーではない。
油だ。
独特の人工的な匂い。
(……これは。)
(合成油。)
以前、美術品贋作事件で嗅いだ特殊な溶剤。
この美術館でしか使われない修復用薬品の香りだった。
ホームズはゆっくり歩き始める。
ハートも後を追う。
地面には小さな肉球。
そして。
重い木箱を運んだような車輪の跡。
(犬だけではない。)
(何かを運び込んでいる。)
ハートは床を見つめたまま動かない。
「……変ね。」
ホームズが見る。
ハートは床の細かな擦り傷を指差した。
「展示ケースが動いてる。」
(何?)
「先日ここを通った時、この傷は無かった。」
ホームズは目を見開く。
(覚えているのか。)
「つまり。」
ホームズは期待した。
「掃除のおじさんが頑張った!」
ホームズは天を仰いだ。
(だから結論だけ違う!)
その時。
館内の奥から。
「キャン!」
小さな犬の鳴き声。
ホームズの耳がぴくりと動く。
ハートも顔を上げた。
「ベアトリス!」
二人は地下搬入口へ飛び込む。
石造りの通路はひんやりとしていた。
古代エジプト展。
巨大な石像。
壁画。
ミイラ。
静まり返る展示室。
再び鳴き声が聞こえる。
石棺の奥だった。
ハートが蓋を開ける。
「いた!」
中ではベアトリスが小さく丸くなって震えていた。
「良かった!」
抱き上げられたベアトリスは嬉しそうに尻尾を振る。
ホームズは安心しかけた。
しかし。
鼻先に残る合成油の匂いは、さらに濃くなっていた。
(違う。)
(迷子犬は終わった。)
(だが事件は終わっていない。)
展示室の奥。
修復室へ続く通路。
誰かが数分前までここにいた。
そんな新しい匂い。
そして。
もう一つ。
ホームズだけが知っている、甘く上品な香り。
ホームズはゆっくり顔を上げた。
石像の肩。
月明かりが差し込む高い窓。
そこには一匹の白猫が静かに座っていた。
左右で色の違う瞳。
こちらを見下ろす冷たい眼差し。
白猫モリアーティ。
今回の事件に手を貸した様子もない。
邪魔をした形跡もない。
ただ。
舞台の観客のように、ホームズたちを眺めているだけだった。
ホームズは低く唸る。
(……何を見ている。)
白猫は何も答えない。
静かに立ち上がると、月光の中へふわりと跳び上がった。
次の瞬間には、その姿は窓の向こうへ消えていた。
「今、白い猫がいた?」
ハートが窓を見上げる。
「この美術館って、幽霊猫が出るって噂、本当だったのかな。」
ホームズは小さく息を吐いた。
(幽霊ではない。)
(奴は確かに、この街にいる。)
(そして、巨大な陰謀だけではなく、こんな小さな日常まで眺め始めた。)
ハートはベアトリスを優しく抱きしめる。
「帰ろう、ホームズ。」
「マダムが心配してる。」
ホームズは最後にもう一度だけ窓を見た。
白猫の姿はもう無い。
だが。
甘い香りだけが、夜風に溶けるように残っていた。
(……やれやれ。)
(どうやら本当の平和は、まだ少し先らしい。)




