Episode 20:後編
Episode 20:後編
完全に包囲されたヤード
大雨がロンドンの街を叩きつける午前11時45分。
ハート刑事の強い決意(と壮大な勘違い)によって連れてこられたスコットランドヤードは、不気味なほどの静寂に包まれていた。
「……おかしいわ。誰もいない」
ハートが薄暗い廊下を進む。彼女の腕の中でようやく目を覚ましたホームズは、寝ぼけ眼をこすりながらも、周囲の空気に含まれる異変を即座に察知した。
(……む、ここはヤードの地下か? 睡眠不足は解消したが……待て! この焦げ臭いにおいは、ホストコンピューターの基盤が異常発熱している臭いだ!)
ホームズはハートの腕から飛び降りると、最深部にあるメインサーバー室の重い鉄扉へと駆け寄った。
扉の隙間から漏れ出す青白い光。中では、モリアーティの息がかかった最高幹部のハッカーたちが、ヤードの全犯罪者データベースを永久に消去し、自分たちの過去の罪状をすべて白紙に書き換える「最終コード」を流し込んでいた。
「クソ警察どもめ、あと15分でロンドンの正義は我らのものだ!」
「そこまでよ! ロンドン市警が相手をするわ!」
ハートが鋭く銃を構えて突入する。しかし、幹部たちは不敵な笑みを浮かべ、サーバー室の防壁シャッターをガラガラと閉め出した。
「無駄だ! この部屋のセキュリティは最高水準。解除コードは、我が組織の4人のボスしか知らない分割暗号だ。お前たちに破れるわけがない!」
(厚さ30センチの強化鋼鉄扉……! 物理的に破壊するのは不可能だ!)
万事休すかと思われたその時、ハートの脳内で、これまでの大事件の光景が走馬灯のように激しくフラッシュバックした。
旧救貧院のチェス盤に刻まれた「ナイトの爪痕」。
オペラ座のコンソールに流れた「周波数の数列」。
中央銀行の地下で見つかった「偽札のシリアルナンバー」。
電波タワーのジャミング波が描いた「同心円のバグ」。
そして──今朝、ホームズが寝落ちしながらタブレットに打ち込んだ『M-O-R-I-A-R-T-Y』の文字の裏に残されていた、肉球のタッチ位置のノイズデータ。
「……あ! 繋がったわ!」
ハートの瞳が、覚醒したように見開かれる。
「犯人たちが残した4つの暗号、そしてホームズが命懸けで『守りなさい(Mamorinasai)』と遺したあの自白コード……。
全部のデータを脳内で一列に重ね合わせると……これ、ヤードのバックアップシステムを強制復旧させる『世界で唯一のグランド・マスターコード』だわ!!」
(……何だと!? 私の寝返り入力のデータが、過去の事件の全暗号を結合するミッシング・リンクになっていたのか!!)
「ホームズ、今よ! 充電の復活したタブレットの端子を、その扉の非常用ポートに接続して、あなたの肉球で『守りなさい』のステップを踏むのよ!」
(合点承知! ロンドンの平和は、この私が守る!)
「ワンッ!!!」
ホームズはジャケットのポケットから飛び出した液晶タブレットを前足でキャッチし、扉の横にあるアクセスポートへと、内蔵のコネクタを咥えて力任せに突き刺した。
そして、今朝ベッドの上で寝返りを打ったあの「奇跡のリズム」を再現するように、画面上のキーボードを肉球で「トントン、スライド、長押し」と正確にタップしていった。
ビーーーーッ!!!
【グランド・マスターコード承認。全システム、強制復旧を開始します】
「な、何ぃっ!? 閉ざされたはずのデータが……逆流して復元されていく!?」
シャッターの向こうでハッカーたちが絶叫する。
次の瞬間、ガチャン! と音を立てて強化鋼鉄の防壁が完全に開放された。画面には眩いばかりの「DATA PROTECTED(正義の死守)」の文字が躍る。
「おのれ、よくも……!」
武器を手に襲いかかってくる組織の残党たち。
「てりゃぁぁぁーーーーっ!!!」
ハート刑事の容赦のない、怒濤の連続回し蹴りと一本背負いが、狭いサーバー室の中で鮮やかに炸裂した。
ドガッ! バキィィィン! ドカシャーーーン!!
ロンドンの街を脅かし続けた犯罪組織の最高幹部たちは、一網打尽にされ、床へ無様に転がっていった。
「ふぅ……! 連続暗号事件、これにて完全に幕引きよ、ホームズ!」
窓の外から差し込む、大雨のあとの澄み切った朝の光。ハートは倒れた男たち全員に手際よく手錠をかけ、満足そうに胸を張った。
ホームズがふと、サーバー室のメインモニターの裏側、冷たい光が乱反射するガラス窓の向こうに視線を向けると──
そこには、朝日に輝く美しい白い毛並みを揺らしながら、悠然と座る一匹の白猫モリアーティが佇んでいた。
奴は、自分の組織の全精鋭が、ホームズの「寝落ち」から始まった驚異の連携によって文字通り根こそぎ叩き潰されたというのに、悔しがるどころか、どこか愛おしそうにフッと喉を鳴らし、オッドアイを細めた。
そして、まるで「見事なゲームだったよ」と称えるかのように静かに一礼すると、光の霧の中に完全にその姿を消し去った。
(モリアーティ……組織を失おうとも、貴様はまだこの街のどこかで、次のゲームの盤面を整える気だな。いいだろう、この凸凹な相棒がいる限り、貴様の悪意にロンドンが屈することは絶対にない)
「終わったわね、ホームズ! 最高の『守りなさい』をありがとう!」
ハートがホームズを力いっぱい抱き上げ、顔中をくしゃくしゃに撫で回す。
(……やれやれ。何度も言うが『モリアーティ』だ。まぁ、すべての正義が守られたのだから、今回の素晴らしい超翻訳にも、最高の栄誉を授けてあげるとしようかね、ハート君)
「ワン!」と気高く、そして誰よりも頼もしく一鳴きする名探偵。
ロンドンの夜明けを告げる美しい光の中、噛み合わない二人の最強のコンビネーションは、世界で一番完璧な正義のメロディを響かせるのだった。




