Episode 16:後編
Episode 16:後編
不条理のクロスロードと、論理の爪痕
爪痕が示す「ミッシング・リンク」
(ハート君、動物保護センターではない!
その裏手にある『ベーカー街の旧救貧院』だ!)
深夜の冷たい雨がロンドンの石畳を濡らす中、
ホームズはハート刑事の腕からすり抜け、
漆黒の闇に包まれたレンガ造りの廃墟へと迷いなく突き進んでいた。
「ちょっとホームズ、
そっちは保護センターの敷地外よ! ……あれ? でも、
この建物の鉄扉……」
ハートの驚異的な「写真記憶」のライトが、
錆びついた扉のノブを捉える。
そこには、今朝リビングの絨毯に刻まれていたものと全く同じ角度、
同じ深さの「三本の鋭い引っ掻き傷」が残されていた。
「これ……さっきの白猫の爪痕と、
ミリ単位で完全一致だわ! あいつ、
やっぱりただの猫じゃない。私をここに誘い込んだのね!」
(ようやく気づいたか! そうだ、
奴はあえて痕跡を残し、私をこの最終決戦の舞台へと招いたのだ!)
不気味に軋む扉を押し開け、
二人は静まり返った廃救貧院の内部へと足を踏み入れた。
天才のチェスボード
建物の最奥、広大な中央ホール。
天井の割れたガラスから差し込む月光が、
床一面を照らし出していた。
そこに広がっていたのは、
言葉を失うほどの異様な光景だった。
床のタイルの模様を利用して作られた、
巨大な「実物大のチェスボード」。
そしてその白と黒のマスの各所には、
ロンドン中の主要建造物の模型や、これまでの事件の証拠品が、
まるで取られた駒のように直角に整列させられていた。
『ニャア』
チェスボードの最奥、「キング」のマスに見立てられた高台の上。
冷徹なオッドアイをギラつかせた白猫モリアーティが、
威風堂々と座っていた。奴の背後には、
ロンドン全域のインフラを物理的に爆破するための、
巨大なメインサーバーとダイナマイトの束が設置されている。
(モリアーティ……! ここですべての決着をつける気か!)
「動かないで! ロンドン市警よ!」
ハートが銃を構えた瞬間、天井の梁から、
モリアーティの手下の男たちが一斉にロープで舞い降りてきた。
「ハハハ! 迷い込んできたな、
マヌケな女刑事とマヌケな犬め! ここがお前たちの墓場だ!」
(多勢に無勢、おまけに足元は複雑なチェス盤のトラップ。
だが、奴の『癖』は今朝の妨害の瞬間に完全に見切っている!)
写真記憶の「キャット・トラップ超解釈」
「ホームズ、危ない!」
男たちが迫る中、ハートの脳内で、
今朝白猫にめちゃくちゃに崩された
「アルファベットブロックの散らばり方」の映像がフラッシュバックした。
「……あ! 分かったわ!」
ハートが鋭く叫び、チェスボードの床を指差した。
「あの白猫が今朝、
ブロックを引っ掻き回したときの
『肉球の軌道』と『弾き飛ばした文字の順番』
……あれは、この巨大チェス盤の
『安全なルートを示す、
ナイト(八方跳び)の動き』の暗号だったんだわ!」
(……何だと!? 奴がブロックを崩したのは、
妨害であると同時に、
私への極上の『挑戦状(パズルの提示)』だったというのか!?)
「つまり、黒いマスを『ナイト』の歩幅でジャンプして進めば、
敵の仕掛けた感圧式の地雷を踏まずに、
あの爆弾の裏へ回り込める! ホームズ、
今朝の『B』から『A』へ飛んだルートよ! 翔びなさい!」
(素晴らしい! 宿敵の『最大の嫌がらせ』の裏にあった
『絶対的なゲームのルール』を、彼女の写真記憶が完璧に紐解いた!)
決戦のチェックメイト
「ワンッ!!!」
ホームズは地を蹴った。
ハートの指示通り、
チェスボードの白いマスを避け、
黒いマスから黒いマスへと、
まるで見えないチェスの駒になったかのように鋭く、
不規則な軌道でジグザグに跳躍していく。
「な、なんだあの犬の動きは!? 照準が絞れん!」
翻弄される手下の男たちが、焦って引き金を引くが、
ホームズの影すら捉えられない。それどころか、
男たちが慌てて踏み出した足が、
白いマスに仕掛けられていた感圧トラップを起動させてしまう。
チチチチ……! と火花を散らす催涙ガス爆弾。
「うわあああっ! 目が、目がぁぁぁ!」
自滅していく男たちを尻目に、
ホームズは一瞬で最奥の高台へと到達した。
メインサーバーの配線に牙を突き立て、
主電源のケーブルを力任せに引きちぎる!
スパーク!!!
激しい火花と共に、爆弾のデジタルタイマーが完全に消灯し、
ロンドン爆破のカウントダウンは永遠に停止した。
「てりゃぁぁぁーーーっ!!」
同時に、安全ルートを駆け抜けてきたハート刑事の、
容赦のないスライディングタックルが、
残った主犯格の男の足を完璧に払う。
ドガシャーーーン!!
「確保よ! これでチェックメイトね!」
ハートが手錠をガチリと嵌め、勝利の雄叫びを上げた。
5. 霧の彼方の好敵手
静寂を取り戻した廃墟のホール。
ホームズがハッとして高台の「キング」のマスを見上げると、
そこにはもう白猫の姿はなかった。
ただ、奴が座っていた場所の床に、
爪で深く『 H 』の文字だけが刻まれていた。
シャーロック・ホームズ(Holmes)の、H。
(モリアーティ……。
やはりお前は、私が犬になろうとも、
その知性を認め、この命懸けのゲームを楽しんでいるのだな。
だが、次にその首輪を掴むのは、この私だ)
ホームズは月光に向かって、気高く、
そしてどこか哀愁を帯びた遠吠えを響かせた。
「よくやったわね、ホームズ! あの白猫、
やっぱりあなたに『降伏のサイン(Help)』を残していったのね!
次に見つけたら、絶対にうちで引き取って、
あなたと仲良くさせてあげるんだから!」
ハートがホームズを抱き上げ、顔中をくしゃくしゃに撫で回す。
(……いや、あれは降伏ではなく宣戦布告だ。
それに、奴を我が家に迎え入れたら、
このテラスハウスは一日で木っ端微塵になるぞ、ハート君)
しかし、ホームズは確信していた。
どれほど宿敵が冷酷な知略を巡らせようとも、
己の「完璧な論理」と、
このバディの「常識破りの直感」が重なり合う限り、
ロンドンの街に敗北の文字が刻まれることは決してないのだと。
「ワン!」と力強く鳴く名探偵を小脇に抱え、
熱血刑事は霧深いベーカー街へと凱旋していくのだった。




