Episode 16:前編
Episode 16:前編
引っ掻かれた論理と、
漆黒の宣戦布告完璧なチェックメイトの手前で
その日の夜、ロンドンは不気味なほど静まり返っていた。
ハート刑事のテラスハウスのリビングでは、
ホームズがかつてないほどの緊張感をもって、
絨毯の上にアルファベットブロックを並べていた。
これまでの15の事件。
そのすべてのピースを脳内で繋ぎ合わせたホームズは、
宿敵モリアーティが潜む「最終アジト」の正確な住所を、
ついに突き止めていたのだ。
(見つけたぞ、モリアーティ。貴様の潜伏先は……ロンドン東区、
ベーカー街の裏手にある廃業した救貧院だ!)
前足と鼻先をミリ単位の精度で動かし、並べた文字は──
[ B - A - K - E - R - S - Y - L - U - M ]
(ベーカー・アサイラム / ベーカー街の救貧院)
「ワンッ!」
完璧な推理の証明。ホームズは満足げに胸を張り、
キッチンで夜食のココアを淹れているハート刑事を呼び寄せようとした。
──その、刹那だった。
開けっ放しになっていた窓の隙間から、音もなく、
一筋の白い影がリビングへと滑り込んできた。
白い悪魔の強襲
(……む!?)
ホームズが振り返るより早く、
その白猫モリアーティは絨毯の上へ音もなく着地した。
奴のオッドアイが、冷酷な知性の光を湛えてホームズを射抜く。
『フシャァァァッ!!』
白猫は低く威嚇の声を上げると、電光石火の素早さで、
ホームズが並べたばかりのブロックの列へと躍り出た。
容赦のない鋭い爪が空を裂き、
完璧に整列していたアルファベットを次々と弾き飛ばす!
ガラガラガラガラッ!!!
『B』がテレビの裏へ飛び、『A』がソファーの下へ転がり、
『K』が粉々に割れる。
ホームズが
「貴様ぁー!」と飛びかかるよりも早く、
白猫は絨毯をめちゃくちゃに引っ掻き回し、
名探偵が命懸けで導き出した
「答え」を一瞬にしてカオス(混沌)へと叩き落とした。
そして、唖然とするホームズの目の前で、
白猫は最後に残った『M』のブロックを前足でちょんと踏みつけると
、嘲笑うかのように喉を鳴らし、再び夜の闇へと窓から飛び去っていった。
(……なんというスピード、そして的確さだ……!)
床に突っ伏したまま、ホームズは戦慄していた。
ただの気まぐれな猫のいたずらではない。
奴は明確に、自分が「文字を並べて思考していること」を理解し、
その住所がハート刑事に伝わるのを防ぐために、
ピンポイントで妨害してきたのだ。
(あの猫……ただのペットでも、
訓練された野良猫でもない。……ただ者ではない。やはり、
あいつ自身の脳細胞が……
あの『ジェームズ・モリアーティ』そのものなのだ……!)
バディの涙ぐましい「猫嫌い超翻訳」
「きゃああっ!? なに今の白い影!? ホームズ、大丈夫!?」
ココアのマグカップを持ったハート刑事が、
慌ててリビングに駆け込んできた。
彼女の写真記憶が、めちゃくちゃに散らばったブロックと、
窓辺に残された白い毛、
そしてホームズが呆然と見つめる
『M』の文字を瞬時に脳内にスキャンする。
「『M』……そして、散らばったおもちゃの惨状……。
……あーーーーっ!」
ハートはマグカップをテーブルに置き、怒りに肩を震わせた。
「分かったわ! あの白猫、
あなたに『果てしなき嫌がらせ(MALICE)』を仕掛けにきたのね!?」
(……お、珍しく『M』から悪意を連想したか? ハート君!)
「間違いないわ! あの猫は、
近所の狂暴なボス猫『モンスター・マックス(M)』よ!
縄張りを主張するために、あなたの自慢の積み木をめちゃくちゃにして、
マウンティングしにきたんだわ!
なんて陰湿なキャット・ウォーなの……!
よし、今日の臨検は、
あの白猫が逃げ込んだ
『ロンドン動物保護センター』の周辺に決まりね!」
ハートはホームズをぎゅっと抱き上げ、
「負けちゃダメよ、ホームズ!」と悔しそうに拳を握りしめた。
(違う! ボス猫の縄張り争いではない! 宿敵の宣戦布告だ!
なぜ君の脳内フィルターは、国家を揺るがす天才犯罪者の知略を、
すべて『ご近所のペットトラブル』に変えてしまうんだ!)
しかし、ホームズはハートの腕の中で、散らばったブロックの破片を凝視した。
バラバラになった文字の隙間から、
白猫の鋭い爪によって絨毯に刻まれた、
「三本の深い引っ掻き傷」が見えた。
その傷の角度は、奇妙なことに、
ある特定の方向を指し示していた。
(モリアーティ……。ブロックは崩したが、
私への『ヒント(挑発)』は残していったというわけか。
いいだろう、その勝負、受けて立つ!)
崩された論理の破片を胸に、
名探偵(犬)と熱血刑事は、
宿敵が待つ最後の決戦の地へと足を踏み出すのだった。




