Episode 10:前編
Episode 10:前編
消えた文字と、
残された癖静寂を破る通報
ロンドンの街に静かな朝が訪れたのも束の間、
ハート刑事のテラスハウスの電話がけたたましく鳴り響いた。
児童失踪──それも、誘拐事件の報せだった。
現場となったのは、下町の由緒ある邸宅。
被害者は、歴史ある玩具メーカーの令息である7歳の少年、
トビーくん。
「現場の子供部屋には、争った形跡は一切ないみたいなの。
ただ……」
現場に急行するパトカーの中で、
ハート刑事は事件の初期資料をめくりながら眉をひそめた。
「トビーくんが毎晩ベッドの横で遊んでいた、
『木製のアルファベットブロック』が、
箱ごと丸ごと消えているらしいわ」
(……何だと? 身代金目的の誘拐で、なぜ子供のおもちゃを奪う?)
助手席に座るホームズの耳がピクリと跳ね上がる。
文字のブロック。それは、
今のホームズにとって宿敵モリアーティやハートと対話するための、
唯一の『言語の武器』だった。犯人がそれを狙ったのだとしたら、
この事件には単なる物取り以上の、深い意味がある。
犯人が残した「不自然な1文字」
トビーくんの子供部屋は、持ち主を失ってひっそりとしていた。
ハート刑事が部屋の写真を「写真記憶」に収めるため、
スマホのシャッターを切る傍ら、
ホームズはベッドの足元へ素早く潜り込んだ。
(……む、この匂い。微かに残るレモン香料……。
やはり、モリアーティの手が回っているな。
だが、今回の実行犯は奴自身ではない。
もっと大柄で、動作の荒い人間の男だ)
ホームズの鋭い眼光が、クローゼットの影に転がっている
「たった一個のブロック」を捉えた。
犯人がブロックの箱を盗み出す際、慌てて落としていったものだろう。
そこにあったのは、アルファベットの『 M 』の文字。
しかし、そのブロックの置き方を見た瞬間、
ホームズの脳裏に電流が走った。
ブロックは、わざわざクローゼットの壁の角に対して、
寸分の狂いもなく平行に、垂直に置かれていたのだ。
(……ほう。慌てて落としたにしては、位置が綺麗すぎる。
これは落としたのではない。犯人は、
この『M』の文字を、自分の『奇妙なこだわり』に従って、
無意識に整列させて置いていったのだ!)
ホームズは生前の膨大な犯罪者データベースを検索した。
文字や物を並べるとき、極端な対称性や直角にこだわる、
ある特異な強迫観念を持った犯罪者。
(……思い出したぞ。かつてロンドンを騒がせた、
元時計職人の爆弾魔『精密屋・ジャック』。
奴はどんなに窮地に陥っても、
自分の周囲の物を直角に並べ替えないと気が済まない悪癖があった!)
さらにホームズは、その『M』のブロックの表面に鼻を近づけた。
高級なニスや木の香りに混じって、
ツンと鼻を突く「機械油」と「大量の小麦粉」の臭い。
(場所は特定したぞ、ハート君。
奴がトビーくんとブロックを隠しているのは、機械設備があり、
大量の粉が舞う場所──商店街の廃製粉工場だ!)
バディのロマンチックな超翻訳
「ワンッ! ワンワンッ!」
ホームズは『M』のブロックを前足で激しく叩き、
ハートの足元へすり寄った。
「どうしたの、ホームズ? その『M』のブロックが気になるのね。
えーっと、犯人が残した『M』……。……あ!」
ハート刑事はブロックと、
トビーくんの部屋の学習机の上にある「時間割表」を交互に見つめ、
いつものように拳をポンと叩いた。
「分かったわ! 『M』は『マリッジ(Marriage:結婚)』のMよ!」
(……は? なぜ誘拐事件から突然、
神聖な婚姻の話になるんだ、ハート君)
「きっと犯人は、トビーくんのお母さんに片思いをしていて、
結婚(M)を申し込んだけどフラれちゃったのね!
だから、その腹いせに子供を誘拐して、
お母さんの気を引こうとしてるんだわ! 犯人のアジトは、
お母さんと最初に出会った思い出の場所……
商店街の『ウェディングドレス専門店』の近くだわ!」
(……驚いたな。プロセスの妄想力は相変わらず壊滅的だが、導き出した『商店街の近く』という地理的結論だけは、私の『廃製粉工場』と完全に一致している!)
ホームズは深くため息をつきながらも、その頼もしすぎる(?)バディの背中を追って、部屋を飛び出した。
子供の命のタイムリミットは、刻一刻と迫っている。




