Episode 9:後編
Episode 9:後編
焦げ茶のトラップと、漆黒の包囲網
イカ墨の衣に隠された裏社会
(ハート君、トンカツを悠然と噛み締めている場合ではない!
カウンターの奥の男たち、そしてあの黒猫を見たまえ!)
ホームズの警告を余所に、
ハート刑事は「サクサクで美味し〜い!」と
、黒カツを口いっぱいに葬り去っていた。
だが、ホームズの鼻は、
厨房の奥から漂う不穏な気配を完全に捉えていた。
イカ墨の芳ばしい匂いの裏で、
電子部品が焦げるような、特異なオゾンの臭い。
(……リチウムイオンバッテリー、
そして遠隔起爆装置のグリスの臭いだ。
あの男たちが持っているアタッシュケースの中身は、
現金ではない。電波妨害用のEMP(電磁パルス)ボムだ!)
標的はおそらく、
このレストランの目と鼻の先にある
『ロンドン中央銀行』の地下金庫。
あの黒猫は、
モリアーティの作戦の推移を見届けるための
「動く監視カメラ」だったのだ。
黒猫が小さく鳴いた。
それを合図に、
黒いスーツの男たちがアタッシュケースを手に、
店外へ移動しようと立ち上がった。
写真記憶の「メニュー表超解釈」
「ごちそうさま! ……あ、そういえば」
ハートがようやくお皿を空にして、スマホを取り出した。
彼女の眼球が高速で動き、いつもの「写真記憶」のスイッチが入る。
「このお店のメニュー表のフォントの配置……どこかで見たのよね……。
えっと……あ、あった!」
彼女が画面に表示したのは、昨日警察署で共有されたばかりの、
国際武器密輸組織の「偽造パスポート」の指紋データだった。
「このお店のオーナーの名前と、
メニューの裏に小さく印刷されてるロゴの傾き……。
これ、密輸組織のコードネーム『ブラック・カッツ
(黒い猫たち)』の隠れ家のサインと、ミリ単位で一致してるわ!」
(……何だと?)
ホームズは仰天した。
『B-L-A-C-K-C-A-T』の文字列から、
彼女が「黒いカツの店」を連想し、
その店のメニューから
「密輸組織ブラック・カッツ」のデータへ直結したのだ。
(狂っている……解釈のステップが完全に狂っているが、
なぜかまた真実に辿り着いてしまった!)
「あの男たちが持ってるケース、
ただのビジネスバッグじゃないわ。取引よ!
ホームズ、捕まえるわよ!」
3. 黒猫の撹乱と、名探偵の肉球
「動かないで! ロンドン市警よ!」
ハートが席を蹴って銃を構えた。
「チッ、ポリ公か! ズラかるぞ!」
男たちが一斉に走り出す。その時、カウンターの上の黒猫が、
ハートの顔めがけて鋭い爪を立てて飛びかかった!
「キャッ!?」
(させんぞ、モリアーティの手先め!)
ホームズはテーブルから猛烈なジャンプを見せ、
空中で黒猫と激突した。
短い四肢でも、ビーグル犬の体重を乗せたタックルは強烈だ。
黒猫は体勢を崩し、床へ転がった。
しかし、黒猫はすぐさま体勢を立て直し、
店の外へ逃げようとする男たちの足元へ向かって、
床に置いてあった「ソースのボトル」を前足で器用にひっくり返した。
ドロリと広がる濃厚なトンカツソース。
追おうとしたハートのハイテクシューズが、
そのソースに乗ってツルリと滑る。
「うわわっ!? 滑る──!」
(ハート君、体幹を保て! 倒れるな!
奴らのアタッシュケースの信管は、
その右側のラッチ(留め具)だ!)
ホームズは滑っていくハートの足元に滑り込み、
自らの体をクッションにして彼女の進行方向を強引に変えた。
ハートは転倒を免れ、滑った勢いのまま、
アタッシュケースを持って逃げようとしていた男の背後へと
高速でスライディングする形になった。
「てりゃぁぁぁーーーっ!!」
ハートの強烈な足払いが、男の足首に見事に決まる。
ガッシャーーーン!!
男は派手に転倒し、手から離れたアタッシュケースが床に激突。
ホームズがすかさずその上に飛び乗り、
短い前足で起爆装置のバイパススイッチをグイと押し込んだ。
ジジッ……という音と共に、
EMPボムのインジケーターが赤から緑へと変わり、
安全に機能停止した。
漆黒の夜に響く遠吠え
「ふぅ……! 密輸犯、確保!
爆弾も止まったみたいね。よくやったわ、
ホームズ!」
ハートは男に手錠をかけ、ホームズをぎゅっと抱きしめた。
店外へ逃げようとした残りの仲間も、
ハートの通報で駆けつけた応援の警察官たちによって、
路地裏で一網打尽にされた。
ふと見ると、店の開いた窓の縁に、
あの黒猫が座っていた。
黒猫はホームズを一瞥すると、
まるで「今回はお前の勝ちだ」とでも言うように静かに頭を下げ、
夜の闇へと溶けていった。
その後ろ姿を見送るように、遠くの教会の尖塔の上で、
一匹の白猫のシルエットがゆらりと揺れて消えた。
(モリアーティ……。黒猫をチェスの駒に使うとは、
いよいよ本格的に私を追い詰める気だな。だが、
どんなに黒い影を差し向けようとも、
私とこのバディの光を遮ることはできん)
「ホームズ、やっぱりあなたの言う通り
『黒いカツ』の店に来て正解だったわね!
あなたの食いしん坊な直感って、
本当に事件を呼び寄せるんだから!」
ハートはホームズの頭をくしゃくしゃと撫でる。
(……だから、食いしん坊ではない。
私は『黒猫(BLACK CAT)』と文字を並べたのだ、ハート君。
……まぁ、命の恩人に免じて、
その分の『黒カツ』の端切れ一切れくらいは、
ご褒美として要求しても罰は当たるまいな)
ホームズは小さく「ワン」と吠え、
ハートのポケットから覗くお持ち帰り用の紙袋を、
じっと見つめるのだった。




