Episode 9:前編
Episode 9:前編
B-L-A-C-K-C-A-Tと、漆黒の誤算、新たなチェスの駒
ここ数日のロンドンは、不気味なほど静かだった。
しかし、シャーロック・ホームズの天才的な直感は、
それが「嵐の前の静けさ」であることを敏感に察知していた。
朝、テラスハウスの庭に面した窓辺で、
ホームズは外を凝視していた。
いつもなら屋根の上にいるはずの白猫モリアーティの姿はない。
代わりに、生垣の隙間から、
まるで闇が溶け出したかのような一匹の不気味な黒猫が、
じっとこちらを覗き込んでいたのだ。
その黒猫の首輪には、
あのレモン香料のついた包装紙と同じ材質の、
小さなリボンが結ばれている。
(……む? 白猫ではない。
あいつは……モリアーティが新たに放った手先
(エージェント)か!)
危機感を覚えたホームズは、
すぐさま絨毯の上のアルファベットブロックへと駆け寄った
。短い前足をせわしなく動かし
、これまでで最長の単語を並べ立てる。
B - L - A - C - K - C - A - T
ブラックキャット / 黒猫
「ワンッ! ワンワンッ!」
ホームズはブロックを前足で叩き、
キッチンでトーストを齧っていたハート刑事を激しく呼び寄せた。
(ハート君、窓の外を見るんだ! 奴の手先である
『黒猫』が、我々の動向を監視している!)
ガストロノミーな大誤解
「んも〜、ホームズ、
朝から大きな声出しちゃって。あ、またブロックのクイズね?」
ハート刑事はトーストをモグモグさせながらしゃがみ込み、
ホームズが並べた8文字のアルファベットをじっと見つめた。
彼女の「写真記憶」のレーダーが、
並んだ文字列を脳内にスキャンする。
「『B』『L』『A』『C』『K』……ブラック。
で、後ろが『C』『A』『T』……キャット。
ブラック……キャット……。あーーっ!」
ハートはポンと手を叩き、目をキラキラと輝かせた。
「分かったわ! あなた、
今日のランチは『黒いカツ(BLACK CATS)』
が食べたいのね!?」
(……は? 黒い、カツ? いや、
最後は『T』だ、複数形の『S』ではない!)
「確かに、最近ロンドンのグルメ界で噂になってるのよ!
イカ墨の衣で揚げた真っ黒なトンカツを出す
、新感覚の和食レストラン『ヴィクトリア・カツ』!
あなたってば、本当に食いしん坊なんだから。
よし、今日の臨検はそこに決まりね!」
ハートは嬉々として捜査用のジャケットを羽織り、
ホームズを抱き上げた。
(違う! 私は紳士だ、イカ墨のカツなど求めていない!
『黒猫』だと言っているんだ! なぜ君の脳内は、
文字をすべて洋食屋のメニューに変換してしまうんだ!)
ホームズが肉体精神ともに絶望している間に、
ハートは彼を小脇に抱え、勢いよく部屋を飛び出した。
黒いカツの店、黒い影
ハートが連れてきたのは、下町の路地裏に佇む、
モダンな外観のレストラン『ヴィクトリア・カツ』だった。
お目当ての「黒カツ」を注文し、
ハートが満足そうに舌鼓を打っている間、
ホームズの鼻は店内の「異変」を嗅ぎ取っていた。
(……おかしい。厨房の奥から漂うのは、
ラードの匂いだけではない。これは……高濃度の催涙ガス、
そして……あの『高級キャットフード』の悪臭だ!)
ホームズが鋭い視線を店内のカウンターの隅に向けると、
なんと、そこには先ほど庭で見かけたあの黒猫が、
ちょこんと椅子に座ってこちらを見ていたのだ。
黒猫のオッドアイならぬ「濁った琥珀色の瞳」が、冷酷に光る。
そして、黒猫が前足でトントンと叩いたカウンターの裏には、
怪しげな黒いスーツを着た男たちが、
大きなアタッシュケースを抱えて息を潜めていた。
(しまっ──! ここはモリアーティの秘密の取引現場か!?
ハート君、食べるのをやめろ!
敵の巣窟に自ら飛び込んでしまったぞ!)
ホームズはハートの足元で、狂ったように吠え立てた。




