Episode 73:前編
Episode 73:前編
ポケット・ビーグルのベーグル逃走曲
サウス・ケンジントンの朝の霧を切り裂くように、軽快で、どこか哀愁を帯びたバイオリンの旋律が特別捜査室のフロアに響いていた。バッハの『無伴奏バイオリンのためのパルティータ』。
その完璧な運指と見事なヴィブラートを奏でているのは、車椅子に座った小柄な女性だった。
彼女の名はメアリー・ハドソン事務官。
ハナコ主任のエディンバラ大学院時代の優秀な後輩であり、現地で情報捜査を修めた秀才だ。音楽をこよなく愛する彼女は、足の不自由さを微塵も感じさせない行動力と、ひまわりのような笑顔で新設された捜査室の空気を一変させていた。
「ワン! ワン、ワン!」
その車椅子の足元で、ポケット・ビーグルのホームズ――ポチ君が、オードブル色の瞳を輝かせながら、実にご機嫌なリズムで尻尾を振って吠えた。
「ふふ、ありがとう大先生。今日の私のA線の調律、大先生の耳にも合格かしら?」
メアリーはバイオリンを静かに下ろすと、車椅子を器用に回転させ、ホームズの前にしゃがみ込んだ。
「驚いたな。大先生がここまで他人に懐くとは」
淹れたてのコーヒーを手に部屋に入ってきたのは、グレッグソン捜査官だ。彼はホームズが床のキーボードに叩きつけたランダムな文字列を一瞥し、渋く微笑んだ。
「ハート主任、大先生の今のタイピングと鳴き声の意味は、『4度の重音のピッチが0.2ヘルツ高いが、感情表現としては極上だ』……だそうですよ」
「まあ! ポチ君ったら、メアリーのバイオリンにはそんなに甘いのね!」
ルブタンの赤いヒールを響かせて現れたハナコ・ハート主任が、天真爛漫な笑顔を咲かせる。彼女の「写真記憶」には、大学院時代にメアリーが数々の論文賞を総なめにした記録が鮮明に残っている。
「当然です、ハナコ先輩!」メアリーは胸を張った。「私と大先生は、音の『周波数』と『論理のパズル』で深く繋がっていますから。ね、大先生?」
ホームズは「フンス」と鼻を鳴らすと、おもむろに窓の外をじっと見つめた。
その鋭い嗅覚が、数ブロック先にある彼の一番のお気に入り――老舗ベーグルショップ
『ベーカー・ストリート・ベーグル』
から漂う、焼き立てのサーモン&クリームチーズ・ベーグルの香りを完璧に捉えていた。
誰もが事件のデータ分析に目を戻した、その一瞬の隙だった。
ポチ君は音もなくドアの隙間から脱出し、サウス・ケンジントンの街へと「一人歩き」を開始したのである。
数分後。
『ベーカー・ストリート・ベーグル』の店先。
「あらあら、可愛いポケット・ビーグルちゃん。また迷子になっちゃったの?」
恰幅の良い店主の女性が、店の前でウルウルとしたオードブル色の瞳を向け、前足をちょこんと上げて「クゥーン……(僕、迷子で行くあてがないんです)」と切なげに鳴くポチ君を見つけて声をあげた。
屈強な四肢を持つ世界一の名探偵の魂は、今や完全に「あざとい迷子犬」のスクリプトを完璧に演じきっていた。すべては、あの極上のベーグルを手に入れるための高度なロジック(変装術)だ。
「よしよし、今おやつをあげるからね」
店主が焼き立てのベーグルを差し出したその時、ポチ君の鋭い耳が、店内のラジオから流れるノイズ混じりの緊急速報を捉えた。
『――臨時ニュースです。本日午前9時、ロンドン中央銀行のサイバー金庫から、特定の暗号鍵が盗まれました。犯行の手口から、ヤードは新型の広域サイバーテロの可能性を……』
ホームズの瞳から「迷子犬」の光が消え、冷徹な名探偵の鋭さが戻る。
彼は差し出されたベーグルを素早く口でキャッチすると、店主がおっとっとと声をあげる間に、脱兎のごとく霧の街へと駆け出した。
その口に咥えられたベーグルの包み紙には、油染みに見せかけた、不自然な「ドットの羅列」が刻まれていた。アドラーモドキが仕掛けた、新たなる犯罪のシナリオの断片が、まさかホームズの好物の包み紙に偽装されているとは。
「ワン!」
ホームズはベーグルを咥えたまま、特別捜査室へと引き返すべく、最短ルートを計算し始めた。




