Episode 72:後編
Episode 72:後編
ドックランズの霧へ
カチ、カチ、カチ――。
刻一刻と、地上のガントリークレーンが引き起こす破壊のカウントダウンが迫る。
残り時間は2分30秒。
「目に見えない、霧と同化したレーザーワイヤー……。写真記憶でも捉えられないなら、どうやって突破すればいいべ!?」
ハート刑事が鍵を握りしめ、焦燥を滲ませる。その端正な横顔に、かすかに故郷の訛りが混じりかける。「このままじゃ、地上の作業員たちが……!」
その時、ホームズが床のキーボードを凄まじい速度で叩き、最後に「ワン!」と短く、確信に満ちた咆哮を上げた。
[ PROTOCOL: 1888_WHITECHAPEL_ECHO ]
「『1888年、ホワイトチャペルの残響』……? 大先生、それは一体!?」
無線越しにログを監視していたグレッグソン捜査官が、その文字列に一瞬目を見開いた。だが、彼の脳内に宿る名刑事の遺伝子が、ポチ君の「真意」を瞬時に引き出す。
『――分かりました、主任! 大先生のパズルが解けました!』
グレッグソン捜査官の声が震える。
『アドラーモドキのレーザーは、霧の「密度」と「光の屈折率」をリアルタイムに計測して、網の目のように死角をなくしています。ならば、その前提条件を根底から狂わせればいい。デジタルではなく、きわめて原始的な“音波”によって!』
「音波……? ハッ、そうか分かったわ!」
ハート刑事は、ホームズの視線が貯水槽の天井へ伸びる巨大な「旧時代の高圧蒸気パイプ」に向いているのを見逃さなかった。19世紀のドックランズの遺物だ。
『その通りです!』グレッグソン捜査官が叫ぶ。『そのパイプのバルブをヤード流柔術の衝撃で破壊し、一気に高圧蒸気を噴出させるんです! 蒸気の激しい音響振動が、空気の密度を急激に変え、レーザーの屈折率を1秒間に数百回狂わせる。大先生の計算によれば、その振動の“隙間”に、わずか0.5秒だけレーザーが完全に霧散する「空白の光路」が生まれます!』
「その一瞬を、私のスピードで駆け抜けろ、ってことね!」
ハート刑事は不敵に微笑むと、ルブタンの赤いヒールを強く床に踏み鳴らした。
残り時間、1分10秒。
ハート刑事は壁を蹴り、驚異的な跳躍で天井の錆びついた真鍮バルブへと肉薄する。
「はああああっ!」
気合の一喝と共に、完璧なヤード流柔術の寸勁がバルブの接合部を直撃した。
ガガギィィィン!
鼓膜を裂くような凄まじい金属音と共に、超高圧の蒸気が爆発的に吹き出した。貯水槽内の霧が激しく波打ち、不規則な空気の渦が生まれる。その瞬間、空間に一瞬だけ、歪んだ赤い光の筋――レーザーワイヤーの網がギラリと姿を現し、そして次の瞬間には、音響振動によってパッと消え失せた。
「今だ――今よ!!」
ハート刑事はホームズを小脇に抱え、キャットウォークを文字通り「弾丸」のように駆け抜けた。ルブタンのヒールが11ミリの不規則なステップを刻み、アドラーモドキの予備の予測アルゴリズムすら置き去りにしていく。
閃光。
彼女の背後で、再びレーザーが復元され、キャットウォークの鉄柵をジュッと溶かした。だが、ハート刑事とホームズはすでにその罠を完全に突破し、地上の制御室へと飛び込んでいた。
残り時間、15秒。
ハート刑事は手にした古い鍵を、最新のデジタル制御盤の横にある、あえて残されていた旧式の物理シリンダーへと力強く差し込み、一気に回した。
「止まりなさい、アドラーモドキの『脚本(人形劇)』!!」
ガガガガガ……ッ。
遠くで、暴走していた巨大なクレーン群が、重々しい金属音を立てて一斉にその動きを停止させた。ディスプレイに表示されていた赤い「殺戮モード」の文字が、次々とグリーンへと反転していく。
地上の作業員たちの救出完了の報が、インカムを通じて鳴り響いた。
霧が少しずつ薄れ始めたドックランズの夜。
作戦車両のロンドンタクシーに戻ったハート刑事は、後部座席でポチ君の頭を優しく撫でていた。
「本当にお見事でしたよ、大先生。そしてハート主任」
運転席から振り返ったグレッグソン捜査官が、吸い殻をアッシュトレイに片付けながら静かに微笑んだ。「まさか、近代的なレーザーを19世紀の蒸気パイプの音波で無力化するとは。大先生の文字パズルを解き明かした瞬間、私の背筋にもゾクりと鳥肌が立ちました」
ポチ君は「フン」と満足げに鼻を鳴らすと、前足でキーボードを叩いた。
[ LOGIC_WINS_AGAIN ]
「『またしても論理の勝利だ』……ね。本当に、ホームズには敵わないわ」
ハート刑事は笑って、その小さな前足をそっと握った。
だが、グレッグソン捜査官が手元のタブレットを確認すると、表情を再び引き締めた。
「主任、アドラーモドキのコンソールから、停止直前に一つのデータがヤードの特別捜査室宛てにパケット送信されています。……これは、音声データです」
ハート刑事が頷き、再生のインジケーターが動く。スピーカーから流れてきたのは、機械の合成音声ではなく、初めて聞く、冷徹で、しかしどこか優雅な「生身の女性の笑い声」だった。
『素晴らしいわ、特別捜査室。私の数式を、そんな野蛮な物理振動で破綻させるなんて。
データとしての価値は最高よ。――けれど、忘れないで。これはまだ、ロンドン全土を舞台にした私のグランド・フィナーレのための、ほんの「前奏曲」に過ぎないということを』
ブツッ、と音声は途切れた。
「今の声……アドラーモドキ、ついに正体を現し始めたわね」
ハート刑事はオードブル色の瞳を持つバディと、頼れる名刑事の末裔を見つめ、ルブタンのヒールを力強く響かせた。
「どれだけ大掛かりな舞台を用意しようとも、私たちの論理と絆が、あなたの脚本をすべて白紙に戻してみせるわ!」
暗いテムズ川の霧の向こうで、新たな事件の足音が、静かに、しかし確実に近づいていた。




