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Episode 72:前編

Episode 72:前編


ドックランズの霧へ

ロンドンの東端、かつて大英帝国の繁栄を支えた港湾地帯「ドックランズ」。かつての倉庫街は現代の再開発によってサイバーパンクな高層ビル群へと変貌を遂げていたが、テムズ川から這い上がる濃い川霧だけは、19世紀と変わらぬ冷たさで街を包み込んでいた。

ヤードの「広報課兼務・特別捜査室」の作戦車両(内装を最新の指揮センターに改造した黒塗りのロンドンタクシー)の車内に、鋭い前足のタイピング音が響く。


[ GRID_LOG: DOCK_NO_4 / ENCRYPTED_HYPER_LINK ]

ポケット・ビーグルのホームズ――ポチ君は、オードブル色の瞳をディスプレイの光に反射させながら、「ワン!」と短く吠えた。


「――なるほど。大先生は、アドラーモドキが遺した『青い柘榴石』の招待状から、次の座標を完全に割り出されたわけですね」


助手席で無線機とタブレットを構えるグレッグソン捜査官が、事もなげにポチ君の意図を読み解いた。

彼はハッカーのような派手な画面操作はしない。だが、ポチ君の叩き出す変則的な文字列の「配置」や「リズム」から、その背後にある超論理を完璧に解釈し、言葉に紡ぐことができるヤード随一の男だ。


「さすがね、グレッグソン捜査官! それで、ポチ君の文字パズルは何を示しているの?」


後部座席でルブタンの赤いヒールをコツンと鳴らし、ヤード流柔術のグローブを締め直すのは主任のハナコ・ハート刑事だ。彼女の脳内には、事前に記憶したドックランズの複雑な三次元地下構造マップが「写真記憶」として完璧に展開されている。

「文字の不規則な並び替え(アナグラム)、そしてテムズ川の潮位データの連動です」


グレッグソン捜査官が渋い声で解説を続ける。

「大先生が示しているのは、第4ドックの地下深く、かつて貿易商が使っていた旧時代の地下貯水槽シスブーム。現在は光ファイバーの海底ケーブルが交差する、完全にブラックアウトされた『サイバー・カタコンベ(地下墓地)』ですよ、主任」


「アドラーモドキの『脚本』にふさわしい舞台設定だわ。完全にデータ化された現代のロンドンで、あえて物理的な霧と、地下の闇に隠れるなんてね」


ハート刑事は天真爛漫な笑みを消し、エリート捜査官の冷徹な顔を見せた。「バーバラがヤードのメインサーバーを鉄壁の守りで固めてくれている今、私たちは現場の『脚本』を力ずくで書き換えるだけよ」


タクシーが静かに停車する。目の前には、深い霧に煙る放棄されたドックの重厚な鉄扉が口を開けていた。

地下へ続く錆びついた螺旋階段を、ハート刑事のルブタンの足音が不規則に響く。アドラーモドキの行動予測を狂わせるための「11ミリの誤差」を孕んだステップだ。


ホームズはハート刑事の先を歩み、時折立ち止まっては耳をピんと立てて周囲の音を警戒している。

地下貯水槽の最深部に辿り着いたとき、霧の向こうに、怪しく明滅する無数のサーバーラックが姿を現した。それはロンドンの心臓部を流れる膨大なデータを密かに盗聴し、処理するための「不法な巨大データセンター」だった。

そして、その中央に置かれたコンソールの上に、一通のクラシカルな手紙と、一本の古い鍵が置かれていた。


「ポチ君、待って。罠かもしれないわ」

ハート刑事が写真を撮るようにその光景を脳内に焼き付けた瞬間、コンソールのスピーカーから、あの冷徹な合成音声が響き渡った。

『ようこそ、特別捜査室の皆さん。グレッグソン捜査官という新たな「翻訳機」を得て、処理速度が14%向上したようですね。非常に興味深いデータです』


「アドラーモドキ……! 姿を見せなさい!」


ハート刑事が周囲の闇を睨みつける。

『姿に意味はありません。私は脚本そのものです。――さて、そこにある鍵は、現在ドックランズの全自動コンテナターミナルで暴走を始めた、数千トンのガントリークレーンを停止させるための物理キーです。すでにクレーンの制御シークエンスは、AIによって完全に「最適化された殺戮モード」へと書き換えられています』


『何だと……!?』

車内から通信を聞いていたグレッグソン捜査官が息を呑む。

『主任、手元のタブレットにヤードの本部から緊急入電です! ドックランズの自動貨物エリアで、無人のクレーン群が狂ったようにコンテナを周囲に叩きつけ、作業員たちを監禁状態に追い込んでいると!』


『制限時間は4分』合成音声が淡々と告げる。

『鍵を地上の制御盤に差し込めば止まります。ただし、そこへ至る最短ルートのキャットウォークには、私の組んだ高度な「心理トラップ」が仕掛けられています。あなたたちが選ぶ行動パターンは、すべて私のデータベースに蓄積され、次の脚本の肥やしとなるでしょう』


プツン、と通信が切れる。

「どこまでも人を実験動物扱いして……!」

ハート刑事が鍵を掴み、駆け出そうとしたその時、ホームズが床のキーボードを激しく叩き、鋭い咆哮をあげた。

[ ERROR: 00-00-00 / LOOK_AT_THE_FOG ]

『待ってください、主任! 動かないで!』


無線越しにグレッグソン捜査官の怒号に近い声が響く。

『大先生のパズルが警告しています! 「霧を見ろ」……! その鍵を掴んで最短ルートを走ること自体が、アドラーモドキの計算通りなんです。最短ルートのキャットウォークには、目に見えない高出力のレーザーワイヤーが、霧の密度と完全に同調シンクロして張り巡らされています。普通に走れば、その瞬間にバラバラに切り刻まれる……!』


「なんですって……!?」

ハート刑事は足を止め、額に汗を浮かべた。写真記憶の目を持っても、霧と同化したレーザーは視認できない。

ホームズはオードブル色の鋭い瞳を細め、フンスと鼻を鳴らすと、コンソールの画面に向かって新たな文字をタイピングし始めた。世界一の名探偵の魂が、アドラーモドキの「完璧な脚本」に、致命的なバグ(不条理)を突くためのロジックを編み出していく。

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