Episode 71:後編
Episode 71:後編
「青い柘榴石のハッキング
――時計塔のベンチマークと、反転するスクリプト」
物理的な違和感と、腕利きの解釈
カチ、カチ、カチ――。
制限時間まで、残り1分45秒。
「物理的な違和感……? ポチ君、振り子がどうしたの!?」
ハート刑事は、ホームズが激しく吠え立てる巨大な真鍮製の振り子に視線を走らせた。
彼女の卓越した「写真記憶」が、数秒前に脳内に焼き付けた時計塔の構造と、現在のリアルタイムの映像を重ね合わせる。だが、その複雑な物理連動の全貌を掴みきれずにいた。
その時、インカムの向こうから、バーバラに代わってヤードの特別捜査室から作戦をサポートする「あの男」の渋い声が響いた。
『ハート主任、落ち着いて聞いてください。大先生が示している“物理パズル”の意図は、すでにこちらで読み解きました』
声の主は、新生・特別捜査室に配属されたグレッグソン捜査官。かつてシャーロック・ホームズが「ヤードきっての腕利き」と称した名刑事の血を引く男だ。彼は、ポチ君がこれまでに発してきた吠え声の周波数、前足での足踏み、そして鋭い視線の誘導を「独自のプロファイル」として完璧に解釈できる異能を持っていた。
『大先生のあの警戒の唸り声、そしてその振り子の動き……これはデジタルな暗号じゃありません。アドラーモドキの奴、時計の「物理的な歯車の狂い(ジッター)」そのものを乱数生成器にして、12桁の素数をリアルタイムに生成してやがります! 現場の物理的な“歪み”を読み解き、ターミナルへ直接叩き込むしかありません!』
「グレッグソン捜査官! さすがね!」
ハート刑事はルブタンのヒールを響かせ、猛然と振り子の基部へと突進した。巨大な真鍮の塊が不規則に左右へ揺れる。タイミングを誤れば、一撃で叩き伏せられるのは確実だった。
ホームズは低く唸りながら、その鋭敏なオードブル色の瞳で振り子の軌道を完全に逆計算すると、文字盤の裏側にある特定の歯車を前足でピシッと指し示し、「バウッ! バウッ! バウッ!」と鋭く三度、リズムを刻んで吠えた。その咆哮の振動と連動するように、グレッグソン捜査官の手元のモニターに補正データが弾き出される。
『――主任、今です!』グレッグソン捜査官の鋭い声が飛ぶ。『大先生のステップと咆哮が示しているのは「11ミリの誤差の逆位相」! つまり、お気に入りのルブタンのヒールで、あえて右にスライドしながら飛び込め、ということです!』
「ポチ君のロジック、そしてグレッグソン捜査官の解釈――信じるわ!」
ハート刑事は一切の躊躇なく、揺れ動く振り子の隙間へと身体を滑り込ませた。ヤード流柔術で鍛え上げられた、極限まで無駄のない柔軟な身のこなし。彼女の赤いヒールが、振り子の裏側に隠されていた旧式のデジタル・端子盤を捉え、捜査官から手動で転送された解除コードが同期される。
[ 00:02 ]
カウントダウンが残り2秒で完全停止した。
サウス・ケンジントンの街の機能も、キャサリンの部屋のライフラインも、すべて正常に保たれる。深い静寂が時計塔を包み込んだ。
「……ふぅ。なんとかギリギリ、脚本のプロットを破綻させてやりましたよ、大先生」
インカム越しに、グレッグソン捜査官が安堵のタバコに火をつける気配が伝わってきた。
ハート刑事は乱れた髪を指で整え、床に座り込むポチ君を優しく抱き上げた。
「ありがとう、ポチ君。端子盤の場所を正確に教えてくれたのね。そしてお見事よ、グレッグソン捜査官。あなたという最高の『理解者』がヤードにいてくれて本当に心強いわ」
ポケット·ビーグルのホームズは「フン」と誇らしげに鼻を鳴らすと、ハート刑事の腕の中で、その小さな前足で彼女の手のひらにポンと触れた。
だが、ハナコが蓄音機の上に置かれた『青い柘榴石(量子ストレージ)』を回収しようとしたその時。ストレージの表面に、ホログラムの小さな文字が浮かび上がった。
[ BENCHMARK COMPLETE: EXCELLENT ]
[ NEXT STAGE: THE DOCKLANDS ]
「ベンチマーク完了……ネクストステージ?」
『……ハート主任。どうやら奴は、最初からこのデータを私たちに「解かせる」ことで、新設された臨時特別捜査室の“最新の処理能力”を正確に計測したようです』
グレッグソン捜査官の声が、にわかにプロの刑事を宿した冷徹なトーンに変わる。
『このストレージ自体が、奴の新しい脚本への“招待状”……次の牙を剥く準備はできています、主任』
「望むところよ、アドラーモドキ」
ハート刑事は不敵に微笑むと、ルブタンのヒールを力強く床に響かせした。
「どんなに精緻なクモの巣を張ろうとも、わたしとポチ君の絆、そしてグレッグソン捜査官の眼がある限り、その脚本はすべて私たちが書き換えてあげるわ!」
ホームズは霧の向こうを見据えるように、ロンドンの夜空に向かって、高く、鋭く、宣戦布告の咆哮を轟かせた。




