Episode 71:前編
Episode 71:前編
「青い柘榴石のハッキング(前編)――時計塔のベンチマークと、反転するスクリプト」
青い柘榴石のハッキング
サウス・ケンジントンのタワマンに、鋭い電子音と、それ以上に鋭い「ワン!」という咆哮が響いた。
「おいおい、大先生、朝からそんなに吠え立てないでけろ。せっかくの最高級アイリッシュ・ブレックファストの血のソーセージが冷めちまうべ」
バーバラ・リンドは、乱れた赤髪を適当にシュシュでまとめながら、愛用の特注タブレットPCの画面から目を離さずにぼやいた。彼女の前に置かれた皿には、カリカリのベーコンとブラックプディングが手付かずのまま残されている。
その足元で、ポケット・ビーグルのホームズ――通称「ポチ君」――が、オードブル色の鋭い瞳を細め、タブレットの画面を前足でピシッと叩いた。画面には、激しく点滅する異常ログが表示されている。
[ 02:14:05 ]
[ LOG: LONDON-CYBER-MUSEUM / UNUSUAL_ACCESS_DETECTED ]
「……ん? ロンドン・サイバー博物館のバックヤードへの不正アクセス? なるほど、大先生はこれに怒ってたんだべな!」
バーバラの指が瞬時にキーボードを奔った。北アイルランドの濃い訛りとは裏腹に、そのタイピングは精密機械のそれだ。
「ハナコ姉様! 起きてけろ! 臨時特別捜査室の『初仕事』が向こうから飛び込んできたみたいだべ!」
奥の部屋から、ルブタンの赤いヒールを小気味よく響かせて現れたのは、スコットランドヤード「広報課兼務・特別捜査室」の初代主任に就任したばかりのハナコ・ハート刑事だった。
「おはよう、バーバラ、ポチ君! 朝からアドラーモドキの残党かしら? ヤードのバックドアは根こそぎ消去したはずだけど……」
ハート刑事は天真爛漫な笑顔を見せつつも、その瞳にはハート財閥の令嬢としての、そしてヤードのエリートとしての鋭い光が宿っている。彼女の脳内には、すでにロンドン市内のネットワーク・トポロジーが「写真記憶」によって瞬時に展開されていた。
ホームズはフンスと鼻を鳴らすと、タブレットの特定の文字列を鼻先でぐいっと小突いた。バーバラがすかさずそのファイルを展開する。
「『BLUE_CARBUNCLE.EXE』……? ポチ君、これが原因?」
ハート刑事がその文字列を読み上げる。
「そうだべ」とバーバラが画面を反転させた。「かつてドイルの時代に、ガチョウの胃袋から見つかったっていう伝説の青い宝石。それの現代版だべ。2週間後に開催される『大英サイバー家宝展』の目玉として公開予定の、世界最高峰の暗号化量子ストレージ。その中に、かつてモリアーティやアドラーが遺したとされる『初期の犯罪アルゴリズム』が格納されてるって噂だべさ」
「そのストレージのプロトコルが、今まさに書き換えられようとしている……。でもおかしいわね。このアクセスログの対称性、あまりにも綺麗すぎるわ」
ハート刑事は顎に手を当て、ルブタンのヒールをコツン、と鳴らした。エディンバラでの激闘を経て、ハート刑事は「完璧なデータ」ほど疑うべきだと学んでいた。アドラーモドキは人間の行動や心理を「脚本」通りに操る天才だ。
ホームズは低く唸り、床に広げられたロンドン中心部のホログラム・マップの一点――サウス・ケンジントンの古びた時計塔――を前足で強く叩いた。
「大先生、そこが発信源だって言うだべか?」
バーバラが逆探知グリッドを展開する。「ビンゴだべ! だけど、大先生の言う通りあまりにも簡単に見つかりすぎだべ。まるで『ここにきて頂戴』って言われてるみたいで気持ち悪いべさ……」
「誘い受けのシナリオ、というわけね」
ハート刑事はジャケットを羽織り、ホームズを小脇に抱え上げた。「でも、ヤードの特別捜査室主任として、サイバー犯罪を目の前で見過ごすわけにはいかないわ。バーバラ、あなたはここでバックアップと、ヤードの新米たちの指揮をお願い。私とポチ君で、その『時計塔の怪盗』の顔を拝みに行ってくる!」
「了解だべ! ハナコ姉様、気をつけてけろ。アドラーモドキの影は消えても、あの『見えない蜘蛛の巣』の糸は、まだロンドンの空気に絡みついてる気がするべ……」
地下ドックの心理トラップ
15分後。霧雨に煙るサウス・ケンジントンの古い時計塔の内部。
歯車が重々しく噛み合う音だけが響く空間に、ハート刑事のルブタンの音が規則正しく、しかし「11ミリの不規則な歩幅」を意識しながら響いた。
ホームズはハート刑事の腕から飛び降りると、床の匂いを嗅ぎ回り、ある一点でピタリと足を止めた。そこには、一台のクラシックな蓄音機と、その上に置かれた、青く妖しく光る最新鋭の量子ストレージ――『青い柘榴石』があった。
「罠……? いいえ、これは本物よ。バーバラ、聞こえる? ストレージを発見したわ」
ハート刑事がインカムに話しかける。
『待つべ、ハナコ姉様! 今そっちのデータを解析してるけど……不可解だべ! そのストレージ、中身が「空」だべ! 犯罪アルゴリズムなんて入ってない、ただのダミー……いや、違うべ!』
バーバラの悲鳴のような声と同時に、蓄音機のラッパから、ノイズ混じりの合成音声が流れ始めた。
『――ようこそ、ハート刑事。そして偉大なる名探偵の魂よ。これはあなたたちの「正義感」と「迅速性」を計測するための、最初のベンチマーク(性能測定)です』
「アドラーモドキ……!」
ハート刑事が周囲を警戒し、ヤード流柔術の構えをとる。
『そのストレージが起動した瞬間、サウス・ケンジントン一帯の信号機と、キャサリンが住むタワマンの生命維持システム(ライフライン)の制御権が、完全に反転するようスクリプトを組みました。解除コードは、その部屋のどこかに隠された「12桁の非対称素数」。制限時間は3分。……さあ、あなたたちの論理の限界を見せてください』
カチ、カチ、カチ――。
時計塔の巨大な文字盤が、死へのカウントダウンを刻み始めた。
「くっ……! 写真記憶で部屋の隅々までスキャンするわ!」
ハート刑事の目が、壁の落書き、歯車の数、床の傷跡を凄まじい速度で記憶していく。しかし、アドラーモドキの「脚本」は、ハート刑事のその処理速度すら計算に入れているはずだった。
「ワン!!」
その時、ホームズが時計塔の巨大な振り子に向かって、前足で激しく床を叩きながら、割れんばかりの咆哮を上げた。その鋭いオードブル色の瞳は、ハート刑事の卓越した写真記憶すら見落としていた「物理的な違和感」を捉えていた。




