Episode 70:後編
Episode 70:後編
「反転のシンメトリー(A-D-L-E-R)――主任の逆王手と、新たな夜明け」
計算違い
『さあ、次の脚本を始めましょうか』
スピーカーから響くアドラーモドキの甘美な声。カウントダウンが残り30秒を切り、新米捜査員たちの間に絶望的なパニックが広がる。ハート主任が端末に触れれば重要機密が盗まれ、触れなければシステムが爆破される。完璧に詰んだ(チェックメイト)かのように思われた。
(ハート君、焦るな。奴は君の正義感とヤードの組織力を計算に入れた。だが、奴のデータに存在しない『空白のピース』が、この部屋にはまだ二つある)
ホームズが鋭いオードブル色の瞳を輝かせ、不敵に「ワン!」と吼えた。その視線の先には、怒りに指を震わせるバーバラ、そして――ハート刑事の足元に転がっている、先ほどへし折ったルブタンのヒールの残骸があった。
「……そうよ。私のデータならいくらでもあげるわ。でも、今の私は一人じゃないべ!」
ハート刑事の脳内測定器が、アドラーモドキの予測演算の「その先」の数値を正確に弾き出す。彼女は自らの指ではなく、へし折れたルブタンの鋭利なヒールの先端を掴むと、指紋認証センサーではなく、端末の横にある「物理的な電源拡張ケーブル」へ向かって、目にも留まらぬ速度で突き刺した。
バチチチッ!!!
激しい火花が散り、遠隔操作されていた端末が強制的に物理シャットダウン(機能停止)に追い込まれる。ハナコ刑事の指紋を読み込ませるというアドラーモドキの脚本は、完全に瓦解した。
バーバラのカウンター・調律
「今だ、バーバラ!」
「任せるべ、ハナコ姉様、ポチ君の大先生! 奴がヤードの回線をバイパスに使った瞬間を、ずっと逆探知してたんだべ!」
端末が落ちた一瞬の隙を突き、バーバラの指先がキーボードの上で電光石火の如く舞った。
アドラーモドキが仕掛けた「空白時間」の波形を完全にコピーし、逆に奴のサーバーへと送り返すカウンター・プログラム。ヤードの全通信網を囮にした、バーバラ決死の特大のウイルス・デトックスだ。
モニターの赤いエラーログが、一気に鮮やかなヤードのブルーへと反転していく。
『……あら? ログが書き換えられて……まさか、私の調律を逆に利用するなんて……ッ!』
スピーカーから、初めてアイリーンの生まれ変わりの「焦惑の声」が漏れ聞こえた。
「ざまあみろだべ! これが特別捜査室の、一人と一匹と、私たちの力だべ!」
ハート刑事が勝利の笑みを浮かべて叫ぶ。次の瞬間、アドラーモドキの通信は激しいハウリング音と共に完全に遮断され、ヤードのシステムから奴のバックドアは根こそぎ消去された。
特別捜査室の誓い
嵐は去り、特別捜査室には本当の静寂と、新米捜査員たちの歓声が湧き上がった。
姿なき宿敵の本体にまではたどり着けなかったものの、ハナコ・ハート主任率いるチームは、奴の完璧なハッキングを組織の力で完全に退けてみせたのだ。
窓の外では、ロンドンの深い霧が朝の光に照らされ、ゆっくりと晴れ渡っていく。
「ふぅ……本当に心臓が止まるかと思った。はい、ポチ君、大活躍のご褒美の極上ビーフジャーキー!」
ハート刑事はいつもの天真爛漫な笑顔に戻り、ホームズをそっと抱き上げた。
(フッ、ハート君。奴は君を『研究し尽くした』と過信した。だが、人間の成長と、仲間との絆が生み出す不規則なシンメトリー(調和)までは、いかなるデータでも演算しきることはできないさ)
ホームズはジャーキーを上品に齧りながら、頼もしくキーボードに向かうバーバラと、誇らしげに胸を張るハート刑事を見つめた。
自称「アイリーン・アドラーの生まれ変わり」。
奴はまた新たな脚本を携えて、この特別捜査室に罠を仕掛けてくるだろう。
しかし、名探偵の冷徹なロジックと、ハート主任のノーリミッツな正義がある限り、大英帝国のヤードが奴の思い通りになることは決してない。
一人と一匹の本当の反撃は、ここから始まるのだ。




