Episode 73:後輩
Episode 73:後輩
ポケット・ビーグルのベーグル逃走曲
「大変です、ハナコ先輩! グレッグソン捜査官!」
特別捜査室の静寂を破ったのは、メアリー・ハドソン事務官の鋭い声だった。彼女は車椅子の車輪を鮮やかに捌きながら、メインモニターにロンドン中央銀行のログを割り込ませた。
「大先生のGPSが『ベーカー・ストリート・ベーグル』で停止した直後、中央銀行のサイバー金庫から、ロンドン全域の信号制御を司るマスター暗号鍵が吸い出されました! しかも、そのハッキングのプロトコルに、大先生のIDデータが偽装として使われているんです!」
「なんですって!?」
ハート刑事は手元のタブレットに目を落とした。写真記憶が、過去のアドラーモドキのハッキングパターンと今回のログを瞬時に比較する。
「アドラーモドキ……ポチ君がお気に入りのベーグルを買いに行く?行動ルーティンすら、完璧に『脚本』に組み込んでいたというの!?」
『そういうことですね、主任』
すでに現場付近へ無線連絡を入れていたグレッグソン捜査官が、作戦車両から渋い声を返してくる。
『ヤードの包囲網は、今や「サイバー金庫を襲撃した容疑犬」として大先生を追っています。アドラーモドキの目的は、大先生を迷子犬としてヤードの檻に隔離し、この捜査室の「頭脳」を奪うことです!』
「そんなこと、絶対にさせないわ!」
ハート刑事がルブタンのヒールを響かせて飛び出そうとしたその時、メアリーが車椅子でハート刑事の前に滑り込んだ。
「先輩、待ってください。大先生の『足音』と『鳴き声』が、本部の音声回線に傍受されています。今、私のオーディオ・アナライザーで解析します!」
メアリーはヘッドホンを装着し、超絶的な集中力でノイズの向こうの「音」を聴き分けた。エディンバラ大学院で培った情報捜査の技術と、彼女の絶対音感が、街頭カメラのマイクが拾ったポチ君の小さな咆哮を捉える。
「ワン、ワン! クゥン、ワン!」
「聞こえました……! 大先生はただ逃げているんじゃありません。鳴き声の『基本周波数』の変調で、私たちにメッセージを送っています! グレッグソン捜査官、ログの16進数を大先生の鳴き声のリズムで並び替えて(ソートして)ください!」
『了解だ、メアリー事務官。……ほう、なるほど!』
グレッグソン捜査官の感嘆の声が無線越しに響く。
『パズルが解けました、主任! 大先生が咥えているベーグルの包み紙、そこにアドラーモドキがヤードの追跡を誘導するために仕込んだ「逆探知ビーコン(偽データ)」が印刷されています。大先生はわざと迷子犬のフリをしてヤードの目を引きつけながら、犯人の本当の通信中継ポイント(プロキシ)へ向かって走っています!』
「場所はどこ、メアリー!?」ハート刑事が叫ぶ。
「サウス・ケンジントン駅の、古い地下廃棄ホームです!」
メアリーが車椅子の背に備え付けられたケースからバイオリンを抜き取った。
「先輩、大先生の気を引いているヤードの追跡システムを、私のバイオリンの音響ハッキングで30秒だけジャミング(妨害)します。その隙に、大先生の救出と犯人のデータの確保を!」
「頼んだわ、メアリー!」
薄暗いサウス・ケンジントン駅の地下廃棄ホーム。
ホームズは口にベーグルの袋を咥えたまま、屈強な四肢で暗闇を駆け抜けていた。背後からはヤードの自動追跡ドローンの駆動音が迫る。
だがその時、駅の構内スピーカーから、突如として激しいバイオリンの超高音が鳴り響いた。メアリーが特別捜査室から回線経由で送り込んだ、ド線の共鳴を利用した「音響バグ」だ。
ドローンのセンサーが一瞬にして狂い、壁に激突して火花を散らす。
「そこまでよ、アドラーモドキの人形たち!」
暗闇に、ルブタンの赤いヒールが鮮やかに閃いた。
ハート刑事は完璧なヤード流柔術の身のこなしで、廃棄ホームに潜んでいたアドラーモドキの工作員(自律型アンドロイド)の背後に回り込み、その駆動関節を完璧なロックで破壊した。
「ワン!」
ホームズがハート刑事の足元に滑り込み、咥えていたベーグルをハート刑事の手元へ放り出す。
ハート刑事がその包み紙のドット(油染み)をスマートフォンのスキャナーで読み取ると、画面上で中央銀行から盗まれたマスター暗号鍵が瞬時に回収され、ヤードのサーバーへと安全に返還されていった。
『……お見事です、ハート主任。そしてメアリー事務官。音をハッキングのトリガーにするとは、計算外の美しい変奏曲でした』
破壊されたアンドロイドのスピーカーから、あの優雅な女性の笑い声が漏れる。
『ですが、これで私のデータはさらに豊かになった。次のステージでお会いしましょう』
プツン、と工作員の機能が完全に停止した。
30分後。特別捜査室。
「はい、大先生。お疲れ様のサーモン&クリームチーズ・ベーグルよ。今度は安心して食べてね」
メアリーが車椅子の上で、新しく買い直した焼き立てのベーグルを差し出すと、ホームズは嬉しそうに「ワン!」と吠え、器前で尾を振って貪りついた。
「いやはや、大先生の文字パズルだけでなく、鳴き声の周波数まで読み解くとは。メアリー事務官、あなたという強力な仲間が加わって、この特別捜査室はますます手が付けられなくなりましたな」
グレッグソン捜査官が苦笑しながら、温かい紅茶をハート刑事とメアリーに手渡した。
「本当に頼もしいわ、メアリー」
ハート刑事はルブタンのヒールをコツンと鳴らし、写真記憶で捉えたアドラーモドキの音声波形データをディスプレイに映し出した。
「アドラーモドキは私たちのあらゆる行動、音楽、そしてポチ君の食欲までも脚本に組み込もうとしてくる。でも、私たち4人の『即興曲』は、奴のどんな予測数式も絶対に超えてみせるわ!」
ホームズはベーグルを咀嚼しながら、オードブル色の鋭い瞳で、次なる事件の気配が漂うロンドンの地図をじっと見つめていた。




