Episode 70:前編
Episode 70:前編
「静寂の胎動(A-D-L-E-R)――仮初めの平穏と、主任の執務室」
嵐のあとの特別捜査室
ロンドン地下30メートルの廃駅『メール・レール』での激闘から数日。バーバラ・リンドを無事に救出したことで、スコットランドヤードを揺るがした一連の嵐は、ひとまず収まったかのように見えた。
新設された『広報課兼務・特別捜査室』は、事件解決の功績を認められ、臨時設置のまま存続することが決定。ハナコ・ハート刑事は「主任」のポジションに据え置かれた。さらに、上層部からの通達により、ハート主任をサポートするための捜査員数名が新たに配属され、部屋はにわかに活気づいている。
「みんな、集まって! 私たちのこれからの標的は、自称『アイリーン・アドラーの生まれ変わり』……通称、アドラーモドキよ!」
ハート刑事は、新調したクリスチャン・ルブタンの赤いヒールを響かせながら、ホワイトボードに優雅な筆記体で『ADLER』と書き込んだ。
「彼女は私の身体能力や、バーバラのハッキングの癖を完璧に研究して罠を仕掛けてきたわ。組織の力を合わせて、今度こそあの女の尻尾を掴むべ!」
気合が入りすぎて思わず故郷の訛りが飛び出すハート主任に、新米の捜査員たちは「は、はい、主任!」と少し気圧されながらも敬礼を返す。
名探偵の冷徹な眼
デスクの特等席に座るポケット・ビーグル――世界一の名探偵ホームズは、新しく配属された捜査員たちの動きや、部屋に運び込まれる資料の山を、オードブル色の鋭い瞳で静かに観察していた。
(ふむ、即席にしては悪くない陣形だ。ヤードの上層部も、国家インフラを脅かすあの女の危険性をようやく重く見たらしい。だが……)
ホームズは低く小さく鼻を鳴らし、前足でバーバラのデータノートをそっと引き寄せた。
(嵐が去った後のこの奇妙な静けさこそ、最も警戒すべきだ。アドラーモドキがハート主任のデータを研究し尽くしているのなら、ヤードがこうして本格的な『特別捜査室』を構築することすら、奴の計算の内ではないのか?)
「ポチ君、どうしたの? 難しい顔をして」
ハート刑事が心配そうに覗き込み、ホームズの賢敏な頭を優しく撫でた。その手の温もりに、ホームズは小さく「ワン」と鳴いて応える。
深まる霧と、新たな予兆
その時、救出されてからすっかり元気を取り戻したバーバラが、メインモニターのキーボードを激しく叩いた。
「ハナコ姉様、ポチ君の大先生! ヤードの広報課サーバーに、また妙なデータが引っかかっているべ!」
バーバラの鋭い声に、新米捜査員たちも一斉にモニターを凝視する。
画面に映し出されたのは、アドラーモドキのハッキングの痕跡ではない。ロンドン市内のあらゆるCCTV(防犯カメラ)の映像が、規則的な周期で「一瞬だけホワイトアウトする」という、極めて奇妙な超高周波の電波ノイズだった。
「これは……アドラーモドキの仕掛けた罠の残響か、それとも……」
ハート刑事の脳内測定器が、かつてない不気味な数値を弾き出す。
姿を見せぬ宿敵を追うために始動した、ハート主任の特別捜査室。しかし、仮初めの平穏に満ちたその執務室のドアの向こうで、ロンドンの深い霧は、さらに狡猾な悪意を孕んで蠢き始めていた――。




