Episode 69:後編
Episode 69:後編
「反転のグリッド(S-C-O-T-L-A-N-D)――地下30メートルの救出作戦、そして」
タイムリミット30分、主任の決断
「バーバラ、私を信じて待っていて!」
特別捜査室のタイマーが非情に1秒ずつ刻まれていく中、ハナコ・ハート主任はヤードの無線機を掴んだ。
今回の標的はロンドン地下の廃駅『メール・レール』。迷路のように入り組んだ地下空間で、アイリーンの生まれ変わりはハート刑事の驚異的な「反射神経」と「直線的な突進力」を計算に入れている。そのまま飛び込めば、確実に時間の罠に搦め捕られる。
「特別捜査室よりヤード全班へ通達! 広報課のダミー電波をロンドン東部に集中展開、地下鉄道の全侵入経路を物理的に完全封鎖して!」
新設された主任の権限をフルに行使し、ハート刑事はアイリーンの予測の「外側」に巨大な包囲網を敷いた。
(素晴らしい指揮だ、ハート君。奴が君の『身体』を計算に入れているなら、君はヤードの『組織力』という巨大なチェス盤で奴の包囲網を1ミリ上回ればいい。さあ、行くぞ!)
ホームズは力強く「ワン!」と吼え、ハート刑事と共に捜査室を飛び出した。ルブタンの赤いソールが、地下へと続く冷たい鉄の階段を激しく叩く。
暗闇の「じる(地下貯水池)」
地下30メートル。廃駅となった旧郵便地下鉄道の構内は、バーバラの暗号通り「じる(湿った地下貯水池)」の冷気と、錆びついた鉄の匂いに満ちていた。
残り時間はあと5分。
線路の奥に設置された高圧電流の檻の中に、ぐったりと拘束されたキャサリンとバーバラの姿があった。その檻の手前には、ハート刑事の体重を感知した瞬間に起爆する、精密な圧力信管の罠が張り巡らされている。
「ハナコ姉様、来ちゃダメだべ! 足元のタイルが全部奴のセンサーになってるべ!」
意識を取り戻したバーバラが、かすれた声で叫んだ。
(ハート君、動くな。奴は君が『妹たちを助けるために罠を飛び越える』その跳躍の軌道すらも、過去の逮捕術のデータから割り出している)
ホームズは鋭いオードブル色の瞳で、暗闇に張り巡らされた見えないレーザーの配置を完全に看破した。
「分かっているわ、ポチ君。アイリーン、あなたは私の身体能力を完璧に『研究』したと言ったわね……でも、私の限界がそのデータの通りだと、一体誰が決めたのべ!?」
ハート刑事は不敵に微笑むと、クリスチャン・ルブタンのヒールをその場で思い切り踏み抜いてへし折った。高さを均一にしたフラットな着地。データにない「100ミリの誤差」を自ら作り出したのだ。
「ヤード流柔術――極限歩法・連獅子!」
ハート刑事はアイリーンの予測した跳躍ルートを完全に無視し、壁の配管をフェイントで蹴りながら、人間の骨格の限界を超えた不規則な三次元軌道で空中を舞った。予測演算を完全に狂わされた圧力センサーが、一瞬の空白を生む。
ガシィィィン!!!
タイマーが残り10秒を告げた瞬間、ハート刑事のしなやかな回し蹴りが、檻の主電源システムを根元から粉砕した。火花が散り、高圧電流の光が完全に消失する。
「キャサリン! バーバラ!」
「ハナコ姉様……!」「ハナコお姉ちゃん……!」
未完の宿敵
間一髪で二人の少女を抱きとめ、罠を完全攻略したハート刑事。しかし、崩壊するシステムのスピーカーから、再びあの耳障りなほど甘美な笑い声が響いた。
『見事だわ、ハート刑事。自らのデータをその場で書き換えるなんて、計算外の美しいステップだったわ。今回は私の脚本の負けね。……でも、私の紡いだ蜘蛛の巣は、もうヤードの深層まで届いているのよ?』
「アイリーン……!」
ハート刑事が叫ぶが、音声はそこで途絶え、アジトの端末は完全に自己融解を始めた。今回もまた、自称「アイリーン・アドラーの生まれ変わり」の本体へたどり着くことは叶わなかった。
しかし、ハート刑事の胸には、もう以前のような焦りはなかった。
抱きしめたキャサリンの温もり、そしてデータノートをしっかりと握りしめたバーバラの頼もしい視線がそこにある。
(フッ、姿を見せぬ『あの女』よ。君がヤードの深層に巣を張るというのなら、こちらはヤードの『特別捜査室』という新たな牙で、その巣を一本残らず引きちぎるまでさ)
ホームズは暗闇の向こうを見据え、誇らしげに、そしてこれからの長い闘いを見据えて冷徹に「ワン」と吼えた。
特別捜査室の新しい風
数日後、スコットランドヤードの『広報課兼務・特別捜査室』には、いつもの天真爛漫な賑やかさが戻っていた。
「はい! バーバラ、無事に救出されたお祝いの特製ベリータルト!」
ハート刑事が笑顔で皿を差し出す。
「ありがとうだべ、ハナコ姉様! もう二度とあの女のハッキングには屈しないべ。私の解析グリッドも、今回の件で大幅にアップデートしたべな!」
バーバラは頼もしく笑い、再びメインモニターに向かってキーボードを叩き始めた。キャサリンも特製の紅茶を淹れながら、姉たちの姿に微笑んでいる。
デスクの特等席で、ホームズはハート刑事から与えられた高級なジャーキーを静かに齧っていた。
(役職無しの平刑事から、特別捜査室の主任へ。ハート君、君を縛るためのポストだったはずのこの部屋は、今や私たち一人と一匹、そしてバーバラ君たちを繋ぐ、最も強固な『絶対の城』になったな)
窓の外には、相変わらず深いロンドンの霧が広がっている。しかし、新設された捜査室を照らす灯火は、どのような悪意の霧をも容易く切り裂くほど、明るく、そして力強く燃え盛っていた。




