Episode 68:後編
Episode 68:後編
「未完のチェックメイト(E-D-I-N-B-U-R-G-H)――偽りの講義室と、戻らない日常」
1ミリの予測を覆す侵入
エディンバラ大学の敷地内に佇む「ブキャナン・インスタチュート」。
ハナコ・ハート刑事は、夜霧の立ち込める校舎の壁際を、影のように滑らかに移動していた。
イブニングドレスの裾を大胆に裂いて脚の可動域を確保した彼女のインカムから、ホームズが「ウゥー……」と低く唸り、続けて「ワン!」と短く鼻を鳴らす音が聞こえた。
「ハナコ姉様、大先生からの指示だべ! 奴は姉様の超人的な跳躍力を知っているから、2階のテラスや窓からの侵入を予測して、赤外線センサーのグリッドを仕掛けているはずだって! あえて這いつくばり、泥にまみれて東側の古い換気ダクトの排気口から進む泥臭さこそ、エレガントな『あの女』の計算を狂わせる最初の鍵だって、ポチ君が床を前足で叩いてるべ!」
「了解よ、ポチ君……! ドレスが破けちゃうけど、キャサリンのためならノーリミッツよ!」
バーバラを通じて届くホームズの冷徹なプロファイルが、ハート刑事の五感を極限まで研ぎ澄ます。ダクト内を音もなく進み、彼女は第4講義室の天井裏へと到達した。
誰もいない劇場
スリットから講義室を見下ろしたハート刑事は、小さく息を呑んだ。
部屋の中央には、一脚の椅子。そこに縛り付けられているのは、間違いなく従妹のキャサリン――。
「キャサリン……!」
ハート刑事が飛び降りようとしたその瞬間、インカムからホームズの「バウッ!!」という、鼓膜を突き刺すような鋭い制止の咆哮が響いた。続けて、フンス、フンスと激しく鼻を鳴らす音が聞こえる。
「待つんだべ、ハナコ姉様! 大先生が『写真記憶のデータを引き出せ』って激しく吠えてるべ! 妹君の髪の縮れ具合、衣服のシワ、そして呼吸による胸の上下運動……1ミリの狂いもなく精査するんだべ。それは本当に本物か、大先生の嗅覚が疑ってるべ!」
「え……?」
ハート刑事の美しい瞳が、暗闇の中で激しく明滅した。
言われてみれば、椅子の上のキャサリンはあまりにも微動だにしない。バーバラが瞬時に講義室内の微弱な電波を解析し、悲鳴を上げた。
「ハナコ姉様、騙されちゃだめだべ! 大先生の言う通りだべ! それは本物のキャサリンじゃなくて、高精細のプロジェクション・ホログラムと、ダミーの生体反応を模した電脳デコイ(身代わり)だべ! 周囲の床には、ハナコ姉様が着地した瞬間に起動する高電圧のスタン・トラップが敷き詰められてるべ!」
「な、なんですって……!?」
ハート刑事の脳内測定器が怒涛の警告音を鳴らす。
自称、アイリーンは、ハート刑事が従妹を救いたい一心で天井から飛び降りるその「瞬間」と「着地点」すらも、彼女の身体データを基に完璧に計算していたのだ。もしホームズの鋭い野生の勘と眼がなければ、今頃ハート刑事は電流に焼かれ、拘束されていただろう。
あざ笑うアドラーモドキ、掴めぬ尻尾
パチパチパチ、と誰もいない講義室のスピーカーから、優雅な拍手の音が響き渡った。
『素晴らしいわ、ホームズ。まさかテラスハウスにいながら、私の仕掛けた最高解像度の嘘を見破るなんて。ハート刑事、あなたのその鋭いバディを、私は心から羨ましく思うわ』
甘美なアイリーンの声が、無人の講義室に虚しく響く。
「アイリーン! キャサリンはどこ!? どこへやったの!」
ハート刑事が天井裏から声を荒らげる。
『彼女なら心配いらないわ。スコットランドの素晴らしい夜景を楽ししてもらっているところよ。でも、今回のパズルはここまで。私の脚本をこれ以上書き換えられるのは不愉快だから、幕引きにしましょう』
「待ちなさいべ!」
バーバラが強制逆探知のコードを叩き込むが、スピーカーの音声信号はエディンバラ大学の全サーバーを瞬時に経由し、瞬く間にログを爆破しながら消滅していった。ホログラムのキャサリンの姿が、ノイズと共にフッと掻き消える。
講義室に残されたのは、完全な静寂と、冷たい夜霧だけだった。
届かないチェックメイト
翌朝。エディンバラ大学のキャンパスには、何事もなかったかのように朝の光が差し込んでいた。卒業パーティーの喧騒は去り、未来の幹部候補たちはそれぞれの日常へと戻っていく。
しかし、ハナコ・ハート刑事の日常は、未だ霧の中に囚われたままだった。
テラスハウスに戻った、ハート刑事は、破れたドレスのまま、書斎のソファに深く腰を沈めていた。バーバラも合流してデータノートを前に、悔しさに唇を噛んでいる。
ホームズは静かに歩み寄り、ハート刑事の膝の上にそっと温かい顎を乗せた。そして、「クゥーン……」と優しく、しかし力強く鼻を鳴らした。
「ハナコ姉様、ポチ君が励ましてくれてるべ……。『今回は奴の欺瞞に足元をすくわれず、完璧な回避を見せた。君の身体能力と正義感を逆手に取る “あの女” のロジックを、私たちは確実に捉えつつある。これは敗北ではない。次のチェスを打つための、盤面の整理だ』って、大先生の真っ直ぐな瞳が言ってるべ」
「……ええ。ありがとう、ポチ君」
ハナコ刑事はホームズの賢敏な頭を優しく撫でながら、窓の外のロンドンの霧を見つめた。
自称『アイリーン・アドラーの生まれ変わり』。
その姿も、キャサリンの行方も、未だ霧の向こう側。人間の心を完璧にハッキングする最悪の宿敵との闘いは、始まったばかりだった。
一人と一匹、そして一人の少女の絆が、この見えない蜘蛛の巣を完全に切り裂くその日まで、名探偵の咆哮は終わらない。




