Episode 68:前編
Episode 68:前編
「エディンバラの不穏な灯火(E-D-I-N-B-U-R-G-H)――消えた行方と、政界の仮面舞踏会」
テラスハウスの書斎には、重苦しい静寂が満ちていた。
デスクの上には、前回の事件で残されたキャサリンの琥珀のブローチが置かれている。
相手は、ハート刑事のあらゆる行動データを研究し尽くした難敵、自称「アイリーン・アドラーの生まれ変わり」。キャサリンを連れ去った奴の足跡は、ロンドンの霧の彼方へと完全に途絶えていた。
「ポチ君、私、行ってくるわ」
サマーニットから一転、最高級のシルクで仕立てられたイブニングドレスに身を包んだハナコ刑事が、決意に満ちた瞳でホームズを見つめた。
今回の舞台は、スコットランドの首都・エディンバラ。
エディンバラ大学の最高峰である「社会政治科学スクール(School of Social and Political Science)」の大学院卒業記念パーティー。
そこには、政府の行政官や政治家、国会や政府機関の幹部を目指す若きエリートや、現職の権力者たちが一堂に会する。
誘拐されたキャサリンが、かつてこのスクールへの進学を視野に入れていたという微かな動機だけを頼りに、ハート刑事は政界のコネクションが集まる緊迫のキャッスル・パーティーへと行くことに決めたのだ。
(ハート君、今回はいつもの現場捜査とはわけが違う。スコットランド議会や政府直結のシンクタンク『ブキャナン・インスタチュート』の影が動く政治の最高中枢だ。警察バッジやヤード流の逮捕術がそのまま通用する世界ではないぞ)
ホームズは低く小さく鳴き、ハート刑事のドレスの裾にそっと鼻先を寄せた。
今回は、犬を連れての潜入が絶対に不可能な、格式高い最高警戒のフォーマル・パーティー。
世界一の名探偵は、ロンドンの通信グリッドからバーバラと共に後方支援に回る、異例の「お留守番」を選択せざるを得なかった。
政治の都、エディンバラ大学の罠
夜、ライトアップされたエディンバラ城を見上げる高貴なホール。
会場には、政治学・国際関係学や社会政策学を修めた、未来のスコットランド政府を担うトップエリートたちの熱気に満ちていた。
グラスの触れ合う音と優雅な弦楽四重奏の裏で、交わされているのはすべて高度な政策提言と権力のパワーゲームだ。
ハート刑事は、持ち前の天真爛漫な社交性を演じながら、政治家たちの会話に神経を研ぎ澄ませていた。
「……例のブキャナン・インスタチュートの最新の政策データ、どこかへ流出したらしいべ」
「まさか、あの『アドラー』を名乗る正体不明のコンサルタントに掴まれたのか?」
背後のテラスから聞こえた微かな会話に、ハート刑事の脳内測定器が跳ね上がった。
誘拐犯であるアイリーンの影は、やはりこのスコットランドの政治中枢に深く侵入していたのだ。
奴はキャサリンを人質に取りながら、エディンバラ大学の最高機密である公共政策インフラのデータを狙っている。
一人と一匹、離れて繋がるロジック
(ハート君、聞こえるか。君のスマートフォンの音声入力を通じて、こちらの記憶の宮殿と同調しているぞ)
書斎で、冷たいウォーターを舐めながらスピーカーを見つめるホームズの思考が、インカムを通じてハート刑事へとリンクしていた。ノートPCを開いたバーバラも、エディンバラ大学のサーバーの動向を監視している。
「ポチ君、やっぱりアイリーンはここにいるわ。キャサリンを拉致した本当の狙いは、スコットランド政府の幹部候補たちのデータを掌握することだったのよ……!」
ハート刑事がドレスの胸元を抑え、バルコニーの影で囁いたその時、ホールの全照明が突如として一斉に消灯した。
暗闇に包まれるエディンバラの夜。
給仕に変装した見知らぬ男が、ハート刑事のすれ違いざま、彼女の手に封筒を滑り込ませて闇へと消えた。
エディンバラのパーティー会場に、不穏な警告音が鳴り響き始める――。




