Episode 57:前編
Episode 57:前編
「アルプスの警察条約(S-W-I-S-S)――船酔いの名探偵、あの滝へ」
ヤードからの新指令と、まさかの「船旅」
「大先生、ハナコ姉様! 大ニュースだべ! イギリスとスイスが2022年に締結した『重大組織犯罪・テロ対策警察協力条約』に基づいた、合同防犯活動の広報連携の強化イベントが、スイス本国で開催されることになったべ!」
ホネホネビルの最上階ペントハウス。藁のベッドから起きたばかりのバーバラが、ヤードからの公式書簡を両手に抱えて弾んだ声を上げた。国際的な金融犯罪やテロへの情報共有を強めるための、国家的な大プロジェクトだ。
「スイスね! 国際警察の絆をノーリミッツに深めるチャンスよ、ホームズ!」
ハナコ・ハート刑事はルブタン・スニーカーの真っ赤なソールを輝かせ、やる気満々で旅支度を始めた。
しかし、ここで一つ大きな問題が発生した。ロンドンからスイスへ直接向かう地下特急列車(ユーロスター経由の接続ルート)は、直近のメンテナンスにより、あいにく本日中にロンドン駅からは乗車できない。
「……ということは、まずはドーバー海峡を『船』で渡るしかないべ!」
バーバラの言葉を聞いた瞬間、世界一知的なポケット・ビーグル、ホームズの顔がサーッと青ざめた。
(……ウップ。船、だと? 荒波に揺られるあの鉄の塊は、私の精密な論理回路(三半規管)を激しくかくらんする、この世で最も非論理的な乗り物だ……。ハート君、ポチ君と呼んで同情してくれてもいいが、今の私はロジックを維持するだけで限界だ……)
ドーバー海峡の悲劇と、ホームズの「青白いブロック配列」
「ちょっとポチ君、大丈夫!? 完全に目が泳いでるわよ!」
船のデッキで、波に揺られながらぐったりと横たわるホームズの背中を、ハート刑事が心配そうに撫でている。
ホームズは震える前足で、バーバラがトートバッグから取り出してくれたアルファベットブロックを、なんとか5つ並べ替えた。
[ S - W - I - S - S ]
「大先生、しっかりするべ! 船酔いでダウンしてる場合じゃないべ!」
バーバラが素直な瞳で、ホームズがプロットした文字とスイスの警察条約のデータを照らし合わせる。
「この『S-W-I-S-S』の5文字は、ただの国名じゃないべ。今回の合同作戦の核となる『防犯情報共有グリッド(Strategic Weapon of Information Sharing System)』の略称だべ! 白猫は、大先生が船酔いで使い物にならないこの【数時間】のタイムラインを狙って、スイスへの広報連携データを中継するドーバー海峡の海底光ケーブルをハッキング(かくらん)しようとしてるべ!」
(……その通りだ、バーバラ君。ウップ……。白猫め、私が波に弱いことまで計算に入れて、ヤードとスイス警察の連携を遮断する算段だな。だが、ハート君……私の三半規管は狂っても、この大英帝国の条約に基づく『正義のタイムライン』は11ミリの狂いもなく繋がっている!)
ハート刑事は、並んだ5つの文字を静かに見つめ、トレンチコートの襟を正した。
「……なるほど。スイス(SWISS)。ポチ君が命がけでブロックを並べてくれた真意、しかと受け止めたわ! 白猫は私たちの船酔いを狙ったつもりでしょうけど、2022年から紡がれてきた両国の警察の絆を舐めないことね! バーバラちゃん、波の周期とハッキングのノイズから、白猫の電脳パルスを相殺する『逆位相シグナル』の周波数を逆算して!」
「おうだべ、ハナコ姉様! すぐに計算するべ!」
因縁の地、ライヘンバッハへ
船を降りて大陸の特急列車に滑り込み、スイスの澄んだ空気と山並みが窓の外に広がると、ホームズの脳細胞は劇的な復活を遂げた。青白かった顔に元の怜悧な光が戻る。
「ワン!」
復活の一鳴きを響かせたホームズの視線の先には、広報活動の最終目的地であり、名探偵ホームズの歴史において最大の因縁の場所。
――あの轟音を立てて流れ落ちる、シャーロック・ホームズとモリアーティ教授が死闘を繰り広げた**「ライヘンバッハの滝」**の白い飛沫が、アルプスの山陰からその姿を現し始めていた。
白猫が仕掛けたスイス警察協力条約を揺るがす最大の罠、そしてあの滝の側で待ち受ける宿命のチェックメイトとは!?




