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Episode 52:前編

Episode 52:前編


「小さき世界の翻訳者と、名探偵の鏡(S-O-U-L)」

静寂の集会所と、招かれた名探偵

ロンドンの片隅にある、古びた教会の集会所。

いつもなら、ハート刑事の「事件よ、ホームズ! ノーリミッツに突撃よ!」という景気のいい声と共にドアがブチ破られる火曜日だが、今日のテラスハウスの朝は、驚くほど穏やかだった。


「ホームズ、今日はヤードの事件はお休み。広報課のボランティア活動の一環として、あなたに大事なお仕事をお願いしたいの」


ハート刑事が差し出したのは、教会が主催するサークルの招待状だった。そこには、自閉症、アルコール依存症、そして元引きこもりといった、現代社会のスピードにうまく馴染めず、それぞれの「生きづらさ」を抱えた人々が集う会の名前が書かれていた。


ポケット・ビーグルの肉体を持つホームズは、その高い知性と穏やかな佇まいから、参加者たちの心を解きほぐす「癒やしセラピードッグ」として特別に呼ばれたのだ。


(……ふむ。ヤードの取調室で悪党の嘘を暴くのとは、真逆の任務だな。だが、言葉を持たない今の私だからこそ、彼らの『静かな宇宙』にアクセスできるかもしれない)


閉ざされた心の扉を開く「鍵」

集会所の扉を開けると、そこには他者との接触を拒むような、独特の張り詰めた空気が漂っていた。

ハート刑事は、今日ばかりはトレードマークのルブタンのヒールを響かせることもなく、静かに参加者たちを見守るポジションに就いた。


ただ、静かな時間が流れていた。

ホームズはトコトコと、部屋の隅で膝を抱えて俯いている、元引きこもりの少女のもとへ歩み寄った。

彼女は世界を恐れ、何ヶ月も暗い部屋から出られずにいたという。

ホームズは、そっと彼女の冷たい靴の上に、自分の温かい前足を重ねた。

ただそれだけだった。

しかし、言葉のない沈黙のコミュニケーションの中で、少女の頑なな肩の力が、ふっと抜けるのが分かった。

彼女の瞳に、ほんの少しだけ生気が戻り、ホームズの頭を優しく撫で始めた。


(言葉など、時に邪魔なだけさ。君がその暗闇から一歩踏み出しただけで、すでに世界は変わり始めているよ)

次にホームズが向かったのは、部屋の中央で、一定のリズムで指を動かし続けている自閉症の少女の前だった。

彼女は独自の、他者には理解できないパターンで、おもちゃのブロックを並べ替えていた。


ホームズは、自らの知育ブロックを口で咥えると、彼女の並べる規則性ロジックを瞬時に見抜き、その「次のパターン」を正確に床に置いた。

少女の手が止まった。彼女はホームズを見つめ、初めて「ふふっ」と、言葉にならない、しかし確かな『意味を持つ音(言葉らしきもの)』を漏らして微笑んだ。

(なるほど、君の脳内(チェス盤)は実に美しい幾何学で満ちているね。私には、君の言語が完璧に理解できるよ)


アルコールの霧の向こうにある「昔の自分」

最後にホームズが近づいたのは、一人の年老いた男性だった。

彼は重度のアルコール依存症を患い、震える手で温かい紅茶のカップを握りしめていた。その瞳は、過去の激しい後悔と、現実からの逃避の霧で濁っていた。


ホームズは、その男の前に静かに座り込んだ。

クンクンと鼻を鳴らし、男から漂う特有の匂いと、その哀愁を帯びた背中を見つめているうちに、名探偵の胸の奥に、言葉にできない奇妙な感情が湧き上がってきた。

(……あぁ、この感覚は。……懐かしいな)

それは、かつて19世紀のベーカー街で、難事件がない退屈スランプに耐えかね、脳細胞を極限まで刺激するために「7パーセントの溶液コカイン」に手を染めていた、かつての自分シャーロック・ホームズの影そのものだった。


現実の退屈と恐怖から逃れるために、何かに依存せざるを得なかった人間の、深い孤独。

ホームズは、男の震える膝にぽんと頭を乗せた。

男は驚いたように目を見開き、やがてホームズの背中を、自らの過去を労わるように、ゆっくりと、愛おしそうに撫で始めた。男の目から、一滴の涙がこぼれ落ちた。


新たなる仲間イレギュラーズの夜明け

集会所の床に、ホームズはそっと4つのアルファベットブロックを並べた。

いつものような事件の暗号ではない。彼らの魂の共鳴リンクを示すための、静かな4文字だ。

[ S - O - U - L ](ソウル / 魂の絆)

ハート刑事は、その文字をいつも通り対面から静かに見つめ、今回は大声を出すこともなく、ただ優しく微笑んだ。


「『L』『U』『O』『S』……ルオス。魂を解放するルオスね。ホームズ、彼らはきっと、いつか私たちの力になってくれる、大切な『現代のベーカー街遊撃隊イレギュラーズ』になるわね」


(あぁ、珍しくまともな翻訳じゃないか、ハート君。その通りだ。他者と繋がれない彼らだからこそ、見合える深淵がある。彼らは私の、かけがえのない仲間だ)


「ワン」と、教会の集会所に響き渡る、世界一優しく知的な生の声。

ハート刑事の爆発に頼ることなく、心と魂の翻訳だけで紡がれた凸凹バディと小さき仲間たちの物語は、ロンドンの街に静かな奇跡の光を灯しながら、穏やかな夜へと続いていく。

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