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Episode 6:前編

Episode 6:前編


鼻を刺す「悪意」の匂いチェロ事件の興奮も冷めやらぬ週末の午後、

ロンドンの下町。


ハート刑事は私服姿で、

ホームズのリードを引いてのんびりと散歩を楽しんでいた。

「天気のいい日の散歩は最高ね、ホームズ!


今日は事件もお休みだし、

どこか美味しいものでも食べて帰ろっか」

(ふむ、たまにはこうした平穏も悪くない。

犬の肉体というのも、運動不足解消にはちょうどいいからな)

ホームズはしっぽを軽く揺らしながら、

石畳の匂いを嗅いでいた。しかし、

ある路地裏の角に差し掛かった瞬間、

彼の優秀な嗅覚がピキリと凍りついた。


(……待て。この匂いは……)ゴミ箱の陰から漂ってくる、

ツンとした薬品の臭い。クロロホルム、

そして……人間が恐怖したときに分泌される

、濃密な冷や汗の匂いだ。(間違いない、ここでごく最近、

人間が襲われて連れ去られた!

匂いの軌跡は……あっちだ!)

「ワンッ!」ホームズは鋭く吠えると、リードを力強く引っ張り、

事件の匂いが続く方向へと走り出した。

「ちょ、ちょっとホームズ!? 急にどうしたのよ、

そっちは行き止まりよ!?」

ハートは慌ててその後を追いかける。


理性を狂わせる「天才的な油」

ホームズは自慢の嗅覚をフル稼働させ、

見えない「匂いの糸」を正確に辿っていた。

犯人の足跡は細い路地を抜け、賑やかな商店街の裏手へと続いている。

(ふん、私の鼻から逃げられると思うなよ、不届き者め。


このままアジトまで突き止めて──)角を曲がった、

その瞬間だった。じゅわぁぁぁぁ……。

心地よい揚げる音とともに、ホームズの脳髄を直接ぶん殴るような、

凄まじい「香気」が爆発した。

(──な、何だこの、天上のものとは思えぬ芳しき芳香は……!?)

ニンニクと醤油の完璧な調和。


鶏肉の脂が熱々の衣の中で弾ける、圧倒的な肉の匂い。

商店街の一角にあるお惣菜屋から揚がったばかりの、

特製「骨なしジューシー唐揚げ」の匂いだった。

(い、いかん。私は大英帝国の紳士、シャーロック・ホームズだ。

今、凶悪な誘拐犯を追跡している真っ最中で……)ゴクリ。

子犬の胃袋が、情けない音を立てて鳴いた。


ビーグル犬としての本能が、名探偵の理性を一瞬にして消し飛ばす。

(あ、足が……勝手に……唐揚げの方へ……!

ああ、神よ、私の肉体が私の意志を拒絶している……!!)

「あら? ホームズ、お腹空いたの? もしかして、

その唐揚げが気になる?」

しゃがみ込んだハートの目の前で、


ホームズは完全に事件の匂いを忘れ、

お惣菜屋のショーケースに鼻を押し付け、

激しくしっぽを振っていた。

(紳士の尊厳が……しかし、この誘惑には勝てん……!)


ドジがもたらした「神の一手」「しょうがないわね。

はい、これはワンちゃん用のご飯じゃないから、

匂いだけね!」ハートは自分用に唐揚げをパックで買い、

その場で一つ口に放り込んだ。

「ん〜! 美味しい! ……って、きゃっ!?」

ハートが唐揚げの油で手を滑らせ、持っていたはずの

「お店の茶色い紙袋」を地面に落としてしまった。

紙袋は風に煽られ、路地裏のゴミ箱の隙間へと飛んでいく。

「あちゃー、ゴミになっちゃった。拾わなきゃ……」


ハートが手を伸ばそうとしたとき、

ホームズはその紙袋の「裏側」に目が釘付けになった。

(……む? 待てよ。その紙袋……)

ホームズは唐揚げの誘惑からハッと正気を取り戻し、

ゴミ箱の隙間に落ちた紙袋に近づいた。

紙袋の表面には、ハートの指の跡とは明らかに違う、

「黒い油まみれのくっきりとした指紋」

がべったりと付着していたのだ。


しかも、その指紋からは、先ほどホームズが追っていた

「クロロホルムと冷や汗の匂い」が強烈に漂っていた。

(そうか……! 犯人も、この店で唐揚げを買って食べていたんだな!?

食い意地が張っていたのは私だけではなかったというわけだ!)

ホームズは紙袋を前足でガシッと押さえ、

ハートに向かって吠えた。

「ワンッ! ワンワンッ!」

(ハート君、これだ! ここに犯人の決定的な証拠がある!)

「え? ホームズ、その袋が欲しいの?


……じゃなくて、待って。

この指紋……」ハートはスマホを取り出し、

紙袋の指紋をパシャリと撮影した。

彼女の写真記憶が、警察のデータベースと一瞬でリンクする。

「この指紋の渦の形……間違いないわ。

さっき署の指名手配情報で流れてきた、連続誘拐犯の

『ラット・ジョー』の指紋よ! 指紋の形、

ミリ単位で完全一致!」(素晴らしいぞ、ハート君!

君のドジが、まさかこれほど見事な捜査の進展を生むとはな!)


ホームズは誇らしげに胸を張った。

唐揚げの誘惑に負けたおかげで、

結果的に犯人の決定的な痕跡を見つけることに成功したのだ。

「犯人はこの近くにいるわ! ホームズ、今度こそ案内して!」

(よし、行くぞハート君。

私の鼻は、もう二度と唐揚げの匂いには惑わされん……たぶん!)

名探偵(犬)と女性刑事は、紙袋に残された微かな匂いを頼りに、

誘拐犯の潜むアジトへと本格的な追跡を開始するのだった。

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