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第九話 復活した朝湯と、はじめてのお客様


 源泉が戻った、その朝。


 潮見亭は、盛大に水浸しになっていた。


「優斗くん! そっちの栓を閉めて!」


「閉めてます! でも止まりません!」


「右です、右! それはシャワーの方です!」


「どっちから見て右ですか!?」


「正面からです!」


「俺、今、裏側にいます!」


 大浴場に、真帆と優斗の慌ただしい声が響く。


 長時間空になっていた配管へ、一気に湯が戻った影響だった。


 洗い場の蛇口が二つ、閉じようとしても動かない。


 正確には、内部の弁が固着して、湯を止められなくなっている。


 片方からは熱い湯が勢いよく噴き出し、もう片方のシャワーヘッドは、誰も触れていないのに天井へ向かって暴れ回っていた。


「うわっ!」


 跳ねたシャワーヘッドが、優斗の頭を直撃する。


 そのまま冷たい水が、顔面へ降り注いだ。


「優斗くん、大丈夫!?」


「大丈夫です! ちょっと心が折れただけです!」


『心を折ってる暇があるなら、元栓を閉めて』


 浴場の壁に取りつけられたスピーカーから、千晴の声が飛んだ。


『洗い場の三番系統。壁際の点検口を開けて、黄色い取っ手を時計回り』


「黄色い取っ手ですね!」


『赤には触らないで』


「赤い方は何ですか?」


『露天風呂の循環停止』


「危なっ!」


『だから触らないでって言った』


 優斗が慌てて黄色い取っ手を回す。


 噴き出していた湯が、ようやく勢いを失った。


 真帆は暴れていたシャワーヘッドを捕まえ、深く息を吐く。


「……止まりました」


『次。湯口の下を見て』


「湯口ですか?」


 真帆が振り返る。


 大浴場の石造りの湯口からは、乳白色の温泉が勢いよく流れ続けていた。


 明らかに量が多すぎる。


 湯船の縁から溢れた湯が、洗い場へ滝のように流れ出していた。


「千晴さん、溢れてます!」


『見れば分かる』


「どうしましょう」


『排水弁を開けて。今は源泉の圧力を安定させる方が優先。もったいないけど、一度外へ逃がす』


「せっかく戻ってきたお湯なのに……」


『建物の中を温泉にしたいなら、そのままでいい』


「すぐ開けます」


 真帆と優斗は、急いで排水弁を操作した。


 ごぼごぼという大きな音とともに、溢れていた湯が排水路へ吸い込まれていく。


 大浴場に、ようやく静けさが戻った。


 真帆は濡れた前髪を指で払う。


「源泉が戻ったら、すぐに元通りになると思っていました」


『止まってた機械や配管へ、いきなり以前と同じ圧力を掛ければ、どこか壊れる』


「お湯が戻ったのに、まだお風呂には入れないんですか?」


『配管の洗浄と温度確認が終わるまで禁止』


「どのくらいかかります?」


『午前中』


「長い……」


『数時間で済むことを喜んで』


 ぶつり、と通信が切れた。


 優斗は全身から水を滴らせながら、肩を落とす。


「せっかく生きて帰ってきたのに、朝から水を浴びるとは思いませんでした」


「お湯じゃなかっただけ、残念だったね」


「そういう問題ですか?」


「風邪をひかないうちに着替えてきて」


「真帆さんも、びしょびしょですよ」


 指摘されて、真帆は自分の姿を見下ろした。


 たすき掛けにした着物の袖も、白い前掛けも、裾までしっかり濡れている。


「……私も着替えてきます」


『それと』


 切れたはずのスピーカーから、再び千晴の声が響いた。


『廊下を濡らさないで』


「聞こえてたんですか?」


『監視カメラで見えてる』


「先に言ってください」


『濡れたあとに気づいた』


「もう」


 真帆は苦笑しながら、優斗とともに浴場をあとにした。


     *


 大広間を改装した医務室では、朝の診察が行われていた。


 簡易ベッドの上で、リリカが毛布に包まれている。


 昨夜までの青白さは薄れ、頬にもわずかな血色が戻っていた。


 薫子は聴診器を外し、体温計を確認する。


「熱はありません。体温も安定しています」


「呼吸も正常範囲に戻っている」


 隣では、中山が記録をつけていた。


「低体温による一時的な意識障害は改善したと見ていい。ただし、栄養状態はまだ悪い」


「今日は安静ですね」


「当然です」


 真帆が尋ねると、薫子が念を押すように頷いた。


「歩かせるとしても、付き添いのもとで短い距離だけ。地下へ行くなんてもってのほかです」


「行きません」


 リリカが、毛布の中から小さな声で答えた。


 紫色の瞳が、少し気まずそうに薫子を見上げている。


「本当ですね?」


「……たぶん」


「たぶんでは困ります」


 薫子の声が、わずかに厳しくなる。


 リリカは毛布へ半分ほど顔を隠した。


「行かない……です」


「よろしい」


 そのやり取りを見ていた真帆が、くすりと笑った。


「おはようございます、リリカちゃん。具合はいかがですか?」


「おはよう……ございます」


 リリカは、真帆の挨拶を真似するように答えた。


「もう、寒くないです」


「それはよかったです」


 真帆はベッドの横へ座る。


「お腹は?」


「少し、空きました」


「それなら、西村さんが朝食を用意してくれています」


「また、白いお粥?」


「今日は、少しだけ豪華になっていますよ」


「豪華……」


 リリカの目が、わずかに輝いた。


 真帆はその反応を見逃さなかった。


「楽しみですか?」


「……少し」


「それなら、もう少しだけ待っていてくださいね」


 ベッドの隣では、ゆずが自分用の毛布に寝そべっていた。


 後ろ脚には、薫子が巻いた包帯がある。


 立ち上がろうとすると痛むらしく、朝の見回りへ行けないことが不満なのか、先ほどから何度も鼻を鳴らしていた。


「くぅん」


「今日はお休みです」


 真帆が言うと、ゆずは耳を伏せた。


「昨日、頑張りすぎたでしょう?」


「わふ……」


「見回りは私と優斗くんでします。ゆずはリリカちゃんのそばにいてあげて」


 ゆずはリリカを見た。


 リリカも、毛布の中からゆずを見つめ返す。


「……この子も、怪我したの?」


「ゆずといいます。地下で私たちを助けてくれたんです」


 リリカは手を伸ばしかけ、途中で止めた。


「触ってもいい?」


「ゆずが嫌がらなければ」


 真帆が答えると、リリカはゆっくりと手を近づけた。


 ゆずは、その手の匂いを嗅ぐ。


 しばらくして、鼻先を少女の指へ押しつけた。


「……あったかい」


「昨日より元気になった証拠ですね」


 リリカは恐る恐る、ゆずの頭を撫でる。


 ゆずは目を細め、その場へ顎をつけた。


 どうやら、見回りを休む代わりの仕事を受け入れたらしい。


「リリカちゃん」


「何?」


「今日一日、ゆずのお世話をお願いしてもいいですか?」


「わたしが?」


「お水をあげたり、そばにいてあげたりする大切なお仕事です」


 リリカは少し考えたあと、真剣な顔で頷いた。


「分かりました」


「わふ」


 ゆずも短く鳴いた。


 真帆は二人の間に、ひとまず任務が成立したことを確認し、満足そうに微笑んだ。


     *


 朝食は、昨夜と同じ白粥だった。


 ただし、今朝の白粥には、細かく溶いた卵が少しだけ加えられている。


 薄く出汁も利かせてあり、表面には刻んだ青菜がほんの少し散らされていた。


「豪華……」


 リリカは、目の前の膳を見つめて呟いた。


「そうだろう」


 西村が腕を組み、得意げに鼻を鳴らす。


「ただの粥じゃねえ。卵入りだ」


「卵が入ると豪華なんですか?」


 優斗が尋ねる。


「今の潮見亭じゃ、十分豪華だ」


「確かに」


「お前の分は、卵なしでもいいぞ」


「豪華な方でお願いします!」


 従業員用の食卓には、全員分の朝食が並んでいた。


 リリカはまだ長く座っているのが難しいため、背中に座布団を重ね、真帆の隣へ座っている。


 ゆずは、足元の毛布の上。


 その前には、水と、味のついていない柔らかな白身魚が少しだけ置かれていた。


「千晴さんは?」


 真帆が食事処を見回す。


「機関室だ」


 西村が答えた。


「持ってこいってさ」


「せっかく電気も戻ったのに、出てこないんですね」


「電気が戻ったから、余計に忙しいらしい」


 優斗が粥を口へ運びながら言う。


「源泉の圧力が、まだ上下してるみたいです。配管の温度も全部確認し直すって」


「千晴さん、一睡もしていないのでは?」


「寝ろって言っても聞かねえだろ」


 西村が呆れたように息を吐く。


 そのとき、食事処の内線スピーカーが鳴った。


『聞こえてる』


「だから、聞こえるように言った」


 西村が平然と返す。


『真帆』


「はい?」


『午前中は、大浴場以外の給湯を止める。露天風呂も使用禁止』


「露天風呂もですか?」


『配管の一部で圧力が安定してない。勝手に栓を開けないで』


「分かりました」


『それと、機関室の朝食』


「今、優斗くんに持っていってもらいます」


『卵は?』


 西村が眉を上げた。


「天才様は、卵入りをご所望か?」


『タンパク質が必要』


「素直に食いたいと言え」


『作業効率の問題』


「はいはい。豪華なやつを持っていってやる」


 通信が切れる。


「千晴さんも、卵入りがいいんですね」


 リリカが小さく言った。


「そうみたいです」


 真帆は笑いを堪えながら答える。


「千晴さんは、食べたいものを素直に言うのが少し苦手なんです」


「どうして?」


「難しい質問ですね……」


 優斗が首を傾げる。


「照れ屋なんじゃないですか?」


 スピーカーが、ぶつっと鳴った。


『違う』


「まだ聞いてたんですか!?」


『早く持ってきて』


「はい!」


 優斗は自分の膳を半分ほど残したまま、千晴の分を載せた盆を持って立ち上がった。


「俺の粥、食べないでくださいね!」


「誰も取らねえよ」


 西村が呆れた声を返した。


     *


 朝食を終える頃には、東の海から明るい日差しが差し込み始めていた。


 真帆は、リリカを本館二階の客室へ案内した。


 部屋の名は『潮騒』。


 海を正面に望める、潮見亭でも特に眺めのよい一室だった。


 障子を開けると、朝日に輝く相模湾が一面に広がる。


 リリカは窓際へ座り、しばらく言葉もなく海を見つめていた。


「海は、初めてですか?」


 真帆が尋ねる。


 リリカは首を横へ振った。


「知っています。でも……こんなふうに見るのは、久しぶり」


「どこで見たのか、覚えていますか?」


「……分からない」


 紫色の瞳が曇る。


 真帆は、それ以上尋ねなかった。


「思い出そうとしなくても大丈夫です」


「でも」


「覚えていないことを、無理に思い出そうとすると疲れてしまいますから」


 真帆は床の間へ花を飾った。


 裏庭に残っていた、白い椿を一輪。


「今は、ここでゆっくり休んでください」


「お客様だから?」


「はい」


「お客様は、何をすればいいの?」


 真帆の手が止まった。


「何もしなくていいんです」


「何も?」


「食べて、温まって、眠る。景色を眺めたり、お話をしたり。疲れた体と心を休ませるのが、お客様のお仕事です」


「休むのが……仕事?」


「潮見亭では、そうです」


 リリカは不思議そうに畳へ視線を落とす。


「何もしないと、怒られない?」


「誰にですか?」


「……分からない」


 また、記憶のない答えだった。


 真帆はリリカの前へ膝をつく。


「少なくとも、潮見亭では怒りません」


 安心させるように微笑む。


「存分に、何もしないでください」


「存分に……」


「お腹が空いたら呼んでください。喉が渇いても、寒くても、寂しくても」


「寂しくても?」


「もちろんです」


 真帆は、ゆず用の毛布を窓際へ置いた。


 優斗に抱えられてきたゆずが、その上へそっと下ろされる。


「それに、今日はゆずのお世話をお願いしていますからね」


 リリカはゆずを見る。


 ゆずは毛布の上で丸くなり、すでに眠たそうに目を細めていた。


「……分かりました」


 リリカは少しだけ胸を張る。


「何もしないで、ゆずのお世話をします」


「完璧です」


「それ、何かしてませんか?」


 優斗が小声で指摘した。


 真帆は、聞こえなかったふりをした。


     *


 午前十時を過ぎた頃。


 機関室から、館内放送が流れた。


『大浴場の配管洗浄終了。湯温、四十二・一度。硫黄濃度、通常範囲。循環装置も異常なし』


 真帆は掃除の手を止めた。


「千晴さん。それはつまり……」


『大浴場は使っていい』


「お風呂に入れるんですね!」


『一度に大勢で使わないで。最初は二人まで。温度や湯量に異常があったら、すぐ連絡』


「分かりました!」


『あと、長湯は禁止』


「私、そんなに長く入りませんよ」


『去年、露天風呂で一時間寝てた』


「あれは寝てたんじゃなくて、考え事をしていたんです」


『目を閉じて、いびきをかきながら?』


「……少しだけ眠っていたかもしれません」


『今日は十五分』


「短いです」


『十五分』


「はい」


 通信が切れた。


 真帆は箒を置き、急いで医務室へ向かった。


 薫子へ入浴させても問題がないか確認すると、条件つきで許可が下りた。


「体温は安定していますが、まだ体力はありません。湯船へ入るのは五分程度。真帆さんが必ず付き添ってください」


「分かりました」


「少しでも顔色が悪くなったら、すぐに出すこと」


「はい」


「絶対ですよ」


「信用されてませんね……」


「地下へ入った翌日に、入浴させていいか尋ねに来る人ですから」


「それはリリカちゃんのためで……」


「だから許可したんです」


 薫子は小さく笑い、着替え用の浴衣を真帆へ渡した。


     *


 大浴場には、懐かしい湯気が満ちていた。


 乳白色の温泉が湯船を満たし、石造りの湯口から新しい湯が絶えず注がれている。


 真帆にとっては、毎日のように見てきた景色。


 だが、昨夜すべてを失いかけたあとでは、その一つ一つが奇跡のように思えた。


 リリカは脱衣所の入り口で立ち止まり、白い湯気を見つめていた。


「怖いですか?」


 真帆が尋ねる。


「……分からない」


「無理に入らなくてもいいですよ」


 リリカは首を横へ振る。


「入りたい」


「では、ゆっくりにしましょう」


 真帆は浴衣を脱ぐのを手伝い、先に掛け湯をする。


 リリカは肩へ湯がかかった瞬間、少しだけ体を強張らせた。


「熱いですか?」


「ううん」


 小さく首を振る。


「……あたたかい」


 昨夜、白粥を口にしたときと同じ言葉だった。


 真帆は湯温をもう一度確かめ、リリカの手を取った。


「段差があります。足元に気をつけて」


 一段ずつ、ゆっくりと湯船へ入る。


 リリカの細い体が、乳白色の湯に包まれていった。


「……あ」


 小さな声が漏れる。


 リリカは目を見開き、それからゆっくりと息を吐いた。


 強張っていた肩から、少しずつ力が抜けていく。


「気持ちいいですか?」


「……うん」


 リリカは、湯面へ両手を浮かべた。


「お湯が、生きてる」


 真帆は、その言葉に目を瞬いた。


「そうですね」


 湯口から注がれる温泉へ視線を向ける。


「もう一度、戻ってきてくれました」


「わたしが来たから?」


 リリカが尋ねた。


 真帆は、すぐには答えなかった。


「分かりません」


「分からない?」


「千晴さんが、まだ調べています」


 真帆は微笑んだ。


「でも、リリカちゃんが責任を感じる必要はありません。お湯が止まったことも、戻ったことも、あなたのせいだとは決まっていませんから」


「……そうなの?」


「はい」


「じゃあ、わたしは何をすればいい?」


「今は、お風呂を楽しんでください」


「それだけ?」


「それだけです」


 リリカは、しばらく真帆を見つめた。


 やがて湯船の縁へ背を預け、目を閉じる。


「……お客様の仕事」


「上手です」


「何もしない」


「はい」


「存分に」


「その調子です」


 リリカの口元が、ほんのわずかに緩んだ。


 それは、真帆が初めて見る少女の自然な笑顔だった。


 潮見亭が取り戻したものは、温かな湯だけではなかった。


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