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第八話 白粥(しらがゆ)のおもてなしと、奇跡の夜明け

 大広間を改装した医務室は、死んだように冷え切っていた。


 温泉熱を利用した暖房は止まり、壁の奥を流れていたはずの湯の音も聞こえない。


 室内に残された文明の音は、千晴が接続したポータブルバッテリーと、小型ファンが立てる頼りない回転音だけだった。


 簡易ベッドの上には、古風な着物姿の少女が横たわっている。


 淡い紫色の髪は冷たい汗で額へ張りつき、血の気を失った唇が小刻みに震えていた。


 呼吸は浅い。


 時折、思い出したように途切れるたび、真帆の胸が締めつけられた。


 その隣では、負傷したゆずが毛布に包まれている。


 幸い、右の後ろ脚の骨に異常はなかった。


 だが、地下で飛んできた石片を受けた場所は赤く腫れ、立ち上がろうとするたびに痛むらしい。


「くぅん……」


 ゆずは鼻を鳴らし、不安そうに真帆を見上げていた。


「大丈夫。ここにいるからね」


 真帆が頭を撫でると、ゆずはわずかに目を細めた。


 窓の外は、まだ深い夜に沈んでいる。


 夜明けまでは、あと三時間ほど。


 だが、真帆たちが出発する時刻は決まっていなかった。


 少女の体温と呼吸が安定し、薫子が移動に耐えられると判断してから、潮見亭を出る。


 それまでは治療を続ける。


 ただし、いつ地下の変異体が点検口を破るかは分からない。


 待っている間にも、撤退の準備だけは進めなければならなかった。


「薫子さん。この子を、もう少し温められませんか」


 真帆はベッドのそばに立ち、少女の青白い顔を見つめた。


「医療用の保温シートは、今使っているものが最後です」


 薫子は少女の首筋へ指を当てながら答えた。


「毛布も重ねていますが、この部屋自体が冷えすぎています。湯たんぽが使えればいいのですが……」


「お湯がない」


 優斗が力なく呟いた。


 その一言が、医務室へ重く沈んだ。


 源泉は止まった。


 給水ポンプも動かない。


 電気ケトルも、調理器具も、暖房設備も、今はただの箱にすぎなかった。


 文明が崩壊するということは、熱い湯を一杯用意することさえ難しくなるということだった。


「……炭ならある」


 沈黙を破ったのは、西村だった。


 腕を組んで考え込んでいた西村が、ゆっくりと顔を上げる。


「厨房裏の備蓄蔵に、紀州の備長炭が二箱残ってる。七輪もある」


「炭火を使うんですか?」


 優斗が尋ねた。


「ああ。厨房の勝手口の外で火を熾す。あそこなら庇があるし、煙が館内へ籠もる心配もねえ」


「でも、煙や食べ物の匂いでゾンビが来たら……」


「ここで凍え死なせるよりはましだ」


 西村は低い声で言った。


「出発がいつになるか分からん以上、炭を抱えたまま見殺しにする理由もねえ。それに――」


 ベッドの上で震える少女へ目を向ける。


「客を凍えさせたまま逃げ出す料理人がいるか」


 真帆は西村を見つめた。


 やがて、静かに頭を下げる。


「お願いします」


「任せろ」


 西村は優斗へ顎を向けた。


「優斗。蔵から七輪と炭を持ってこい。それから、熱を溜められそうな石を何個か探せ」


「石を?」


「炭火で温めて、厚い布へ包む。湯たんぽ代わりにする」


「どんな石でもいいんですか?」


「濡れてる石と、ひび割れた石は駄目だ。熱したら破裂する。乾いていて、手のひらに載るくらいの丸い石を選べ」


「分かりました!」


 優斗が医務室を飛び出していく。


 真帆はベッドの横へ膝をつき、少女の冷たい手を両手で包んだ。


 源泉を戻す方法は、もう分からない。


 祭祀録に記されていた神楽も、地下では最後まで舞えなかった。


 月樋の弁を開いても、地上まで湯を押し上げるほどの圧力は戻らなかった。


 何をすれば奇跡が起きるのかなど、真帆には分からない。


 そもそも、奇跡が起きる保証など、どこにもなかった。


 ただ一つ、決めていることがある。


 この少女が移動に耐えられるようになるまで治療を続ける。


 そして潮見亭を離れる前に、一人の客としてきちんと迎える。


 それが、今の真帆にできる最後の仕事だった。


「……さむい……」


 少女の唇が、かすかに動いた。


「大丈夫です」


 真帆は冷え切った手を、ゆっくりと擦った。


「もう少しだけ待ってください。今、温かくしますから」


「……おなか……すいた……」


 神の託宣でもなければ、古代の呪文でもない。


 空腹に耐える、一人の子どもの声だった。


「薫子さん」


 真帆が顔を上げる。


「この子に、何か食べさせられますか?」


「意識がはっきりして、自分で飲み込めるようになれば、少量ずつなら」


 薫子は慎重に答えた。


「ですが、今は呼吸が弱すぎます。誤嚥を起こせば危険です。まず体を温めて、意識が安定するのを待ちましょう」


「消化のいいものを、用意しておくのは?」


「それなら構いません。刺激が少なく、柔らかいものにしてください」


「分かりました」


 真帆は、炭の準備へ向かった西村の背中を思い浮かべた。


     *


「食べ物?」


 厨房の勝手口。


 庇の下で七輪へ炭を並べていた西村が、真帆の言葉に眉を寄せた。


 冷たい夜風が吹き込み、庭木の葉を揺らしている。


 七輪の中では、丸めた紙と細い木片へ、小さな火が移り始めていた。


「この子が目を覚ましたら、温かいものを食べさせてあげたいんです」


「無茶を言うな」


 西村は即座に答えた。


「冷蔵庫も冷凍庫も止まってる。撤退用に残してあるのは、乾パンと缶詰と干し肉だ。弱り切った子どもに食わせるもんじゃねえ」


「お米ならあります」


 優斗が撤退用の荷物を抱えて戻ってきた。


 片手には、小さな袋に入った生米がある。


「非常用に分けておいた分が、少しだけ」


「水は?」


 西村が尋ねる。


「あります」


 後ろから来た薫子が、一本のペットボトルを差し出した。


「昨日、濾過装置が動いているうちに確保した飲料水です」


 残量は一リットルほど。


 これから山道を移動することを考えれば、決して余裕のある量ではない。


「これは、撤退後にも必要な水だ」


 西村が険しい顔をする。


「分かっています」


 薫子も、簡単にはボトルを手放さなかった。


「全量を使うことはできません。ただ、この子は今、命に関わる状態です。体温と意識が戻った時、少量の水分と栄養を取らせる必要があります」


 真帆は西村を見る。


「お願いします」


「料理人だからって、何でも作れるわけじゃねえぞ」


「豪華な料理でなくていいんです」


 真帆は生米と水を見つめた。


「今あるもので、この子が安心して口にできるものを」


「それが一番難しいんだよ」


 西村は苦々しげに言った。


 だが、その目はすでに米と水の量を計算している。


「米を少なくして、水を多めにする。芯が完全になくなるまで炊く」


 料理人の顔へ戻っていく。


「最初は重湯だけ。飲み込めるようなら、潰した米を少しずつだ」


「塩は入れますか?」


 優斗が尋ねる。


「入れねえ。今の胃には余計なもんを足さない方がいい。必要なら薫子先生の指示で後から調整する」


 西村は立ち上がった。


「優斗。一番小さい土鍋を持ってこい。それから米を研ぐ器。水は一滴も無駄にするな」


「はい!」


「真帆ちゃんは医務室へ戻れ」


「私も手伝います」


「客を一人にする女将がいるか」


 西村は鼻を鳴らした。


「あの子のそばにいてやれ」


「……はい」


「ただの白粥だ」


 西村は、赤くなり始めた炭を見つめた。


「だが、潮見亭の料理人が作る。半端なもんは出さねえ」


     *


 機関室は、巨大な機械の墓場のように静まり返っていた。


 発電機は沈黙し、蒸気タービンも回転を止めている。


 いつもなら床や壁を通して伝わってくる振動は消え、代わりに、千晴が工具を置く乾いた金属音だけが虚しく響いていた。


 千晴は非常用ライトを作業台へ置き、撤退用バッグの中身を一つずつ確認する。


 携帯用浄水フィルター。


 折り畳み式のソーラーパネル。


 予備のバッテリー。


 ロープ。


 工具一式。


 無線機。


 交換用のヒューズと配線。


 潮見亭を離れたあと、一人で生き延びるために必要なものばかりだった。


 ふと、壁の源泉計へ目を向ける。


 針は、ほとんどゼロに張りついたままだ。


 医務室を出る直前。


 ほんのわずかに揺れた。


 髪の毛一本分にも満たない、小さな動きだった。


 だが、それきり変化はない。


「……測定誤差」


 千晴は、自分へ言い聞かせるように呟いた。


 配管内に残っていた蒸気。


 温度差による金属の膨張。


 地下で月樋を動かした際に生じた、一時的な圧力変化。


 理由を探せば、いくらでも説明はつく。


 源泉は戻らなかった。


 それが、今ある現実だった。


 千晴は制御盤へ手を伸ばし、停止手順を進める。


 残圧を抜く。


 電源を切り離す。


 火災や漏電、設備の暴走が起きないよう、系統ごとに遮断していく。


 三年間、壊れるたびに修理してきた機械を、今度は自分の手で眠らせていく。


「……別に」


 誰もいない機関室で、千晴は呟いた。


「機械なら、また作れる」


 その声には、自分自身を納得させるだけの力がなかった。


 父から受け継いだ技術で維持し続けた場所。


 人付き合いを避ける自分が、誰にも邪魔されずにいられた部屋。


 認めたことはない。


 それでもここは、千晴にとって確かに居場所だった。


 今、そのすべてを捨てる準備をしている。


「千晴さん」


 入り口から声がした。


 振り返ると、優斗が小さな器を載せた盆を持って立っていた。


「何?」


「西村さんが、白粥を作りました」


 器から、細い湯気が立ち上っている。


「あの子に食べさせる分とは別に、少しだけ皆の分も作ったんです」


「水と米がもったいない」


「ほんの少しです。それに、いつ出発することになっても、何か食べておかないと」


「私はいらない」


 千晴は撤退用バッグの留め具を締めた。


「でも――」


「準備は終わったの?」


「俺の分は、だいたい」


「だいたいじゃ駄目。水、食料、薬、武器。持てる重量まで確認して」


「分かっています」


 優斗は盆を持ったまま、動こうとしなかった。


「……何?」


「千晴さん、本当に一人で行くつもりなんですか」


 バッグへ伸ばしていた千晴の手が止まる。


「そのつもり」


「でも、真帆さんはあの子の状態が落ち着いたら、皆で行くって言いました」


「いつ落ち着くか分からない」


 千晴は淡々と言う。


「地下の変異体が、いつ点検口を破るかも分からない。自力で歩けない人間を担いで山道を進むなんて、合理的じゃない」


「そうかもしれません」


 優斗は千晴をまっすぐに見た。


「でも、俺は真帆さんたちに拾ってもらいました。何もできなかった俺に、飯をくれて、寝る場所をくれて、仕事まで教えてくれた」


 一度言葉を切り、千晴を見つめる。


「千晴さんも同じです」


「弟子にした覚えはない」


「工具の場所も、配管の見方も教えてくれたじゃないですか」


「聞かれたから答えただけ」


「それを教えたって言うんです」


 優斗は小さく笑い、白粥の器を差し出した。


「だから俺は、最後まで潮見亭の人間として仕事をしたいです」


「夜明けには出る」


「はい」


「その先で、どうなるかも分からない」


「はい」


「その粥を食べても、状況は何も変わらない」


「それでも、温かいです」


 千晴は、湯気を立てる器を見つめた。


 米と水だけの、飾り気のない白粥。


 それでも、炭の香りと炊きたての米の甘い匂いが、冷え切った機関室へ静かに広がっている。


 乾パンや保存食にはない。


 誰かが、誰かのために作った食事の匂いだった。


「……そこに置いて」


「食べるんですか?」


「冷めたら、もっと無駄になる」


 優斗の顔が明るくなる。


「はい!」


「喜ばないで。別行動する判断は変わらない」


「分かっています」


 優斗は作業台の端へ器を置き、深く頭を下げた。


「ありがとうございます」


「どうして私がお礼を言われるの」


 優斗は小さく笑い、機関室を出ていった。


 再び、機械の沈黙が戻る。


 千晴はしばらく白粥を見つめたあと、パイプ椅子へ腰を下ろした。


 レンゲで一口すくう。


 白い湯気へ息を吹きかけ、慎重に口へ運ぶ。


「……熱い」


 当然の感想を、小さく漏らした。


 けれど千晴は、その器を手放さなかった。


     *


 医務室には、炭火で温めた石がいくつも運び込まれていた。


 一つずつ厚い布で包み、少女の脇や足元へ置いている。


 低温火傷を起こさないよう、薫子が位置と温度を細かく確認していた。


「少しずつですが、体温は上がっています」


「呼吸は?」


「先ほどより安定しています。ただ、まだ動かせる状態ではありません」


 薫子は少女の首筋へ触れた。


「もう少し様子を見ます」


 それからしばらくして。


 少女の瞼が、かすかに動いた。


「聞こえますか?」


 薫子が優しく呼びかける。


「ゆっくり目を開けてください」


 淡い紫色の瞳が現れた。


 まだ焦点は定まっていない。


 だが、先ほどより呼吸は深くなっている。


「喉は渇いていますか?」


 少女が、ごく小さく頷いた。


 薫子は少女の上体を少しだけ起こし、スプーンで白湯を一口飲ませた。


 少女の喉が動く。


 むせる様子はない。


 もう一口。


 それも、問題なく飲み込んだ。


「大丈夫そうです」


 薫子が頷く。


「まずは、お粥の上澄みを少しだけ。急がずに」


 西村が、小さな土鍋を載せた盆を運んできた。


 蓋を開ける。


 白い湯気とともに、炊きたての米の甘い香りが医務室へ広がった。


「白粥だ」


 西村は、少し照れたように少女から目を逸らした。


「米と水だけ。味もつけてねえ」


「すごくいい匂いです」


 真帆が言う。


「当たり前だ。誰が炊いたと思ってる」


「西村さんです」


「分かってるなら、黙って受け取れ」


 西村は小さな器へ粥をよそう。


 米の粒がほどけるほど、柔らかく炊き上げられた白粥。


 真帆は器とレンゲを受け取り、ベッドの脇へ膝をついた。


 傍らに置いていた祭祀録を、静かに閉じる。


 今からすることは、奇跡を願うための儀式ではない。


 潮見亭を訪れた一人の少女を、客として迎えるためのおもてなしだ。


 たとえ、温泉が二度と戻らなくても。


 たとえ、このあと宿を捨てることになっても。


 今だけは、若女将として目の前のお客様へ向き合う。


「熱いので、少し冷ましますね」


 真帆はレンゲで粥の上澄みをすくい、ふう、ふう、と息を吹きかけた。


「私は、湊真帆と申します」


 少女の紫色の瞳が、真帆へ向く。


「この潮見亭の若女将です」


「……しお、みてい……」


「はい」


 真帆は微笑んだ。


 少女が意識を失っていた時にも、一度伝えた言葉。


 今度は、その瞳を見つめながら、もう一度告げる。


「潮見亭へ、ようこそ」


 パンデミックが始まってから三年。


 毎朝、誰も来ない玄関を掃いた。


 客室の畳を拭き。


 布団を干し。


 温泉を守り続けた。


 いつか、もう一度誰かを迎えられる日が来ると信じて。


 そして今。


 潮見亭が役目を終えようとしている夜に、ようやく一人の客が現れた。


「本当なら、温かいお風呂へご案内したかったんです」


 真帆は穏やかに語りかける。


「お部屋でゆっくり休んでいただいて、西村さんのお料理をたくさん召し上がっていただきたかった」


 少女は、黙って聞いている。


「ですが、今の私たちにご用意できるのは、この白粥だけです」


 真帆はレンゲを差し出した。


「ささやかですが、どうぞ召し上がってください」


 それから、深く頭を下げる。


「あなたは、潮見亭へ来てくださった大切なお客様です」


 少女の紫色の瞳が、わずかに揺れた。


「……おきゃく、さま……?」


「はい」


「わたし、が……?」


「もちろんです」


 真帆は顔を上げた。


「この宿へ来てくださった方は、誰であっても大切なお客様です」


 少女は真帆の顔と、湯気を立てる白粥を交互に見つめた。


 やがて、ほんのわずかに口を開く。


 真帆がレンゲを近づけた。


 一口。


 少女の喉が小さく動く。


「大丈夫ですか?」


 少女は、かすかに頷いた。


 もう一口。


 今度は、少しだけ粥の粒を含ませる。


 柔らかく煮崩れた米が、少女の口へ入っていった。


「……あまい……」


「お米の味です」


「……あたたかい……」


 その言葉が、白粥の温度を指しているのか。


 真帆の手や、毛布や、周囲の人々を指しているのか。


 誰にも分からなかった。


 少女の紫色の瞳から、大粒の涙が一つこぼれた。


「どうしました?」


「……わからない……」


 少女は、自分でも戸惑うように涙を流した。


「でも……ずっと、寒かった……」


 真帆は何も問い詰めず、少女の髪を優しく撫でた。


「もう大丈夫です」


「……ずっと、待ってた……」


「何を待っていたんですか?」


「わからない……」


 少女は目を閉じかけた。


 だが、何かを思い出そうとするように眉を寄せる。


「名前は、覚えていますか?」


「なまえ……」


 しばらく沈黙が続いた。


「……リリカ」


 少女が、かすかな声で答えた。


「リリカ……」


「わたしの、なまえ……リリカ」


 真帆は、その名前を大切なものを受け取るように繰り返した。


「リリカちゃん」


 少女は、小さく頷いた。


「教えてくれて、ありがとうございます」


 真帆は再び白粥をすくう。


「もう少し、食べられますか?」


「……うん」


 真帆は焦らず、一口ずつ食べさせた。


 リリカは時折休みながら、器の半分ほどを口にした。


 やがて瞼が重くなり、真帆の手へ頬を寄せる。


「……おいしい……」


「西村さんが作ってくれたんですよ」


 西村は壁際で腕を組んだまま、顔を背けた。


「無理に全部食うな。今は腹を休ませろ」


「……うん……」


 リリカは安心したように息を吐く。


 そのまま、穏やかな眠りへ落ちていった。


 薫子が首筋へ指を当てる。


「脈が安定してきました」


 呼吸を確認し、少女の頬へ触れる。


「体温も上がっています。まだすぐに動かすべきではありませんが、今すぐ命を失う状態からは抜けつつあります」


「よかった……」


 優斗が、その場へ座り込みそうになった。


 ゆずも毛布の中から鼻先を伸ばし、眠るリリカの匂いを確かめる。


「わふ……」


 真帆は、リリカの手を毛布の中へ戻した。


「出発できそうですか?」


「もう少し休ませてください」


 薫子は慎重に答えた。


「このまま体温と呼吸が安定し、状態が悪化しなければ移動できます。少なくとも、先ほどより危険は減りました」


「分かりました」


 源泉は戻っていない。


 潮見亭を離れるという決定も変わらない。


 それでも、最後の客を女将として迎えることはできた。


「では、出発の準備を進めましょう」


 真帆は静かに立ち上がった。


「リリカちゃんの状態が落ち着いて、薫子さんから許可が出たら出発します」


 声は震えていた。


 それでも、はっきりと言った。


「西村さんは、食料と水の確認をお願いします。薫子さんと中山さんは医薬品を。優斗くんは客室から毛布と着替えを集めて、担架の最終確認をしてください」


「分かりました」


 皆が、それぞれの役目へ動き始める。


 真帆は最後に、眠るリリカを振り返った。


「短いご滞在になってしまって、ごめんなさい」


 そのときだった。


 かちっ。


 医務室の蛍光灯が、一度だけ瞬いた。


「……え?」


 優斗が天井を見上げる。


 消えていたはずの照明。


 ポータブルバッテリーには接続していない、本線側の蛍光灯だった。


「今、光りましたよね?」


「接触不良か?」


 西村が眉を寄せる。


 次の瞬間。


 壁の奥から、かすかな音が聞こえた。


 ごぼっ。


 ごぼごぼ……。


 長く空になっていた配管の中へ、何かが流れ込む音だった。


     *


 機関室。


 千晴は、空になった白粥の器を作業台の端へ置いた。


 腕時計へ目を落とす。


 午前五時二十八分。


 窓のない機関室からは見えないが、間もなく東の空が白み始める時刻だった。


「……時間」


 千晴は立ち上がった。


 撤退用バッグを背負い、最後に計器類を見回す。


 真帆たちが、リリカの容体が落ち着くまで残ることは分かっている。


 だが千晴は、待つつもりがなかった。


 源泉が戻らなければ、夜明けに一人で出る。


 その判断は変えていない。


 バッグの肩紐へ腕を通した、そのとき。


 かたっ。


 小さな金属音がした。


 千晴の動きが止まる。


 機関室には誰もいない。


 工具も動いていない。


 千晴は音の発生源へ、ゆっくりと顔を向けた。


 源泉計。


 ほとんどゼロへ張りついていた針が、微かに震えていた。


「また……?」


 先ほどと同じ測定誤差か。


 残圧か。


 温度の変化か。


 千晴はバッグを床へ下ろし、計器へ近づいた。


 針が、もう一度動く。


 ゼロから、ほんのわずかに右へ。


「……〇・〇一」


 千晴は隣の圧力計を見る。


 そちらの針も、細かく震えている。


「二つ同時……」


 配管へ手を当てる。


 わずかだが、振動が伝わってきた。


 ごぼっ。


 地の底から、空気が押し上げられてくるような音。


 続いて、配管の奥から低い唸りが響いた。


 ごごごごご……。


「待って」


 千晴は撤退用バッグを放り出し、制御盤へ飛びついた。


 閉じかけていた弁を開き、系統を一つずつ確認する。


「第二源泉、温度上昇。主源泉も……圧力上昇」


 針が、〇・一を越える。


「何で?」


 配管が震え始めた。


 長い眠りから目を覚ます生き物のように、機関室全体が低い音を立てる。


「月樋が時間差で動いた? 地下の圧力が変わった?」


 千晴は原因を探りながら、次々と操作を進めた。


 だが、圧力の上昇速度は予測を超えていた。


「まずい。急すぎる!」


 源泉は、ただ戻ればいいというものではない。


 冷え切った配管へ一気に熱い蒸気が流れ込めば、急激な熱膨張で破損する危険がある。


 タービンへ直接送れば、回転軸や弁を壊しかねない。


 千晴は緊急用のバイパスを開いた。


「主配管へ入れないで……まず逃がす!」


 ぷしゅうううううっ!


 余剰蒸気が排気管を通り、湯小屋の煙突へ抜けていく。


 圧力計の針が〇・五へ達する。


「嘘……」


 それでも上昇は止まらない。


 床下から突き上げるような振動が起こり、壁を走る配管が、がたがたと音を立てた。


「源泉が……戻ってる」


 千晴は呆然と呟く。


 だが、すぐにゴーグルを目元へ下ろした。


「驚くのはあと」


 制御盤の電源を入れる。


 損傷の疑いがある系統を切り離し、主系統へ最低限の蒸気だけを送る。


 タービンの羽根が、ゆっくりと回転を始めた。


 ぎっ。


 ぎぎっ。


 止まっていた軸が、重い音を立てる。


「回って」


 千晴は計器を凝視する。


「壊れてないなら、回って!」


 回転数が上がる。


 発電機が、低い唸りを上げ始めた。


 制御盤の表示灯が、一つずつ点灯していく。


 そして。


 かっ!


 機関室の蛍光灯が、一斉に点いた。


 暗闇に慣れていた千晴が、眩しさに目を細める。


 直後、蒸気タービンの轟音が機関室を満たした。


 ごおおおおおおおおっ!


 三年間、毎日のように聞いてきた音。


 潮見亭の心臓が動く音。


「……戻った」


 千晴は制御盤へ両手をついた。


「本当に……戻った」


 目の前の数字は、幻ではない。


 主源泉の温度は上昇を続けている。


 蒸気圧も、発電量も回復している。


 だが、理由が分からない。


 地下で月樋を動かした結果が、時間差で現れたのか。


 地中の圧力が変化したのか。


 祠とリリカに、未知の仕組みが存在するのか。


 今の時点では、どれも証明できない。


「優斗を呼ばないと」


 千晴は機関室を飛び出した。


     *


 医務室の蛍光灯が、眩い光を放った。


「電気が……!」


 優斗が弾かれたように天井を見上げる。


「ポータブルバッテリーじゃありません。本線から来てます!」


 直後、壁の向こうから低い音が聞こえてきた。


 ごぼっ。


 ごぼごぼ……。


 長く空になっていた配管の中を、湯が押し進んでいく音。


 最初は細く、頼りなく。


 やがて音は力強さを増し、ごうっ、ごうっ、と館内の奥深くへ広がっていった。


「戻ったのか……?」


 西村が、信じられないものを見るように天井を仰ぐ。


「本当に、湯が戻ったのか?」


「真帆さん、外を!」


 薫子が窓を指差した。


 真帆は眠るリリカの頭をそっと枕へ戻し、窓際へ駆け寄る。


 夜明け前の空が、東の水平線から淡く白み始めていた。


 潮見亭の裏手。


 湯小屋の太い煙突から、真っ白な蒸気が立ち上っている。


 細く消え入りそうな煙ではない。


 途切れることなく、力強く、空へ向かって真っすぐに昇っていた。


「奇跡の湯が……」


 真帆の声が震える。


「戻ってきた……」


 理解できなかった。


 地下で何が起きたのか。


 なぜ、止まっていた源泉が、この瞬間に息を吹き返したのか。


 月樋を開いた影響なのか。


 リリカが祠へ現れたことに関係があるのか。


 それとも、まったく別の理由なのか。


 考えるより先に、医務室の扉が勢いよく開いた。


「優斗!」


 千晴が飛び込んでくる。


 短い髪は乱れ、額のゴーグルはずれかけていた。


 裂けた作業着のまま、片手には父親から受け継いだ古いモンキーレンチを握っている。


「機関室へ来て。今すぐ」


「源泉、戻ったんですよね!」


「戻った。でも、圧力の上がり方が急すぎる」


 千晴は息を切らしながらも、早口で指示を飛ばす。


「第二系統のバイパスは開けた。優斗はタービンの回転数を見て。規定値を超えたら、赤いレバーを三段階目まで下げる」


「分かりました! 赤いレバーですね!」


「隣の非常停止と間違えないで」


「どっちも赤いんですけど!」


「形が違う!」


「初めて聞きましたよ!」


「今教えた!」


 優斗が慌てて千晴のあとを追おうとする。


 だが、千晴は扉の前で足を止め、医務室を振り返った。


 明るさを取り戻した照明。


 湯気の薄れた土鍋。


 ベッドで眠るリリカ。


 その傍らに立つ真帆。


 千晴は真帆をまっすぐに見た。


「真帆」


「はい」


「源泉が戻った原因は、まだ分からない」


「……はい」


「地下で開けた月樋が、時間差で動いた可能性はある。地中の圧力が変化したのかもしれない」


「そうですね」


「真帆の夢も、リリカが祠へ来たことも、原因だったと断定する材料にはならない」


「分かっています」


 千晴は一度、眠るリリカへ視線を向ける。


「……腹が立つ」


「どうしてですか?」


「説明できないから」


 西村が喉を鳴らして笑った。


「世の中には、説明できねえこともあるってことだ」


「今は、ね」


 千晴は不服そうに答える。


「あとで全部調べる。月樋も、源泉も、祠も、この子のことも」


「ほどほどにしてくださいよ」


「無理」


 即答すると、千晴は踵を返した。


「撤退は中止。ただし、地下の点検口は封鎖したまま。変異体がいる以上、安全を確認するまで絶対に開けないで」


「はい」


「それと、真帆」


 千晴は振り返らないまま言った。


「白粥、まだ残ってる?」


 西村がにやりと笑う。


「機関室の天才様は、さっき一杯食っただろうが」


「これから徹夜で調整する。もう一杯必要」


「素直にうまかったと言え」


「水分量と温度が適切だった」


「料理の感想になってねえよ」


 千晴は答えず、優斗を連れて機関室へ走っていった。


 真帆は再び、窓の外へ目を向ける。


 水平線の向こうから、朝日が昇り始めていた。


 黄金色の光が相模湾の海面を照らし、潮見亭の屋根と庭へ降り注ぐ。


 湯小屋から立ち上る白い蒸気が、その光を受けて淡く輝いていた。


 長い夜が、ようやく明ける。


 真帆はベッドへ戻り、眠るリリカの小さな手をそっと包み込んだ。


「おはようございます、リリカちゃん」


 少女は眠ったまま、ほんの少しだけ微笑んだように見えた。


 潮見亭は失われなかった。


 奇跡の湯も戻ってきた。


 けれど、何もかもが解決したわけではない。


 地下で目覚めた変異体は、今も鉄の扉の向こうにいる。


 リリカは何者なのか。


 なぜ祠が彼女の存在へ反応したように見えたのか。


 源泉の復活と、彼女を客として迎えたことに、本当に関係があるのか。


 そして、干上がった地底湖のさらに奥には、何が眠っているのか。


 分からないことばかりだった。


 それでも。


 潮見亭は、今日も開いている。


 人の世が崩れたあとも、訪れる者を客として迎える宿として。


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