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第七話 地底の死闘と、謎の少女の導き

「ガアアアアアアッ!」


 血を吐き出すような咆哮が、巨大な地底ドームを揺さぶった。


 干上がった地底湖の中央。


 かつては湯に囲まれ、孤島のように浮かんでいたであろう円形の石舞台が、今や逃げ場のない死闘の場と化している。


「シッ!」


 真帆の鋭い呼気とともに、六尺の神木棍が暗闇を薙いだ。


 狙いは、正面から突進してくる変異体の側頭部。


 踏み込みと腰の回転を乗せた横打ちが、黄ばんだ巨体のこめかみへ直撃する。


 ゴォンッ!


 肉や骨を打ったとは思えない、硬い鐘のような音が響いた。


「くっ……!」


 真帆の両手に強烈な痺れが走る。


 神木棍が跳ね返され、握った指が開きそうになった。


 通常のゾンビなら、頭蓋を砕き、一撃で動きを止められる打撃。


 だが、目の前の変異体は、首をわずかに傾けただけだった。


「止まらない……!」


 赤黒い瞳が真帆を捉える。


 丸太のような腕が、唸りを上げて横薙ぎに振るわれた。


 ぶんっ。


 真帆は上体を反らし、紙一重でかわす。


 腐った爪が鼻先を掠め、前髪が風圧で激しく揺れた。


「硬すぎます! 頭を打っても効きません!」


「同じ場所を続けて狙って!」


 背後から千晴の声が飛ぶ。


 だが、千晴の前にも別の変異体が迫っていた。


 千晴は大型のバールを、両手で強く握っている。


 腰は引け、構えもぎこちない。


 戦い方など、誰にも教わったことはない。


 それでも、視線だけは変異体の手足から外していなかった。


「来る……!」


 変異体が両腕を振り上げる。


 千晴は正面から受け止めず、直前で身を低くした。


 巨体の外側へ、肩から転がる。


 次の瞬間。


 太い両腕が、先ほどまで千晴のいた石床へ叩きつけられた。


 石舞台が震え、砕けた破片が飛び散る。


「っ……!」


 受け身を取り損ねた千晴が、肩を床へ強く打ちつけた。


 痛みに顔を歪めながら、それでもすぐに片膝を立てる。


 変異体が振り返るより早く、バールの先端を足首の後ろへ引っ掛けた。


「真帆、膝!」


 両手で柄を引く。


 千晴の力だけで、巨体を倒すことなどできない。


 それでも、踏み出しかけた片脚を一瞬止め、重心を後ろへずらすことはできた。


「はい!」


 真帆が踏み込む。


 千晴が引いた脚、その膝裏へ、先ほどと同じ角度から神木棍を叩き込んだ。


 一度。


 跳ね返った棍を引き戻し、もう一度。


 ばきりっ!


 今度は、明確に骨の砕ける音がした。


「ガアッ!?」


 変異体の片膝が石舞台へ落ちる。


「効いた!」


「倒したわけじゃない!」


 千晴の言葉どおり、変異体は両腕を床へつき、折れた脚を引きずりながら起き上がろうとしていた。


 その横から、別の一体が真帆へ飛びかかる。


「真帆、右!」


 真帆は反射的に神木棍を立てた。


 変異体の剛腕へ棍を斜めに当て、軌道を外側へ滑らせる。


 まともに受けてはいない。


 それでも、衝撃だけで両肩が悲鳴を上げた。


「重い……!」


 真帆は押し流された勢いへ逆らわず、半回転する。


 そのまま棍の石突を、変異体のみぞおちへ突き上げた。


「潮見流古武術――水月突き!」


 どんっ!


 表面を砕くのではなく、体の内側へ衝撃を通す突き。


「ガァ……ッ」


 変異体の体が、ほんの一瞬だけ硬直した。


 だが、その背後から三体目が迫っている。


「真帆、後ろ!」


「しまっ――」


 振り返った真帆の視界を、黄土色の巨体が覆った。


 腕を振り上げる。


 距離が近すぎる。


 神木棍を引き戻す時間がない。


 その瞬間。


「こっち!」


 千晴が工具袋からハンマーを抜き、真帆へ伸びた変異体の手の甲へ叩きつけた。


 ごきっ。


 腐った指が、数本まとめて不自然に折れる。


 変異体の顔が、千晴へ向いた。


「千晴さん!」


 怒りを向けられた変異体が、腕を振り下ろす。


 千晴は反射的にバールを上げかけた。


 だが、その細い鉄棒で受け止められる力ではないと、直前で悟る。


 自ら後ろへ倒れ込んだ。


 爪が作業着の胸元を引き裂く。


「うっ……!」


 千晴は背中から石床へ落ちた。


 肺から空気が押し出され、息が詰まる。


「千晴さん、噛まれてませんか!?」


「布だけ!」


 痛みに顔を歪めながら、千晴は横へ転がった。


 立ち上がる余裕はない。


 片膝をついたまま、落としていたバールを拾い、変異体の両脚の間へ差し込む。


「真帆、横から押して!」


 真帆は即座に意図を理解した。


 神木棍を変異体の胸へ当て、全身で横方向へ押し込む。


 同時に、千晴がバールを梃子にして足首を外側へ捻った。


 巨体が大きく傾く。


 片脚が、石舞台に刻まれた月樋の溝へ落ちた。


「今!」


 真帆は神木棍を振り上げる。


 狙うのは、すでに二度打ち込んだ膝裏。


「はあっ!」


 ばきんっ!


 関節が耐えきれず、不自然な方向へ折れ曲がった。


 変異体の巨体が横倒しになる。


「二体目!」


「まだ動く! 近づかないで!」


 倒れた変異体は、折れた脚を引きずりながらも、両腕だけで真帆たちへ這い寄ろうとしていた。


 その向こう。


 横穴から、さらに変異体が姿を現している。


 五体。


 七体。


 赤黒い瞳が、暗闇の中へ次々と浮かび上がった。


「数が多すぎます……!」


 真帆は荒い呼吸を繰り返した。


 両腕は痺れ、握力も落ち始めている。


 千晴も、バールを杖代わりにしてどうにか立ち上がった。


 手のひらは擦りむけ、作業着の胸元は大きく裂けている。


「全部は止められない」


「何か仕掛けはありませんか?」


「探してる!」


 千晴は戦いの合間にも、石舞台の構造へ目を走らせていた。


 東西南北へ伸びる月樋。


 北側の泥に埋もれた金属環。


 祠の周囲に刻まれた、波と月の紋様。


「残りの月樋を動かせれば、何か起きるかもしれない」


「開けられますか?」


「固着してる。時間が必要!」


「私が稼ぎます!」


「一人じゃ無理!」


「千晴さんだって戦ってるでしょう!」


「私は工具を振り回してるだけ!」


「十分です!」


 真帆が叫んだ、そのとき。


「ワンッ!」


 鋭い鳴き声が石舞台へ響いた。


 ゆずが見ているのは、真帆でも千晴でもない。


 千晴の背後。


 死角から、別の変異体が音もなく腕を伸ばしていた。


「千晴さん、後ろ!」


 千晴が振り向くより早く、ゆずが石床を蹴った。


 変異体へ噛みつくのではない。


 白茶色の小さな体が、その足元すれすれを矢のように駆け抜ける。


「ワン! ワンッ!」


 足元を回り込みながら激しく吠え、変異体の注意を自分へ引きつける。


 赤黒い瞳がゆずを追い、千晴へ伸ばされていた腕の軌道が逸れた。


「ゆず、戻って!」


 千晴が叫ぶ。


 変異体は小さな獲物を踏み潰そうと、片脚を大きく持ち上げた。


 ゆずはぎりぎりまで動かなかった。


 足が振り下ろされる瞬間、身を翻して横へ飛ぶ。


 巨体の足は空を切り、そのまま石舞台に刻まれた月樋の溝へ深く落ち込んだ。


「今です!」


 真帆が地面を蹴る。


 溝へ落ちた脚の膝裏へ、神木棍を横薙ぎに叩き込んだ。


 同時に、千晴がバールの先端を足首へ掛ける。


「外へ捻る!」


「はい!」


 二人が反対方向へ力を加える。


 ばきりっ!


 変異体の膝が、不自然な方向へ折れ曲がった。


「ガアアッ!」


 巨体が大きく傾き、両手を石床へつく。


「やった……!」


 千晴が息を吐いた、その直後。


 別の変異体が、真帆たちへ向かって腕を振り回した。


 狙いを外れた拳が、舞台の縁に立つ石柱へ激突する。


 ごしゃっ!


 ひび割れていた石柱の表面が砕け、大小の破片が周囲へ飛び散った。


「危ない!」


 真帆が腕で顔を庇う。


「ゆず!」


「キャンッ!」


 逃げようとしたゆずの後ろ脚へ、拳ほどの石片が直撃した。


 小さな体が横倒しになり、勢いのまま石舞台を転がっていく。


「ゆず!」


 真帆が反射的に駆け寄ろうとする。


 だが、ゆずは傷ついた脚を引きずりながらも、必死に体を起こそうとしていた。


「くぅん……」


 後ろ脚へ力が入らず、立ち上がることができない。


 それでも逃げようとはしなかった。


 地面へ伏せたまま牙を剥き、真帆たちへ近づこうとする変異体へ低く唸り続けている。


「ゆず、そこで待ってて!」


 真帆は駆け寄りたい衝動を押し殺し、神木棍を構え直した。


 今ここで背を向ければ、ゆずだけでなく千晴まで危険にさらされる。


「絶対に助けるから!」


 ゆずの耳が、真帆の声へ応えるようにわずかに動いた。


 しかし、変異体たちは待ってくれない。


 石柱を砕いた個体が、両腕を広げながら真帆へ迫ってくる。


(下がれない……!)


 背後には傷ついたゆずがいる。


 真帆は神木棍を短く持ち替えた。


 後退するのではなく、あえて前へ出る。


 変異体の腕が閉じるより早く懐へ潜り込み、肋骨の下へ棍を突き上げた。


「はあっ!」


 巨体の上体が、わずかにのけぞる。


 真帆はそのまま脇を抜けようとした。


 だが、背後では先ほど千晴と揉み合っていた一体が、折れた指を垂らしたまま起き上がっていた。


「真帆!」


 千晴が叫ぶ。


 間に合わない。


 真帆が振り返ったとき、赤黒い瞳が目の前で凶悪に光った。


 腐臭と濃い硫黄の臭いが混じった息が、顔へ吹きつけた。


     *


 その十数分ほど前。


 崖の上にある潮見亭本館。


 大広間を改装した医務室は、重苦しい静けさに包まれていた。


 ポータブルバッテリーで動く小型ファンが、頼りない音を立てて回っている。


 簡易ベッドには、裏門の前で倒れていた少女が横たわっていた。


「体温は、少し上がりました」


 薫子が聴診器を外す。


「ですが、まだ危険な状態です」


「心拍も弱い」


 中山が血圧計の数値を記録した。


「この低体温と栄養状態で、深刻な意識障害が起きていないこと自体が――」


「分析はあとです」


 薫子が少女の額へ手を当てる。


「まずは、この子の命をつなぐことを考えてください」


 部屋の隅では、西村が腕を組んで立っていた。


 優斗は落ち着かない様子で、何度も壁の時計へ目を向けている。


 真帆と千晴が地下へ降りてから、すでに三十分以上が経過していた。


 二人の無線は、岩盤の奥へ入って間もなく途絶えている。


 機関室の源泉計も、ほとんどゼロを指したままだ。


「真帆さんたち……大丈夫でしょうか」


 優斗が小さく呟く。


「大丈夫だ」


 西村が答えた。


 けれど、その言葉は自分自身へ言い聞かせているようにも聞こえた。


「あの二人なら、簡単にはくたばらん」


「でも、無線も繋がらないんですよ」


「地下だ。厚い岩盤の下なら、電波も通らん」


「俺も一緒に行くべきだったんじゃ……」


「お前には、機関室の計器を確認する役目がある」


 西村が優斗の肩へ手を置く。


「待つのも仕事だ」


「……はい」


 優斗が唇を噛んだ、そのときだった。


「……ま、ほ……」


 掠れた声が聞こえた。


 全員がベッドへ顔を向ける。


 少女の白い唇が、かすかに動いている。


「気がついたの?」


 薫子がすぐに歩み寄った。


 少女の瞼が震え、ゆっくりと開かれる。


 淡い紫色の髪に縁取られた、同じ色の瞳。


 その瞳は医務室の天井をぼんやり見つめたあと、何かを探すように揺れた。


「大丈夫ですよ」


 薫子が少女の冷たい手を握る。


「ここは潮見亭です。今は安全ですからね」


 少女は薫子を見なかった。


 床の向こう。


 建物の基礎も岩盤も越えた、はるか地底の一点を見つめている。


「……まほ……」


「真帆さんを知っているの?」


「……月の道が……開いた……」


「月の道?」


「黒いものが……出てくる……」


 少女の呼吸が、急に荒くなる。


「真帆が……食べられる……」


「えっ?」


 優斗が顔を上げた。


 少女は突然、ベッドの上で体を起こした。


「駄目よ、まだ動いては!」


 薫子が肩を支えようとする。


 だが少女は、弱り切った体からは想像できないほど強い意志で、その手を押し返した。


「……行かないと」


「どこへ?」


「月の祠……」


 少女がベッドから降りようとする。


 裸足が床へ触れた瞬間、膝から力が抜けた。


「危ない!」


 優斗が飛び出し、倒れかけた体を受け止める。


「歩けないじゃないか!」


「……行かないと……真帆が……」


 紫色の瞳が、優斗を見上げた。


 焦点はまだ定まっていない。


 それでも、そこには明確な意志があった。


「この子は、地下で何か起きていることを感じ取っているのかもしれない」


 中山が呟く。


「真帆くんたちに危険が迫っていることも――」


「仮説を話している場合ではありません」


 薫子が厳しく遮った。


「この状態で歩かせることはできません」


「俺が連れていきます」


 優斗が言った。


「何だと?」


 西村が目を見開く。


「この子を背負います。真帆さんたちが危ないなら、ここで待っていられません」


「だが、お前まで地下へ入れば――」


「点検口までの道は分かります」


 優斗は少女の前へ背を向け、しゃがみ込む。


「必ず、真帆さんのところまで連れていく」


 少女が震える腕を、優斗の肩へ回した。


「……お願い」


 その小さな声を聞き、優斗は強く頷く。


「任せて」


 西村は止めようとして、言葉を失った。


 今の優斗の目は、本気だった。


「……無茶はするな」


「はい」


「危険だと思ったら、すぐに戻れ」


「はい!」


 優斗は少女を背負い、医務室を飛び出した。


     *


 変異体の腕が、真帆の背中へ迫る。


 避けられない。


 そう思った瞬間。


「真帆さん!」


 地底ドームの上方から、優斗の声が響いた。


 変異体の動きが、ほんの一瞬だけ止まった。


 真帆はその隙を逃さない。


 神木棍を両手で押し出し、正面の変異体をわずかに後退させる。


 自らも横へ転がり、背後からの腕をかわした。


 拳が石床へ落ち、砕けた岩片が頬へ飛ぶ。


「優斗くん!?」


 湖底へ続く斜面の上。


 そこに優斗が立っていた。


 その背中には、医務室で眠っていたはずの少女がいる。


「どうして、その子まで!」


「この子が、ここへ来ないと真帆さんが危ないって!」


「引き返して!」


 千晴が叫ぶ。


「ここは危険! その子を連れてくる場所じゃない!」


 だが少女は、優斗の背中から降りようともがいた。


「待って。まだ歩けないだろ!」


「……下ろして」


「でも――」


「月の道を……閉じる……」


 優斗は迷いながらも、その場へ膝をついた。


 少女は背中から降りると、裸足のまま干上がった湖底へ足を踏み入れた。


 一歩。


 また一歩。


 泥へ足を取られ、何度も倒れそうになる。


 それでも、祠へ向かって歩き続けた。


 少女が地底ドームへ入った瞬間。


 真帆は、空気が変わったように感じた。


 硫黄と腐臭に満ちた重い空気の中を、冷たい風が一筋だけ通り抜けたような感覚。


 続いて、祠の内部から音が鳴る。


 かちり。


 かちり。


 長く動いていなかった歯車が、一つずつ噛み合っていくような音だった。


「千晴さん!」


「分かってる!」


 千晴は祠の側面へ耳を当てた。


「内部で何か動いてる!」


「この子が来たから?」


「断定できない。でも、今反応した!」


 少女は石舞台の手前で立ち止まった。


 変異体たちが、一斉に彼女へ顔を向ける。


「危ない!」


 真帆が駆け出そうとする。


 だが、変異体は少女へ襲いかからなかった。


 赤黒い瞳が揺れる。


 鼻を鳴らし、首を傾け、何かを探すように周囲を見回した。


 まるで、目の前にいる少女の位置を捉えられていないかのようだった。


 それだけではない。


 真帆や千晴へ向けられていた動きまで、明らかに鈍くなっている。


「何が起きてるの……?」


「分からない」


 千晴が息を切らしながら答えた。


「匂いが乱されてるのか、感覚がおかしくなってるのか、祠の機構が何か出してるのか……」


 少女は祠へ向かって、細い両手を伸ばした。


「……帰って」


 か細い声が、広い地底ドームへ不思議なほど鮮明に響く。


「ここは……あなたたちの場所じゃない」


 石舞台へ刻まれた波と月の紋様が、淡い青白さを帯びた。


 一本。


 二本。


 光は細い水路をなぞるように床を走り、祠の周囲から干上がった湖底へ広がっていく。


「月樋が……」


 真帆が息を呑む。


 変異体たちは、苦しげに頭を振った。


「グ、ガァ……!」


 互いにぶつかり、何もない方向へ腕を振るう。


「効いてるんでしょうか」


「床が振動してる!」


 千晴はしゃがみ込み、石舞台へ掌を当てた。


「低い振動が出てる。人間には聞こえない周波数かもしれない!」


 少女の影響なのか。


 祠の仕組みなのか。


 それとも、まったく別の現象なのか。


 今は判断できない。


 ただ一つ確かなのは、変異体たちが混乱し、動きを止めていることだった。


「今のうちに道を開けます!」


 真帆が神木棍を構え直す。


「倒す必要はありません。脚を止めて、斜面への道を確保します!」


 千晴も、落ちていたパイプレンチを拾った。


「分かった!」


 真帆が一番近くにいた変異体の胸へ棍を当て、横へ押す。


 千晴は低く身を沈め、反対側の足首へレンチの顎を掛けた。


「引く!」


「はい!」


 千晴が全体重を後ろへ預ける。


 体勢を崩した巨体へ、真帆が棍を使ってさらに力を加えた。


 変異体が石舞台の縁から泥の中へ転がり落ちる。


「次!」


 二体目。


 真帆が正面から注意を引きつける。


 千晴は背後へ回り、バールを踵の下へ差し込んだ。


「押して!」


「はあっ!」


 二人の力で脚をすくい、月樋の溝へ片脚を落とす。


 真帆が膝裏へ一撃を入れ、起き上がれないようにする。


 戦い慣れた動きではない。


 千晴は何度も足を滑らせた。


 泥へ膝をつき、工具を取り落とし、荒い息を吐く。


 それでも立ち上がり、真帆の死角へ入ろうとする変異体の足を止めた。


 倒すのではない。


 関節を壊す。


 溝へ落とす。


 石舞台の外へ押し出す。


 混乱が続いている今だけが、逃げ道を作る機会だった。


 やがて、来た道へ続く斜面が開く。


「真帆さん! 早く!」


 優斗が叫んだ。


「待って!」


 千晴は逃げ道ではなく、祠の北側へ走った。


 泥に埋もれた金属環へ、バールの先端を差し込む。


「千晴さん、何をしてるんですか!」


「月樋が動いてる。今なら、固着した弁も開くかもしれない!」


「時間がありません!」


「ここまで来て、何もせず戻ったら源泉は止まる!」


 千晴はバールへ全体重を掛けた。


 腕が震える。


 金属環は、わずかに軋んだだけだった。


「真帆、手伝って!」


「……はい!」


 真帆は神木棍を置き、千晴と並んでバールの柄を押す。


「せーの!」


 二人の力が重なる。


 ぎぎぎぎ……。


 錆びついた金属が、長い眠りから目覚めるように軋んだ。


 ごごごごご……。


 石舞台の下で、巨大な何かが動き始める。


 固着していた弁が、ほんの少しずつ開いていく。


 その瞬間。


 祠の後方にある岩壁から、白い蒸気が噴き出した。


「伏せて!」


 千晴が叫ぶ。


 熱い蒸気が、石舞台の上を横薙ぎに走った。


「ギィィィィッ!」


 変異体たちが一斉に身を反らし、甲高い声を上げる。


 黄土色の皮膚の亀裂から、黒い体液が滲み出た。


「これで止められます!」


「長くはもたない!」


 千晴は振動する弁へ手を触れた。


「圧力が弱すぎる。すぐに落ちる!」


「全員、戻ります!」


 真帆は少女へ駆け寄った。


 少女は祠の前に立ち、岩の裂け目から滴る源泉を見つめていた。


「……お湯が……冷たい……」


 悲しそうに呟く。


 その直後、少女の膝から力が抜けた。


「危ない!」


 真帆が体を抱き止める。


 少女の肌は、再び氷のように冷たくなっていた。


「優斗くん、ゆずをお願いします!」


「はい!」


 優斗が、足を負傷したゆずを慎重に抱き上げる。


 千晴が最後尾に立ち、弱まり始めた蒸気の向こうを確認した。


 変異体たちの影が、再び動き始めている。


「走って!」


 四人と一匹は、干上がった湖底を駆け出した。


     *


 地上へ戻る道のりは、奈落の底から這い上がるような逃走だった。


 背後から、変異体たちの咆哮が追ってくる。


 足元の石畳が震え、洞窟の壁から細かな砂や石が降り注いだ。


 優斗が先に梯子を上り、抱えていたゆずを待ち受けていた西村へ預ける。


「ゆず!」


「脚を怪我してます! 薫子さんのところへ!」


「分かった!」


 続いて、意識を失った少女を背負った真帆が梯子を上る。


 最後に千晴が、工具袋を引きずるようにして点検口から這い出した。


「閉める!」


 千晴と優斗が鉄蓋へ手を掛ける。


 二人で力を合わせ、分厚い蓋を元の位置へ戻した。


「ボルト!」


「はい!」


 優斗が留め具へ工具を掛ける。


 千晴も反対側のボルトを締めた。


 直後。


 どんっ!


 鉄蓋の下から、重い衝撃が突き上げる。


 蓋が大きく震え、埃が舞った。


「上ってきてる……!」


「分かってる!」


 もう一度。


 どんっ!


 ボルトが軋む。


 千晴は工具袋から太い鋼線を引き出し、点検口の取っ手と近くの配管を何重にも結びつけた。


 さらに、大型のバールを取っ手の間へ差し込み、回転しないよう固定する。


「これで大丈夫ですか?」


 優斗が息を切らしながら尋ねる。


「分からない」


 千晴は迷わず答えた。


「どれくらい力があるかも、この蓋がいつまでもつかも分からない」


 どんっ!


 鉄蓋が、わずかに浮いた。


「今できるのは、これだけ」


 千晴は立ち上がり、旧館の出口を指差す。


「ここから離れる!」


 真帆たちは少女とゆずを連れ、暗い廊下を本館へ向かって走った。


 本館へ入った瞬間。


 異様な静けさが、一行を包み込んだ。


 いつもなら壁や床を通して聞こえる、ボイラーの駆動音。


 配管を流れる湯の音。


 発電機の低い唸り。


 そのすべてが、消えている。


 照明は弱々しく明滅し、やがて一つずつ暗くなっていった。


 まるで潮見亭そのものが。


 長く動かし続けてきた心臓を、ついに止めてしまったかのようだった。


     *

「薫子さん! 戻りました!」


 真帆たちは医務室へ飛び込んだ。


 薫子と中山がすぐに駆け寄り、真帆の背中から少女を受け取る。簡易ベッドへ寝かせると、濡れた着物を緩め、呼吸と脈を確かめた。


「また体温が下がっています」


 薫子は少女の体をエマージェンシーブランケットで包み、その上から何枚もの毛布を重ねる。


「呼吸も弱い。どうして、この状態で連れ出したんですか!」


「すみません!」


 優斗が深く頭を下げた。


「でも、この子が来てくれなかったら、俺たちは戻れませんでした」


 真帆は息を整えながら、地下で起きたことを説明した。


「地下には、地上のゾンビとは明らかに状態の違う個体がいました。体格も、皮膚も、動きもまるで違っていて……」


「変異した個体……」


 中山の表情が強張った。


「この子が祠へ近づいた直後、石舞台の紋様が光って、月樋の内部で何かが動き始めたんです」


 真帆は眠る少女を見つめる。


「その隙に千晴さんと弁を開けました。噴き出した蒸気で変異体の動きが鈍って、どうにか逃げることができたんです」


 中山はベッドに横たわる少女へ目を向けた。


「この子が、地下設備を動かす鍵なのかもしれない」


「まだ何とも言えない」


 千晴が即座に口を挟んだ。


 紺色の作業着は胸元が裂け、手のひらには無数の擦り傷ができている。


「少女自身が何かをしたのか、祠の機構が偶然反応したのか、別の条件が揃ったのか。判断するには材料が少なすぎる」


「それで、源泉は?」


 西村が恐る恐る尋ねた。


 千晴は、すぐには答えなかった。


 その沈黙だけで、全員に結果が伝わる。


「……戻ってないんですか」


 優斗の肩が落ちた。


「月樋の弁を一つ、途中まで開いた。蒸気も出た」


 千晴は額のゴーグルを押し上げる。


「でも、地上まで湯を送れる圧力じゃない。機関室の源泉計も、ほとんどゼロのまま」


 奇跡の湯は戻らなかった。


 発電機も、給水ポンプも、防衛設備も、まともには動かせない。


 潮見亭に残された猶予は、確実に失われつつあった。


 真帆はベッドへ目を向ける。


 少女の顔は青白く、血の気を失った唇がかすかに震えていた。


「……お湯が、冷たい……」


 うわ言のような声が漏れる。


 真帆は少女の手を両手で包み込んだ。


 氷のように冷たい。


 地底湖に残されていた、力を失った湯と同じ冷たさだった。


「儀式をすれば、お湯が戻るんじゃなかったのか?」


 西村が、途方に暮れたように尋ねる。


「初湯を供えて、神楽を舞う。それが手順だったんだろう?」


「……最後まではできませんでした」


 真帆は俯いた。


「変異体に襲われて、神楽を続けることができなかったんです。それに、たとえ最後まで舞えていたとしても、本当に源泉が戻ったかどうかは分かりません」


 祭祀録に記された手順。


 地下に残された古い設備。


 謎の少女と、祠の反応。


 何もかもが、謎のままだった。


 だが、今ここにある現実だけは変わらない。


 温泉は止まった。


 潮見亭は、もう安全な場所ではない。


「……撤退しましょう」


 真帆が静かに言った。


「真帆さん……」


 優斗が顔を上げる。


「千晴さんの言う通りです。電気も水も防衛設備もない状態では、ここに残り続けることはできません」


 その言葉を口にした瞬間、真帆の胸が強く締めつけられた。


 三年前、両親が命を懸けて守った場所。


 祖父から受け継いだ宿。


 いつか再び、生きた客を迎える日のために守り続けてきた潮見亭。


 そのすべてを、置いていかなければならない。


 それでも、若女将として皆の命を守るためには、決断しなければならなかった。


「ただし、今すぐではありません」


 真帆はベッドの少女を見つめた。


「この子が移動に耐えられる状態になるまで、待ちます」


「真帆」


 千晴の眉が寄る。


「地下の個体が、いつ点検口を破るか分からない」


「分かっています」


 真帆は薫子へ目を向けた。


「でも、この状態で山道へ連れ出せば、この子の命が危険です」


「その通りです」


 薫子が少女の脈を測りながら答える。


「今の体温と呼吸では、動かす方が危険です。少なくとも呼吸が安定し、自力で少しでも水分や食事を取れるようになるまでは、ここで治療を続けます」


「どれくらいかかりますか?」


 優斗が尋ねた。


「分かりません」


 薫子は正直に答えた。


「数時間で落ち着くかもしれません。もっとかかる可能性もあります。まずは、この子の体が温まってくれるのを待つしかありません」


 出発の時刻を決めることはできない。


 それでも、待っている間にできることはある。


「この子の状態が落ち着き、薫子さんが移動できると判断したら出発します」


 真帆は皆を見回した。


「それまでに、持ち出せる食料、水、医薬品をまとめてください。中山さんは研究資料を。千晴さんは必要な工具と機材をお願いします」


「分かった」


 千晴が短く頷いた。


「この子も、必ず連れていきます」


 真帆が続けると、千晴の表情が変わった。


「……正気?」


「千晴さん」


「状態が落ち着いたとしても、自力で歩ける保証はない」


 千晴はベッドの少女へ視線を向ける。


「歩けない人間を抱えて、山道を越えるつもり? 私たちだけでも、生きて抜けられる保証はない。水も食料も限られてる。追われたら、その子を抱えたまま逃げることはできない」


「それでも、置いてはいけません」


「感情で決めないで」


「感情だけではありません。この子は、私たちを助けてくれました」


 千晴は眉を寄せる。


「恩返しのために、全員の生存率を下げるの?」


「違います」


 真帆は少女の冷たい手を握った。


「潮見亭の門をくぐった人を、ここへ置き去りにすることはできません」


「真帆、それは――」


「この子は、潮見亭まで来てくれた大切なお客様です」


 真帆は迷わず言い切った。


 正体の分からない少女。


 地下設備との関係も、なぜ真帆の名前を知っていたのかも分からない。


 それでも、潮見亭の門前で倒れていた少女を見捨てていくことなどできなかった。


「俺が運びます」


 優斗が口を挟んだ。


「優斗くん?」


「軽い配管と客室のシーツを使えば、担架を作れると思います」


 優斗は千晴を見る。


「二人で持てる形にすれば、真帆さん一人に背負わせなくて済みます。山道では交代しながら運べます」


「簡単に言わないで」


 千晴の声は厳しい。


「足場の悪い場所で担架を運べば、両手が塞がる。ゾンビが来たら、担架を守りながら戦うのは無理」


「それでも、捨てません」


「優斗」


「絶対に捨てません」


 優斗は震えながらも、千晴の目をまっすぐに見返した。


「俺も運びます。西村さんにも手伝ってもらって、交代しながら行きます」


「勝手に決めるな」


 西村が言いながらも、少女へ視線を向けた。


「だがまあ、置いていくよりはましだ。担架くらいなら、俺も担ぐ」


 千晴は何も答えなかった。


 反論したい言葉は、いくつもあるはずだった。


 やがて、小さく息を吐く。


「……作るなら、壊れないものにして」


「千晴さん」


「賛成したわけじゃない」


 千晴は顔を逸らした。


「途中で壊れたら、全員が危険になる。それが嫌なだけ」


 真帆は小さく頷く。


「ありがとうございます」


「まだ連れていくことに賛成したわけじゃない」


 パンデミックが始まってから三年。


 真帆は毎日、玄関を掃き。


 客室を整え。


 湯を守り続けてきた。


 いつか誰かが、この宿を訪れてくれると信じて。


 そして今。


 ようやく現れた最初の客を迎える前に、潮見亭はその役目を終えようとしている。


「この子の状態が落ち着くまで、どれくらい時間があるかは分かりません」


 真帆が言った。


「だから、待つだけにはしたくありません」


「何をするつもり?」


 千晴が尋ねる。


「治療を続けながら、この子をお客様として迎えます」


「今から?」


「はい」


「水も電気もほとんど残ってない」


「分かっています」


 真帆は少女の手を包んだまま、顔を上げた。


「温泉には入れてあげられません。豪華な料理も出せません。柔らかい布団で、何日も休んでもらうこともできません」


 それでも、できることはある。


 濡れた体を拭くこと。


 傷を手当てすること。


 清潔な着物へ着替えさせること。


 残った燃料で、体を温めるものを用意すること。


 そして、食事を取れるまで回復したなら、温かなものを出してあげること。


「この子が何者なのかは分かりません。源泉を戻せるのかどうかも、私には分かりません」


 真帆は、はっきりと言った。


「源泉を戻してもらうために、もてなすんじゃありません」


 静かな声が、医務室へ響く。


「この子が、潮見亭へ来てくれたからです」


 薫子が、わずかに目を細めた。


 西村も腕を組んだまま、黙って真帆を見つめている。


「この子の状態が落ち着いて、潮見亭を離れるまでの間だけでも、女将としてきちんとお迎えしたいんです」


「真帆さん……」


「この子が移動できるようになったら、撤退します」


 真帆の目に迷いはなかった。


「お父さんとお母さんから受け継いだ潮見亭で、最後のお客様をきちんとお迎えする。それから皆で、ここを出ましょう」


 重い沈黙が落ちた。


 やがて、西村が大きく息を吐く。


「分かった」


「西村さん」


「今すぐ食わせるのは無理でも、目を覚ました時に何もないんじゃ料理人の名折れだ」


 西村は腕まくりをする。


「残った水と燃料で、体に負担の少ないものを用意しておく。薫子さんが食わせてもいいと言ったら、すぐに出せるようにな」


「私も手伝います!」


 優斗が立ち上がった。


「客室を一つ整えます。布団と着替えも用意します。それから、担架も作っておきます」


「私は治療を続けます」


 薫子が少女の脈を確認する。


「まずは体温と呼吸を安定させます。食事を取らせるのは、それからです」


 中山もノートを閉じた。


「研究資料をまとめるのは、そのあとでも間に合う。私は薬品と医療機器の選別を手伝おう」


 真帆は最後に千晴を見る。


 千晴は壁の時計へ目を向けた。


「夜明けまで、あと三時間」


「はい」


「私は機関室へ戻る」


「撤退の準備ですか?」


「停止処理と、持ち出す機材の選別」


 千晴は少女へ視線を移した。


「ついでに、電気を使わずにその子を温める方法を考える」


「手伝ってくれるんですか?」


「賛成したわけじゃない」


 千晴は即座に否定した。


「その子が落ち着くまでここへ残ることも、全員で固まって山を越えることも、合理的とは思ってない」


「千晴さんは……やっぱり一人で行くんですか?」


「夜明けまでに源泉が戻らなければ、そのつもり」


 医務室の空気が重くなる。


「私たちを待たずに?」


「その子の状態がいつ落ち着くか分からない。全員が待つ必要はない」


 千晴は周囲の視線を気にすることなく、淡々と続ける。


「でも、出ていくまでは潮見亭の設備担当。放り出して終わる気はない」


「千晴さん……」


「最後の客を迎えるんでしょ」


 千晴は工具袋を持ち直した。


「なら、せめて凍えないようにする。それが今の私にできる仕事」


「ありがとうございます」


「お礼はいらない」


 千晴は顔を逸らす。


「仕事を途中で投げるのが嫌なだけ」


 西村が小さく笑った。


「相変わらず、面倒くせえ言い方するな」


「聞こえてる」


「聞こえるように言った」


 千晴は西村を一瞥すると、医務室の扉へ向かった。


「機関室を安全な状態まで落としてくる」


「安全な状態?」


「燃料と使える部品は回収する。配管の残圧を抜いて、漏電や暴走が起きないよう系統を切る」


 千晴は扉の前で足を止めた。


「私が出たあと、あなたたちがいつまでここに残るか分からないから」


 真帆は、その背中を見つめる。


「千晴さん」


「何?」


「それでも、最後まで潮見亭のことを考えてくれるんですね」


「違う」


 千晴は振り返らない。


「壊れたまま放置するのが嫌なだけ」


 短い沈黙のあと、千晴は付け加えた。


「真帆」


「はい?」


「最後の客なんでしょ」


 少しだけ声が柔らかくなる。


「ちゃんと迎えてあげて」


「……はい」


 千晴は、そのまま医務室を出ていった。


 出発まで、あとどれくらい時間があるのかは分からない。


 数時間かもしれない。


 夜が明けても、少女の容体は安定しないかもしれない。


 傷ついたゆず。


 意識を失った少女。


 地下で目覚めた変異体。


 そして、いずれ捨てなければならない潮見亭。


 状況は何一つ好転していない。


 千晴が皆と行動を共にする保証さえない。


 奇跡が起きる保証など、なおさらなかった。


 それでも真帆は、少女の手を離さなかった。


 乱れた紫色の髪を整え、泥で汚れた頬を濡らした布で優しく拭う。


 そして、若女将として微笑んだ。


「潮見亭へ、ようこそ」


 それは、三年間ずっと口にしたかった言葉だった。


「具合がよくなるまで、どうぞゆっくりお休みください」


 少女の閉じた瞼が、ほんのわずかに震えた。


 その頃。


 機関室へ戻った千晴は、潮見亭を眠らせるための停止手順を進めていた。


 制御盤の電源を一つずつ落とし、配管の弁を閉じていく。


 最後に源泉計の記録を残そうと、その前へ立ったとき。


 ほとんどゼロに張りついていた針が、かすかに揺れた。


 髪の毛一本分にも満たない、ほんの小さな動き。


「……何?」


 千晴は眉を寄せ、計器へ顔を近づけた。


 残圧か。


 温度差による誤差か。


 地下で月樋を動かした影響が、遅れて現れただけなのか。


 それとも、別の何かなのか。


 この時点では、まだ誰にも分からなかった。

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