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第六話 地底の神殿と、変異する脅威

 潮見亭旧館――かつて大浴場として使われていた、今は閉ざされた一室。


 三年分の埃と黴の臭いが染みついた床に、ぽっかりと黒い穴が開いていた。


 千晴がこじ開けた、分厚い鉄製の点検口。


 その奥から、生温かな湿気が絶え間なく吹き上がっている。


 むせ返るほど濃い硫黄の臭い。


 まるで、大地の底に溜まっていた息が、長い眠りから覚めて吐き出されているようだった。


「……行く」


 古賀千晴は額へ押し上げていた工業用ゴーグルを目元へ下ろし、ヘッドランプを点灯した。


 白い光が、底の見えない縦穴へ吸い込まれていく。


 短い黒髪の前髪は、金属製のクリップで無造作に留められていた。紺色の作業用つなぎの腰には工具袋。背にはロープや計測器を詰めた作業用バッグ。


 片手には、点検口を開ける際に使った大型のバールを握っている。


「千晴さん。私が先に降ります」


「駄目」


 千晴は迷うことなく、錆びついた梯子へ足を掛けた。


「下の構造が分からない。設備を見るなら、私が先」


「でも、何がいるか分かりませんよ」


「だから、先に確認する」


 短く言い切ると、千晴は縦穴へ体を沈めていった。


 普段は外へ出ることさえ嫌がり、機関室から一歩も動こうとしない千晴が、今は誰よりも先に未知の暗闇へ踏み込もうとしている。


 怖くないわけではない。


 梯子を握る手には、わずかに力が入っていた。


 それでも、源泉設備に関わることなら、彼女は他人へ任せようとはしない。


 真帆は止めなかった。


「気をつけてください」


「そっちも」


 真帆は緑色の着物の袖を、たすきで固くまとめ直した。


 背には、六尺の神木棍。


 懐には、この地下について記された唯一の手掛かり――古びた『潮見祭祀録』を収めている。


 足元では、柴犬のゆずが暗い穴を見つめていた。


 耳は鋭く立っている。


 けれど、尻尾は低く垂れたままだった。


「怖い?」


「くぅん……」


「大丈夫。私たちも一緒だから」


 自分にも言い聞かせるように呟き、真帆は梯子へ足を掛けた。


     *


 梯子を降りるにつれて、周囲の温度がじわじわと上がっていった。


 空気は重く、湿っている。


 息を吸うたび、硫黄を含んだ熱気が喉の奥へまとわりついた。


「真帆、最後の二段に気をつけて」


 下から千晴の声が響く。


「錆が深い。体重を掛けないで」


「はい」


 真帆は腕へ力を込め、傷んだ段を飛ばして床へ降りた。


 足袋の裏へ伝わってきたのは、意外にも冷たいコンクリートの感触だった。


 そこは四方を灰色の壁に囲まれた、小さな地下室だった。


 壁沿いには古い配管が何本も走っている。


 どれも錆びつき、途中で切断され、現在の設備とは繋がっていない。


「ここが、昔の貯水槽ですか?」


「設計図の上では」


 千晴はヘッドランプで壁と床を照らし、配管の切断面を指先でなぞった。


「でも、貯水槽にしてはおかしい」


「どこがですか?」


「排水口がない。水位計もない。防水処理も壁の途中で終わってる」


 千晴はしゃがみ込み、床を軽く工具で叩いた。


 乾いた音が返る。


「水を溜めるための部屋じゃない」


「では、何のために?」


「……隠すため」


 千晴が部屋の奥へ光を向けた。


 そこにはコンクリートで塞がれていた痕跡のある、剥き出しの岩壁があった。


 中央部分だけが崩され、人一人が身を屈めれば通れるほどの隙間が開いている。


 奥から薄い湯気が流れ出し、かすかな水音が聞こえていた。


「入る。足元を見て」


 千晴が先に、岩壁の隙間へ体を滑り込ませる。


「ゆず、お願い」


 真帆が声を掛けると、ゆずは慎重に鼻先を隙間へ近づけた。


 ひく、ひく、と鼻を動かす。


 いつもの腐臭は感じないらしい。


 だが、普段のように自分から奥へ進もうとはしなかった。


「グルル……」


 暗闇へ向けて低く唸り、すぐに真帆の足元へ戻ってくる。


「何かいるの?」


「少なくとも、ゆずが嫌がる何かはある」


 千晴はバールを握り直した。


「腐臭がしないからって、安全とは限らない」


 三人は、岩壁の隙間を抜けた。


 その瞬間。


 真帆は目の前に広がった光景に、息を呑んだ。


「……すごい」


「何、これ……」


 千晴の口からも、珍しく素直な驚きが漏れた。


 そこには、二人の想像をはるかに超える空間が広がっていた。


 巨大な鍾乳洞。


 天井はヘッドランプの光が届かないほど高く、無数の鍾乳石が巨大な獣の牙のように垂れ下がっている。


 硫黄を含んだ岩肌は淡い黄色へ変色し、水滴が落ちるたび、濡れた表面が妖しく光を返した。


 だが、二人を驚かせたのは自然の造形ではない。


 洞窟の底には、白い湯気を立てる川が流れていた。


 その両岸には、表面を滑らかに削られた石柱が、寸分違わぬ間隔で立ち並んでいる。


 人の手で敷かれた石畳。


 崩れかけた階段。


 壁面には、波と三日月を重ねたような紋様。


 どれも、自然に生まれたものではなかった。


「……継ぎ目がない」


 千晴はゴーグルを額へ押し上げ、石柱の表面へ触れた。


「一本の石を削り出したんでしょうか」


「それだけじゃない。柱の間隔が正確すぎる」


 千晴はヘッドランプの光を足元へ落とした。


 石畳の両脇には、細い溝が洞窟の奥へ向かって伸びている。


「排水路……ではなさそう」


「何ですか?」


「湯を流すための溝に見える。複数の場所へ、同じ量を分配する構造」


 真帆は懐から祭祀録を取り出した。


「ここに書かれている『月樋』でしょうか」


「可能性はある」


 千晴は、すぐには否定しなかった。


 伝承や儀式の意味は疑っても、目の前にある構造と痕跡は無視しない。


 千晴の目にも、この場所が単なる祭祀場ではなく、何らかの設備として作られたことは明らかだった。


「この規模の空洞を、旅館の基礎工事で見落とすはずがない」


 千晴は振り返り、塞がれていた入口の方角を見た。


「誰も知らなかったんじゃない。知っていて、隠した」


「お祖父ちゃんも?」


「少なくとも、入口の存在は知ってたはず」


 千晴は岩壁を塞いでいたコンクリートを思い返すように眉を寄せる。


「完全に埋めてはいない。壊せば、また入れる程度にしてある」


「必要になる日を考えて……」


「かもしれない」


 真帆は、祭祀録を胸元へ抱えた。


 幼い頃、祖父の膝の上で見せてもらった古い絵巻。


 そこに描かれていた地底の祠や石柱は、昔話でも作り話でもなかった。


 潮見亭を三百年以上支えてきた奇跡の湯は、この巨大な地下構造を通り抜け、地上へ湧き出していたのだ。


「……見物してる時間はない」


 千晴はゴーグルを下ろした。


「このまま圧力が落ち続ければ、源泉が完全に止まる。長くても二十四時間」


「はい。この奥に、月見の祠があるはずです」


 二人と一匹は、湯気の川に沿って続く石畳へ足を踏み出した。


     *


 足音が、広大な洞窟の中で幾重にも反響する。


 こつ。


 こつ。


 その合間へ、ちゃぷ、ちゃぷ、と湯の流れる音が重なった。


 奥へ進むほど気温は上がり、呼吸もしだいに苦しくなっていく。


「千晴さん、大丈夫ですか?」


「大丈夫」


「さっきより歩くのが遅くなってます」


「足場を見てるだけ」


 千晴は振り返らない。


 普段の大半を機関室で過ごす彼女にとって、重い工具を背負い、蒸し暑い地下道を歩き続けるのは相当な負担のはずだった。


「荷物、少し持ちます」


「真帆は棍を使う。両手を空けておいて」


「でも――」


「これは私の仕事道具」


 合理的な理由を並べ、助けを拒む。


 真帆はそれ以上言わず、千晴のすぐ後ろを歩いた。


「グルルル……」


 先を進んでいたゆずが、不意に足を止めた。


 暗闇を見つめ、喉の奥から低い唸り声を漏らしている。


 尻尾は脚の間へ巻き込まれ、耳も後ろへ伏せられていた。


「ゾンビ?」


 千晴がバールを構える。


「分かりません」


 真帆も背中から神木棍を抜いた。


「腐臭を嗅いだ時の反応とは違います」


「なら、何に怯えてるの?」


「それが分からないんです」


 ゆずは、どうしても前へ進もうとしない。


 まるで、洞窟の奥ではなく、この地下空間そのものを恐れているようだった。


 真帆はしゃがみ込み、ゆずの首筋を撫でる。


「無理に先へ行かなくていいよ。私のそばにいて」


「くぅん……」


 ゆずが真帆の脚へ体を寄せた。


 千晴は腰の工具袋から携帯用の計測器を取り出す。


「硫化水素濃度が高い。長居はできない」


「この濃度なら、普通のゾンビは近寄れないはずですよね」


「普通なら」


「普通ではないものがいると?」


「今は、全部疑うべき」


 その言葉を裏づけるように、洞窟の奥から低い振動が伝わってきた。


 ごおおおお……。


 足元の石畳が、かすかに震える。


「源泉の音でしょうか」


「たぶん。でも、弱い」


 千晴は計測器の数値を見た。


「温度も落ちてる。急ぐ」


 さらに進むと、両脇に並んでいた石柱が途切れた。


 視界が、一気に開ける。


 ヘッドランプを前方へ向けた千晴が、足を止めた。


「……ここ」


 真帆も息を呑んだ。


 巨大なドーム状の空間。


 中央には、すり鉢のように深く窪んだ地底湖が広がっている。


 いや。


 かつて地底湖だった場所、と呼ぶべきだった。


 水はほとんど失われ、黒い岩肌とぬかるんだ泥が広く露出している。


 水際は、本来の位置から何メートルも後退していた。


 干上がった湖の中央には、直径十メートルほどの円形の石舞台がある。


 その中心に、苔むした小さな石の祠が建っていた。


「……月見の祠」


 真帆は、祭祀録に記されていた名を口にした。


 二人は斜面を下り、石舞台を目指す。


 ぬかるみに足を取られないよう、露出した岩を選びながら慎重に進んだ。


 ゆずも、真帆の脚から離れようとしない。


 祠へ近づくほど、源泉の異常がはっきり見えてきた。


「真帆」


 千晴が祠の根元を照らす。


「見て」


 岩の裂け目がある。


 本来なら、そこから大量の湯が噴き出し、地底湖を満たしていたのだろう。


 しかし今、流れ出しているのは細い糸のような湯だけだった。


 ちょろちょろと力なく滴り、岩の窪みに小さな水溜まりを作っている。


「そんな……」


 真帆は、石舞台へ膝をついた。


 潮見亭の浴場を満たし。


 発電機を回し。


 飲み水を作り。


 蒸気によって、ゾンビを遠ざけてきた奇跡の湯。


 その源が、今にも息絶えようとしている。


 千晴は湧出口へ近づき、周囲の岩へ温度計を当てた。


「機関室の計器は正しかった」


「どこかで詰まっている可能性は?」


「ある。でも、ここを見ただけでは分からない」


 千晴は石舞台の周囲へ光を走らせる。


「祭祀録を見せて」


 真帆が冊子を差し出す。


 千晴は挿絵と現実の石舞台を、何度も見比べた。


「月樋が四本描かれてる」


「はい」


「見えている流路は、三本だけ」


 二人は祠の周囲を調べた。


 東、南、西。


 三方向には、湧出口から湖へ湯を導く石の溝が残っている。


 だが北側だけは、崩れた岩と泥に覆われ、流路が見えなくなっていた。


「ここが塞がっているんでしょうか」


「分からない。でも、下に何かある」


 千晴は泥へバールを差し込み、表面を少しずつ削った。


 やがて、先端が硬いものへ当たる。


 かんっ。


 金属音が地底ドームへ響いた。


「石じゃない」


「何ですか?」


「蓋か、弁の一部」


 千晴の声に、わずかな熱が戻る。


「設備は残ってる。完全に壊れてるとは限らない」


「直せますか?」


「状態を見ないと分からない」


「千晴さんなら直せます」


「簡単に言わないで」


 言葉では突き放しながらも、千晴はすでに作業用バッグを下ろしていた。


 工具を並べ、泥を取り除こうとする。


 その背中へ、真帆が声を掛けた。


「待ってください」


「何?」


 真帆は祭祀録の一節を指で示す。


「月樋に触れる前に、初湯を供え、神楽を舞うと書かれています」


「先に儀式をしろってこと?」


「順番にも、何か意味があるかもしれません」


 千晴は露出しかけた金属部分と、祭祀録を交互に見る。


「操作手順を、儀式として伝えた可能性はある」


 納得しきれない様子で眉を寄せた。


「五分」


「え?」


「五分だけ待つ。それで何も起きなければ、私が弁を調べる」


「ありがとうございます」


「納得したわけじゃない」


 真帆は祠の正面へ進んだ。


 岩の窪みに溜まったわずかな湯を、両手ですくう。


 まだ、温かい。


 けれど、地上の潮見の湯と比べれば、あまりにも弱い温もりだった。


 真帆はその湯を、祠の前に置かれた石の器へ注いだ。


「潮見の湯を守るものへ」


 静かに頭を下げる。


「長い間、忘れていて申し訳ありません」


 三年間。


 生き残ることだけで精いっぱいだった。


 湯を使い、熱を使い、蒸気を使うことばかり考えていた。


 なぜ湧き続けるのか。


 誰が、何のためにこの場所を作ったのか。


 立ち止まって考えたことなどなかった。


「どうか、もう一度だけ」


 真帆は立ち上がり、たすきを掛け直す。


「潮見亭へ、お湯を分けてください」


 両腕を静かに上げた。


 幼い頃、祖母から見よう見まねで教わった舞。


 潮見流の型にも通じる、静かで力強い動き。


 最初の一歩を踏み出そうとした、その瞬間だった。


「ワン! ワンワンワンッ!」


 ゆずが、突如として激しく吠え始めた。


 先ほどまでの怯えた声ではない。


 牙を剥き、背中の毛を逆立て、湖の奥へ向かって吠えている。


 明確な敵意。


 差し迫った危険を知らせる声だった。


「ゆず!?」


 真帆が舞を止める。


 千晴も即座に立ち上がり、バールを両手で握った。


「どこ?」


 ゆずが睨んでいるのは、干上がった湖のさらに奥。


 本来なら水面の下に沈んでいたはずの、巨大な横穴だった。


 水位が下がったことで、地の底へ続く入口が露出している。


 穴の奥は、ヘッドランプの光さえ吸い込むほど暗い。


 ごぼっ。


 ごぼぼぼ……。


 泥の下で、何かが泡を吐くような音がした。


「何かいます」


「分かってる」


 千晴がライトを横穴へ向ける。


 暗闇の中で、何かが動いた。


「ウゥゥゥゥ……」


 低い呻き声。


 一つではない。


 いくつもの声が重なり、洞窟の奥から這い上がってくる。


「ゾンビ……?」


「この硫黄濃度で?」


 千晴の声に、わずかな動揺が混じった。


 光の中へ、一本の腕が現れた。


 人間の腕に似ている。


 だが、異様に太い。


 皮膚は黄土色に変色し、表面は岩のようにひび割れ、分厚い角質に覆われていた。


 続いて、巨大な体が横穴から這い出してくる。


 身長は二メートル近い。


 ぼろぼろになった衣服の下で、筋肉が異常なほど膨れ上がっている。


 落ち窪んだ眼窩。


 耳元まで裂けた口。


 暗闇の中で、赤黒く濁った瞳だけが獣のように光っていた。


「……何、あれ」


 真帆の喉が震える。


「ゾンビには見える」


 千晴は変異した皮膚や関節の動きを、必死に目で追った。


「でも、地上の個体とは状態が違う」


「硫黄に適応したんでしょうか」


「断定できない。硫黄の影響か、感染の変化か、それ以外なのかも分からない」


 一体目の背後から、さらに影が現れる。


 二体。


 三体。


 五体。


 横穴の奥には、まだいくつもの赤黒い目が浮かんでいた。


「水位が下がって、水没していた通路が開いた」


 千晴が低く呟く。


「こいつら、ずっと奥に閉じ込められてたんだ」


 最初の一体が鼻を鳴らした。


 生きた人間の匂いを捉えたのか、赤黒い瞳が真帆たちへ向く。


「ガアアアアアアアッ!」


 鼓膜を震わせる咆哮が、地底ドームへ轟いた。


 横穴から、変異体が次々と這い出してくる。


「真帆、戻る!」


 千晴が叫んだ。


「儀式どころじゃない。来た道へ――」


 最初の変異体が、湖底へ飛び降りた。


 巨体が泥を跳ね上げる。


 だが、その動きは地上のゾンビとは比べものにならないほど速かった。


 四つん這いになり、長い手足で岩を蹴りながら、一気に石舞台へ迫ってくる。


「速い……!」


「走って!」


「間に合いません!」


 真帆は神木棍を抜いた。


「梯子へ着く前に追いつかれます!」


 ここで背を向ければ、そのまま押し潰される。


 逃げ道を作るには、少なくとも先頭の一体を止めなければならない。


「私が前に出ます!」


「一人で止められる相手じゃない!」


「千晴さんは、弱い場所を見つけてください!」


「無茶を――」


「それが千晴さんの仕事でしょう!」


 千晴は一瞬、言葉を失った。


 だが、すぐに変異体の脚と肩へ目を走らせる。


「……関節を狙って」


「はい!」


「正面から受けないで。体重が違いすぎる!」


 変異体が石舞台へ跳び上がった。


 丸太のような腕が、真帆の頭上へ振り下ろされる。


「潮見流古武術――入ります!」


 真帆は真正面から受け止めなかった。


 神木棍を斜めに当て、振り下ろされた腕の軌道を外側へ滑らせる。


 凄まじい衝撃が、棍を通して両腕へ突き抜けた。


(重い……!)


 踏ん張れば、そのまま押し潰される。


 真帆は衝撃に逆らわず、流された勢いのまま半回転した。


 神木棍の石突を、変異体の膝裏へ叩き込む。


 どごっ、と低い音が響いた。


 太い脚が、わずかに沈む。


 だが、倒れない。


「硬い!」


「外側の皮膚が衝撃を散らしてる!」


 千晴が叫ぶ。


「同じ場所を狙って!」


 変異体が太い腕を横へ薙いだ。


 真帆は後方へ跳ぶ。


 直後、腕が石舞台へ激突し、岩が砕けた。


「まともに受けたら終わりですね……!」


「だから下がって!」


「下がったら祠まで来ます!」


 変異体が再び真帆へ踏み込む。


 その横から、千晴が駆けた。


「こっち!」


 構えも、足運びも素人そのものだった。


 戦い方など習ったこともない。


 それでも千晴は、バールを両手で握り、変異体の脇腹へ先端を突き込んだ。


「っ……!」


 硬い皮膚に弾かれかけた先端が、肋骨の隙間へわずかに食い込む。


「ガアッ!」


 変異体の顔が千晴へ向いた。


「千晴さん、離れて!」


 腕が振り下ろされる。


 千晴はバールで受けようとはしなかった。


 即座に工具を手放し、横へ転がる。


 直後、拳が石舞台へ叩きつけられた。


「危なっ……!」


「千晴さん!」


「生きてる!」


 真帆が神木棍を突き上げ、変異体の顎を打った。


 巨体がわずかにのけぞる。


 その隙に、千晴は落としたバールを拾って後退した。


「戦い慣れてないんですから、無理しないでください!」


「真帆一人にやらせる方が無理!」


 その間にも、二体目、三体目が石舞台へ這い上がってきた。


「ワンッ!」


 ゆずが、千晴へ迫る一体の足首へ飛びかかった。


 牙が、角質の薄い内側へ食い込む。


 だが、変異体は痛みを感じない。


 邪魔なものを払うように脚を振り上げた。


「キャンッ!」


 ゆずの小さな体が宙を舞った。


 石舞台の端へ落ち、二度、三度と転がる。


「ゆず!」


 真帆の表情が変わる。


 だが、駆け寄る余裕はない。


 別の変異体が、ゆずとの間へ立ちはだかった。


 真帆と千晴は祠を背に、じりじりと後退する。


 ゆずは足を引きずりながらも、必死に立ち上がろうとしていた。


 周囲は干上がった湖底。


 来た道は、変異体たちに塞がれている。


 赤黒い目を持つ黄土色の巨体が、円形の石舞台を取り囲んでいく。


 千晴はバールを両手で握り直した。


 手が震えていた。


 戦闘経験のない人間が、理屈の通じない怪物に囲まれている。


 怖くないはずがなかった。


「千晴さん」


「何」


「怖いですか?」


「怖いに決まってる」


 千晴は即答した。


 震える指で工具袋へ触れる。


 その中には、父親が使っていた古いモンキーレンチが収められている。


「でも、ここで止まったら、潮見亭も止まる」


 千晴はゴーグルを目元へ下ろした。


「壊れてるなら、直す」


 真帆も神木棍を構え直す。


「邪魔するものがいたら?」


「……どかす」


 最初の変異体が、石舞台を蹴った。


 真帆と千晴は、祠を背に並ぶ。


 傷ついたゆずも二人の足元へ戻り、震えながら牙を剥いた。


 潮見亭の運命を託された二人と一匹は、地底の闇の中で完全に包囲されていた。

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