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第五話 封印された手順書と、奈落への扉


 深夜の潮見亭に、けたたましい足音が響き渡った。


 真帆は裏門の前で倒れていた少女を背負い、息を切らしながら本館の廊下を駆けていた。


 古風な着物に包まれた少女の体は、恐ろしいほど軽い。


 そして、氷のように冷たかった。


「薫子さん! 中山さん! 急患です!」


 大広間を改装した医務室兼研究室へ飛び込む。


 白衣姿の稲村薫子と中山真也が、弾かれたように振り返った。


「真帆さん、その子は……!」


「裏門の前に倒れていました。体がひどく冷えてるんです。早く!」


「こちらへ寝かせてください」


 二人はすぐに簡易ベッドを引き寄せ、真帆の背中から少女を受け取った。


 薫子が泥だらけの着物の帯を緩め、手際よく呼吸と脈拍を確認する。中山は聴診器を少女の胸へ当て、険しい表情で秒針を見つめた。


「……脈が異常に遅い」


 中山が少女の首筋へ指を当て直す。


「呼吸も浅い。それに、この体温の低さは尋常じゃない。普通の人間なら、心停止を起こしていてもおかしくない状態だ」


「でも、息はしています。さっきまで、少しだけ話していたんです」


「薫子さん、体温計を」


「はい」


 薫子が少女の体温を測る。


 表示された数値を見た瞬間、穏やかな薫子の顔にも緊張が走った。


「低体温症の処置を始めます。電気毛布と湯たんぽを用意してください。急激に温めすぎないよう、少しずつ加温します」


「温めた輸液を準備する」


 中山が棚から点滴器具を取り出す。


 医務室の中が、一気に慌ただしくなった。


 真帆は壁際へ退き、肩で息をしながら少女の横顔を見つめていた。


 淡い紫色の髪。


 月明かりのように透き通った白い肌。


 擦り傷だらけの裸足。


 文明が崩壊したこの世界で、どこから、どうやって崖の上まで辿り着いたのか。


 ゾンビが徘徊する温泉街と山道を、たった一人で抜けてきたとでもいうのだろうか。


(……月見の祠)


 気を失う直前、少女は確かにそう言った。


(お湯が、死ぬ……)


 その言葉が、不吉な警鐘のように真帆の頭の中で鳴り続けていた。


 そのときだった。


「真帆」


 医務室の扉が開いた。


 そこに立っていたのは、若い女性だった。


 紺色の作業用つなぎ。


 前髪を金属製のヘアクリップで留めた黒髪。


 額には、細かな傷のついた工業用ゴーグル。


 白い肌には機関室の熱気による薄い汗が浮かび、作業着には油と煤が染みついていた。


 腰に提げた工具袋が、歩くたびに金属音を鳴らす。


 古賀千晴。


 潮見亭の発電、給湯、濾過、監視設備、そして蒸気を利用した防衛設備を一手に引き受けている技術者だった。


 普段は機関室からほとんど出てこない。


 人との会話を避け、食事さえ機関室へ運ばせようとする千晴が、自ら医務室まで姿を現している。


 その事実だけで、何か重大な異常が起きていることが分かった。


 千晴の手には、計器の記録を挟んだクリップボードが握られていた。


 後ろから、西村と優斗も不安げに医務室を覗き込んでいる。


「千晴さん……」


「その子は薫子さんたちに任せて」


 千晴はベッドの少女へ一瞬だけ目を向けると、真帆へクリップボードを差し出した。


「もっと切迫してる問題がある」


「もっと切迫してるって……」


「源泉」


 その一言で、真帆の胸が締めつけられた。


「一時間前から、主源泉と第二源泉の圧力が同時に落ち始めた」


 クリップボードには、時刻ごとの蒸気圧と湧出量が細かく記録されていた。


 緩やかに下降していた線が、直近の一時間だけ、崖から転がり落ちるように急降下している。


「最初は計器の異常か、配管の詰まりだと思った。でも違う」


「配管は確認したんですか?」


「主要弁、循環ポンプ、温度計、圧力計。全部確認した。外へ出てる配管も、監視できる範囲では漏れてない」


「では、何が……」


「源泉そのものの力が落ちてる」


 千晴は淡々と告げた。


 しかし、クリップボードを握る指には力が込められている。


「このままの速度なら、もって二十四時間」


「二十四時間……?」


「早ければ明日の昼には、発電用の蒸気圧を維持できなくなる」


 優斗の顔から血の気が引いた。


「電気が止まるってことですか?」


「電気だけじゃない」


 千晴は指を折りながら、簡潔に列挙する。


「発電機が止まる。給水ポンプが止まる。冷蔵設備も、監視装置も、外周の蒸気管も止まる。館内へ湯を送ることもできなくなる」


「蒸気トラップが動かなくなったら……」


「ゾンビを止められない」


 優斗が息を呑んだ。


「それだけじゃねえ」


 西村が奥歯を噛みしめる。


「冷凍庫が止まったら、備蓄の魚も肉も全部駄目になる。水がなけりゃ、飯も炊けん」


「医薬品にも影響が出ます」


 少女の処置を続けながら、薫子が言った。


「血清や抗生剤の中には、冷蔵保存が必要なものがあります。設備が止まれば、長くはもちません」


「研究試料も同じだ」


 中山が点滴の流量を確認しながら続ける。


「真帆くんの血液から分離した成分も、温泉水から採取した微生物も、保冷できなければ失われる」


 温泉は、潮見亭の名物というだけではない。


 電気。


 水。


 食料。


 医療。


 そして防衛。


 潮見亭を一つの生存圏として成立させている、すべての中心だった。


 その温泉が止まる。


 それは、この宿での生活が終わることを意味していた。


「だから、決めて」


 千晴が真帆を見据える。


「夜明けまでに撤退準備を始める」


「撤退……」


「持ち出せるだけの水、食料、医薬品、工具をまとめる。山側の道から内陸へ移動する」


「でも、どこへ行くんですか!」


 優斗が声を上げた。


「外にはゾンビだけじゃなくて、湯煙ナイブズの連中だっているかもしれないのに!」


「安全な場所があるなんて言ってない」


 千晴の声は冷静だった。


 冷たく聞こえるほどに。


「でも、ここに残れば確実に追い詰められる。硫黄の匂いと蒸気が消えれば、潮見亭はただの建物になる」


 千晴は一度、言葉を切った。


「食料と水と薬が詰まった、目立つ建物に」


「それでも……」


「私は、根拠のない賭けに全員を巻き込みたくない」


 千晴は簡単に他人を信用しない。


 予測できないものを嫌い、数字と事実を優先する。


 機械ならば、異常の原因を探せる。


 部品が壊れていれば交換し、配線が切れていれば繋ぎ直せばいい。


 だが、人の命には交換部品がない。


 だからこそ、千晴は最悪の事態を想定する。


 それが、潮見亭の設備と仲間を三年間守ってきた、彼女なりの方法だった。


「……撤退の判断は、少しだけ待ってください」


 真帆はベッドで眠る少女へ目を向けた。


「この子が、気を失う直前に言ったんです。『お湯が死ぬ』と」


「偶然かもしれない」


「『月見の祠』とも言いました」


 千晴の眉が、わずかに動く。


「私も見たんです。露天風呂の湯煙の中に、石の鳥居と祠を。それから、この子と同じ姿をした少女を」


「湯煙の中に幻を見た。その直後に同じ姿の子が現れた。だから、この子が源泉の異常を知らせに来たと?」


「そうです」


「根拠になってない」


「分かっています」


「疲労による幻覚かもしれない。その子が誰かに言わされている可能性もある」


 千晴は、正体不明の少女を信用していない。


 湯煙ナイブズが送り込んだ罠である可能性さえ疑っている。


 それでも真帆は引かなかった。


「心当たりがあるんです」


「何に?」


「月見の祠です」


 真帆は踵を返した。


「ゆず、行くよ!」


「わん!」


「真帆!」


 千晴の声を背中で受けながら、真帆は医務室を飛び出した。


     *


 真帆が向かったのは、本館の最奥にある『奥の間』だった。


 代々、潮見亭の主人と女将が使ってきた部屋。


 三年前までは、真帆の両親の寝室だった場所でもある。


 両親が戻らなくなってから、真帆はこの部屋へほとんど入っていない。


 襖を開けた瞬間、畳と古い木、そして薄く積もった埃の匂いが鼻をついた。


 障子越しの月明かりが、誰もいない部屋を青白く照らしている。


 母が使っていた鏡台。


 父が読みかけのまま残した本。


 箪笥の上に並べられた、家族三人の写真。


 この部屋だけが、三年前から時間を止めたまま取り残されていた。


「……お父さん、お母さん」


 胸の奥が痛む。


 それでも今は、立ち止まっている場合ではない。


 真帆は床の間へ向かい、奥に置かれた古い桐箱の前へ膝をついた。


 祖父が大切に保管し、父も決して他人へ触らせなかった箱である。


 留め具を外し、慎重に蓋を持ち上げた。


 中には、絹布に包まれた一本の絵巻物と、和紙を綴じた古い冊子が収められていた。


「『潮見亭縁起絵巻』……」


 もう一冊の表紙には、墨でこう記されている。


「『潮見祭祀録』」


 子どもの頃、祖父の膝の上で、何度も見せてもらったものだった。


『いいかい、真帆。これは、ただのおとぎ話じゃない』


『潮見亭と、この湯が交わした約束が書かれているんだ』


『約束?』


『そうだ。湯を大切にし、訪れた人をもてなす。その約束を守る限り、潮見の湯もわしらを守ってくれる』


 当時の真帆は、温泉を大切にするための教訓だと思っていた。


 震える手で、絵巻を広げる。


 そこには、崖の上に建つ潮見亭が描かれていた。


 その真下。


 地中深くまで伸びる水脈の先に、巨大な空洞が広がっている。


 空洞の中心には、地底湖に囲まれた小さな祠。


 その脇に、『月見神社』の文字が記されていた。


「本当に、あった……」


 湯幻の中で見た鳥居と祠。


 それとよく似ている。


 真帆は続けて祭祀録を開いた。


 そこには、季節ごとの湯祭りや奉納物、神楽の順序、満月の夜に行う『月見の湯』の手順が記されていた。


『満月の夜、当代の女将は地の底なる月の祠へ赴き、初湯を奉じ、月樋を順に開くべし』


『これを怠れば、湯の道は閉ざされ、地の熱は奈落へ沈まん』


「月樋……?」


 さらに読み進める。


 湯量が低下した際に確認する水路。


 地中に溜まった泥や石を取り除く順序。


 地下へ続く点検口の位置。


 祠の周囲にある『月樋』と呼ばれる複数の水門を、決められた順に開閉する手順。


 それらが、祭祀の作法に紛れ込むように書き残されていた。


「これは……ただの儀式じゃない」


 真帆は息を呑んだ。


「源泉を維持するための手順書なんだ」


 かつての人々は、地下設備の仕組みを完全には理解していなかったのかもしれない。


 あるいは、仕組みを知る者が失われても、作業だけは確実に受け継がれるよう、『祭り』や『儀式』という形へ置き換えたのかもしれない。


 満月の夜に行われる『月見の湯』。


 それは単なる観光行事ではなかった。


 潮見亭の源泉を維持する、定期的な保守作業だったのだ。


 祭祀録の最後のページには、さらに奇妙な伝承が残されていた。


『湯の道が閉ざされし時、祠を守る月の子は地上へ現れ、当代の女将に警告を授ける』


『その髪、夜明け前の藤の色なり』


「……紫の髪」


 真帆の脳裏に、医務室で眠る少女の姿が浮かんだ。


 少女が本当に神なのか。


 祠を守ってきた人間なのか。


 それとも、別の何かなのか。


 まだ分からない。


 それでも、源泉が弱まり始めた満月の夜に、祭祀録と同じ髪を持つ少女が現れた。


 偶然で片づけるには、あまりにも出来すぎている。


「お湯が枯れたんじゃない」


 真帆は祭祀録を抱きしめた。


「私が、この手順を止めてしまったから……湯の道が閉じようとしてるんだ」


 三年前から、生き残ることに必死だった。


 ゾンビを防ぐために門を補強し、物資を集め、食料を育て、発電設備を守ってきた。


 けれどその裏で、代々の女将が受け継いできた役目を、真帆は古い慣習だと思い込んでいた。


「まだ、間に合うかもしれない」


 真帆は絵巻と祭祀録を抱え、立ち上がった。


 神話でも、迷信でも構わない。


 そこに源泉を復旧するための手順が残されているなら、女将として確かめる義務がある。


     *


「千晴さん! 撤退の準備は待ってください!」


 真帆が機関室へ飛び込むと、千晴は非常用のバックパックへ工具を詰めているところだった。


 額に上げていたゴーグルを目元まで下ろし、工具棚から必要な物だけを素早く選んでいる。


 発電機の低い駆動音。


 配管を流れる蒸気の音。


 壁一面に並ぶ計器の針が、通常よりも低い位置で小刻みに震えている。


 西村、優斗、中山も、真帆の声を聞きつけて集まってきた。


「まだ、その話を続けるの?」


 千晴は振り向かない。


「原因を直せる可能性があります」


「可能性だけで残るのは危険」


「これを見てください」


 真帆は機関室の作業台へ、潮見亭縁起絵巻を広げた。


「油がつく」


「今だけは我慢してください」


「貴重な物なんでしょ」


 文句を言いながらも、千晴はバックパックから手を離した。


 真帆は絵巻に描かれた地下空洞を指差す。


「潮見亭の地下に、月見神社という祠があります」


「伝説の中では、でしょ」


「祭祀録には、地下の水路や水門を確認する手順まで書かれています」


 真帆は冊子を開き、月樋の記述を示した。


「これは、ただの儀式じゃありません。昔の人が残した、源泉設備の保守手順です」


 西村が祭祀録を覗き込む。


「神様へ初湯を供えることが、設備の保守になるのか?」


「初湯を流す場所が、水路や水門を動かす仕組みになっているのかもしれません」


「推測だね」


 中山が静かに言った。


「だが、検証する価値はある。少なくとも、この絵巻が地下水脈の構造を正確に描いているなら、単なる伝説とは断定できない」


 千晴は黙って、絵巻を見つめていた。


 視線を向けているのは、神社や少女の絵ではない。


 地下へ伸びる複数の線。


 空洞を囲むように描かれた水路。


 そして、潮見亭の建物との位置関係だった。


 千晴は壁に貼られた設計図へ歩み寄る。


 絵巻と設計図を、何度も見比べる。


「……ここ」


 千晴の指が、旧館の一角で止まった。


「旧大浴場の下に、図面上は使われていない貯水槽がある」


「貯水槽?」


「先代からは、増築前の設備が残ってるだけだと聞いてた。でも、この広さはおかしい」


 千晴は定規を取り、設計図の縮尺を確かめる。


「壁の厚さと基礎の位置が合わない。図面通りなら、何もない場所に不自然な空間が残る」


「絵巻に描かれた空洞ですか?」


「分からない。でも、地下へ続く入口があるなら、旧大浴場の下」


 千晴の声に、わずかな熱が混じり始めていた。


 人間関係には興味を示さない彼女も、未知の構造や設備を前にすると、技術者としての好奇心を抑えられない。


「千晴さん」


「まだ信じたわけじゃない」


「はい」


「地下に何かある可能性を認めただけ。儀式で直るとも思ってない」


 千晴はゴーグルを額へ押し上げ、真帆を見る。


「でも、水門か古い取水設備があるなら、物理的に直せるかもしれない」


「一緒に行ってくれますか?」


「……他に直せる人がいる?」


「いません」


「なら、私が行く」


 千晴は非常用バックパックの中身を入れ替え始めた。


 食料を減らし、代わりに工具、ロープ、予備のライト、計測器を詰めていく。


 そして最後に、工具棚の一番奥へ手を伸ばした。


 取り出したのは、使い込まれた古いモンキーレンチだった。


 父親の形見。


 普段は大切にしまい、滅多に作業へ持ち出さない道具である。


 千晴はレンチを見つめたあと、工具袋へ静かに差し込んだ。


「ただし、条件がある」


「何ですか?」


「地下に何もない。あるいは、朝までに復旧の見込みが立たない。その場合は撤退する」


「分かりました」


「本当に?」


「約束します」


 千晴は真帆の目を見つめた。


 他人の言葉を簡単には信じない彼女が、その返事の真偽を確かめるように。


 やがて、小さく息を吐いた。


「分かった」


「俺も行きます!」


 優斗が手を上げた。


「駄目」


 真帆と千晴の声が重なった。


「どうしてですか!」


「中がどうなってるか分からないから」


 千晴が答える。


「狭い場所に人数を増やせば、何かあったときに逃げにくくなる。優斗はここで発電機と源泉の数値を見て」


「でも……」


「重要な仕事」


 千晴は優斗をまっすぐに見た。


「私たちが地下にいる間、数値が急変したら知らせて。無線が切れた場合、外から状況を判断できるのは優斗だけ」


 優斗は不満そうに唇を結んだが、やがて力強く頷いた。


「……分かりました」


「西村さんと薫子さんは、少女の看病をお願いします。中山さんは源泉水の成分と温度を記録してください」


「分かった」


 中山が頷く。


「無線が届く範囲なら、こちらから変化を報告する」


「お願いします」


 真帆は神木棍を背負い直した。


「千晴さん。絶対に、お湯を取り戻しましょう」


「正確には、原因を確認して修理する」


「同じことです」


「全然違う」


 千晴はヘッドランプの電源を確認すると、旧館へ向かって歩き出した。


     *


 潮見亭旧館。


 本館が増築された際に役目を終え、閉鎖された古い大浴場は、埃と黴の匂いに満ちていた。


 壁のタイルはところどころ剥がれ落ち、ひび割れた浴槽の底には黒い汚れがこびりついている。


 千晴がヘッドランプで照らしたのは、浴槽の脇に埋め込まれた、分厚い鉄製の点検口だった。


「設計図では、この下が古い貯水槽」


 千晴はしゃがみ込み、蓋の縁を指でなぞる。


「でも、変」


「何がですか?」


「旅館の点検口としては頑丈すぎる。蓋も厚いし、固定方法も普通じゃない」


 千晴は留め具の錆を削り、工具を掛ける。


「内側から圧力がかかることを想定してる。それに、今の旧館を建てた時代の物じゃない」


「そんなに古いんですか?」


「たぶん」


 千晴はゴーグルを目元へ下ろした。


「真帆、離れて」


「手伝います」


「蓋が跳ねたら危ない」


「でも――」


「ここは私の仕事」


 真帆は言われた通り、ゆずとともに数歩下がった。


 千晴はバールの先端を、点検口の隙間へ差し込む。


 ぎぎぎ、と金属が軋んだ。


「固い……」


「千晴さん、大丈夫ですか?」


「今は話しかけないで。力が抜ける」


 千晴がもう一度、バールへ全体重をかける。


 錆びた留め具が、甲高い音を立てて外れた。


「真帆、そっちを押さえて」


「はい!」


 二人でバールを押し下げる。


 ごん、と重い音が響き、鉄の蓋がわずかに持ち上がった。


 その隙間から、生温かい空気が勢いよく噴き出した。


 黴臭さを塗り潰すほど濃い、硫黄と湿った岩の匂い。


 機関室を満たす機械的な蒸気臭とは違う。


 大地の底から直接吹き上がってくるような、原始的な匂いだった。


「ゆず」


 真帆が呼びかける。


 ゆずは慎重に点検口へ近づき、隙間へ鼻先を寄せた。


 何度か匂いを嗅ぐ。


 ゾンビの腐臭は感じないらしい。


 しかし、尻尾は下がったままだった。


「くぅん……」


 ゆずは不安そうな声を漏らし、真帆の足元へ戻ってきた。


「何かいる?」


 返事の代わりに、ゆずは暗い穴を見つめた。


「開ける」


 千晴が警告する。


 二人で蓋を押し上げると、暗闇へ続く錆びた梯子が現れた。


 下から吹き上がる湿った空気が、真帆の髪と着物の袖を揺らす。


「私が先に行く」


「危険です」


「構造を確認するのは私の役目。真帆はあと」


 千晴はロープを腰へ結び、梯子に足を掛けた。


 外へ出ることさえ嫌がる彼女が、今は誰よりも先に暗闇へ降りようとしている。


 真帆は止めなかった。


「気をつけてください」


「そっちも」


 千晴の姿が暗闇へ消えていく。


 しばらくして、下から声が響いた。


「床がある。降りてきて」


 真帆は祭祀録を懐へ入れ、着物の袖をたすきで縛り直した。


「ゆず、ゆっくりね」


「わふ」


 神木棍を背負い、梯子を下りる。


 たどり着いた先には、冷たいコンクリートの床が広がっていた。


 しかし、近代的な構造は数歩先で途切れている。


 千晴のヘッドランプが、壁の一角を照らした。


 コンクリートで塞がれた形跡のある、巨大な岩の裂け目。


 その中央には、人一人が通れるほどの隙間が残されていた。


「誰かが隠したんですね」


「たぶん」


 千晴はコンクリートの表面へ触れた。


「完全に塞ぐつもりなら、もっと厚く打つ。この施工は中途半端」


「では、どうして……」


「開ける必要があると知ってた人間が、通路だけ残したのかもしれない」


 二人は岩壁の隙間を抜けた。


 その先へライトを向けた瞬間、千晴が息を呑む。


「……何、これ」


 真帆も横から顔を出した。


 そこには、想像をはるかに超える空間が広がっていた。


 自然に形成された、巨大な鍾乳洞。


 天井からは無数の鍾乳石が牙のように垂れ下がり、はるか下では白い湯気を立てる地下河川が流れている。


 だが、自然の洞窟だけではない。


 川の両岸には、表面を滑らかに削られた巨大な石柱が、一定の間隔で並んでいた。


 石畳の通路。


 崩れかけた階段。


 岩壁に刻まれた、波と月を組み合わせたような紋様。


 明らかに、人の手が加えられている。


「この規模の空洞を、基礎工事で見落とすはずがない」


 千晴はゴーグルを額へ押し上げ、目の前の光景を見渡した。


「知らなかったんじゃない。意図的に隠してた」


「誰が……」


「先代か、その前の代か。もっと昔からかもしれない」


 千晴は近くの石柱へ手を触れた。


「加工の仕方も普通じゃない。少なくとも、今の潮見亭を建てた職人の仕事ではない」


 ごおおおお……。


 地の底が唸るような低い音が、洞窟の奥から響いてきた。


 足元の石畳が、わずかに震える。


 ゆずが真帆の足へ体を寄せ、暗闇へ向かって低く唸った。


 真帆は懐から祭祀録を取り出した。


 挿絵には、石柱の並ぶ地下河川と、その奥に建つ祠が描かれている。


「絵巻の通りです……」


 おとぎ話だと思っていた、潮見亭の地下に眠る遺構。


 それは本当に存在していた。


 三年間、彼らの命を繋いできた奇跡の湯は、この巨大な地下空間を通り、地上へ湧き出していたのだ。


「千晴さん」


 真帆は神木棍を握り、暗闇の奥を見据えた。


「この先に、月見の祠があります」


 千晴はライトの光量を上げ、父親の形見であるモンキーレンチを握り直した。


「道が残っていればね」


「行きましょう」


「言われなくても行く」


 真帆と千晴。


 そしてゆずは、地上の光が届かない地下の道へ足を踏み出した。


 源泉が完全に止まるまで、残された時間は二十四時間。


 その先に待つものが、潮見亭を救う手段なのか。


 それとも、長い間封じられてきた何かなのか。


 まだ、誰にも分からなかった。


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