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第四話 白衣の研究者と、月見の湯幻

 相模湾に突き出した岬――汐見崎。


 静岡県の伊豆半島東海岸、伊東の市街地から少し南へ外れたその場所には、海岸線に沿って険しい断崖が連なっている。


 その中でも、ひときわ見晴らしのよい崖の上に建つのが、江戸時代中期から続く老舗旅館『潮見亭』だった。


 三年前。


 世界がゾンビウイルスに呑み込まれ、人類の文明が音を立てて崩壊したあとも、この場所だけは奇跡的に、かつての静けさと美しさを保ち続けている。


 東の空が白み始め、海面が朝の光をきらきらと反射する頃。


 若女将の湊真帆は、緑色の着物に真っ白な前掛けという、世界が壊れる前と何一つ変わらない姿で、本館の長い廊下を歩いていた。


 足袋の裏から伝わる磨き抜かれた床板の冷たさが、眠気の残る意識を心地よく目覚めさせていく。


「おはよう、ゆず」


 真帆が声をかけると、渡り廊下の日向で丸くなっていた柴犬が、ぱっと顔を上げた。


 尻尾が床を軽く叩く。


「今日も異常なし?」


「わふ」


「そっか。ありがとう」


 真帆はしゃがみ込み、柔らかな首筋を撫でた。


 ゆずは、ただの愛玩犬ではない。


 人間よりもはるかに早くゾンビの気配を察知し、潮見亭へ危険を知らせる、生きた警報装置でもあった。


 そのゆずが穏やかにしている。


 今のところ、潮見亭の周囲に差し迫った危険はないということだ。


「今日もよろしくね」


 ゆずは短く鳴くと、真帆の手をぺろりと舐めた。


     *


 朝の見回りを終えた真帆は、ゆずを連れて屋上へ向かった。


 現在、潮見亭の屋上と裏庭は、貴重な食料生産の場になっている。


 古い配管や壊れた雨樋を組み合わせた水耕栽培設備。かつて観賞用の草花が植えられていた、大きな木製のプランター。


 そこではトマトや葱、青菜などが朝露をまとい、青々と葉を広げていた。


「うん。今日も元気そう」


 真帆は葉の裏を確かめ、虫食いや病気がないかを確認していく。


 振り返れば、崖の下には廃墟と化した汐見崎温泉街が広がっていた。


 ひしゃげた車。


 屋根の崩れた旅館。


 雑草に呑み込まれた道路。


 そして、その間を米粒のように小さく蠢く、無数のゾンビたち。


 町の中心部にある大型の廃ホテルには、元支配人が率いる略奪者集団『湯煙ナイブズ』が潜んでいるという噂もある。


 ゾンビだけではない。


 食料や水、武器を求めて人間を襲う生存者もいる。


 崖下の町は今や、死と暴力が支配する危険地帯だった。


 それでも、潮見亭の屋上には長閑な空気が流れていた。


 その理由の一つが、旅館の地下深くから湧き出る源泉だった。


 高濃度の硫黄を含む、潮見亭自慢の温泉。


 その熱を利用して発電設備を作り上げたのが、二十五歳の技術者――古賀千晴である。


 千晴の父親は、発電設備やボイラー、配管を扱うエンジニアだった。


 彼女は幼い頃から父親の作業場へ出入りし、機械を分解する手つきや、故障した設備を直す技術を、その目で見ながら吸収してきた。


 壊れた機械の音を聞き分ける。


 金属の振動から異常を察知する。


 限られた部品を組み合わせ、必要な装置を一から作り上げる。


 その能力は、潮見亭の誰もが認めている。


 ただし、本人はほとんど機関室から出てこない。


 人付き合いを好まず、他人に簡単には心を許さない。食事さえ機関室へ運ばせようとするほど、内へ籠もりがちな女性だった。


 外へ出ることは、さらに嫌がる。


 それでも千晴の技術があるからこそ、潮見亭には最低限の電力が供給され、監視装置や蒸気を利用した防衛設備も動き続けている。


 温泉の蒸気と硫黄の匂いはゾンビの接近を鈍らせ、濾過された水は飲料や作物の栽培にも使われていた。


 文明が死んだ世界で、潮見亭は温泉という大地の力によって、ひとつの小さな生存圏を築いていたのである。


     *


 朝の業務を一通り終えた真帆は、本館の奥にある大広間へ向かった。


 かつて宴会場として使われていたその場所は、現在、背の低い仕切り板でいくつもの区画に分けられている。


 顕微鏡。


 ビーカー。


 試験管。


 医療器具。


 小型の遠心分離機。


 何台ものモニター。


 その大半は、パンデミック初期に近隣の病院や研究施設から運び込まれたものだった。


 今では、即席の研究室兼治療室として使われている。


「失礼します。中山さん、今月の採血に来ました」


 真帆が声をかけると、顕微鏡を覗き込んでいた白衣の男が、ゆっくりと顔を上げた。


 やや癖のある茶色い髪。


 知的な印象を与える角縁の眼鏡。


 白衣の下には、ライトブルーのシャツとベージュのフード付きジャケットを身につけている。


 中山真也。


 二十九歳。


 パンデミック以前は、医科大学の研究所でウイルス学や免疫学を専門としていた研究者だ。


「ああ、真帆くん。時間通りだね」


 中山は壁際のパイプ椅子を指した。


「そこに座って、袖を捲ってくれ」


「はい」


 真帆が椅子へ腰を下ろし、着物の袖を捲る。


 中山は手袋をつけ、腕をアルコールで丁寧に消毒した。


「最近の体調は?」


「元気です」


「めまい、倦怠感、発熱は?」


「特にありません」


「長時間、湯に浸かったあとに動悸がすることは?」


「それもないです。毎晩、気持ちよく入ってます」


「気持ちよさではなく、症状を聞いているんだ」


「症状がないから、気持ちいいんです」


 真帆が笑うと、中山は小さく息を吐いた。


「君は時々、問診に向いていないな」


「中山さんが真面目すぎるんですよ」


 注射針が刺さり、鮮やかな赤い血がシリンジへ吸い上げられていく。


 真帆はわずかに眉を寄せたものの、腕を動かさずに耐えた。


「終わった」


「ありがとうございます」


 中山は採取した血液を試験管へ移し、遠心分離機にセットした。


 低い駆動音が研究室に響く。


 中山がこの潮見亭で研究を続けている最大の目的。


 それは、人類を絶望の淵へ追いやったゾンビウイルスの治療法を見つけることだった。


 そして、その手掛かりの一つが真帆の血液にある。


 真帆の体には、ゾンビウイルスに対する強い抵抗性が確認されていた。


 感染しないわけではない。


 だが、通常の人間よりもウイルスの増殖が遅く、初期症状が抑えられる可能性が高い。


 潮見亭の血筋に由来するのか。


 幼い頃から温泉へ入り続けてきた影響なのか。


 それとも、二つが組み合わさった結果なのか。


 現段階では、中山にも断定できていない。


 もう一つの鍵が、潮見亭の源泉――通称『奇跡の湯』だった。


 この温泉には、一般的な温泉水とは異なるミネラルバランスと、未知の微生物群が含まれている。


 傷の治りを促進するだけでなく、感染初期の症状を一時的に抑える可能性があることが、中山の研究によって少しずつ分かり始めていた。


「君の血液に含まれる抗体と、奇跡の湯の成分」


 中山は透明な温泉水の入った試験管を持ち上げた。


「この二つが、ウイルスの増殖を抑える仕組みを特定できれば、進行を遅らせる薬が作れる可能性がある」


「治せる薬ですか?」


「そこまでは言えない」


 中山は即座に否定した。


「現段階では、治療薬どころか、なぜ抑制効果が現れるのかも完全には分かっていない。期待だけで結論を急ぐのは危険だ」


「中山さんらしいですね」


「科学は希望を語るための道具ではない。事実を確かめるためのものだ」


 そう言いながらも、中山の目には強い光があった。


 研究への執念。


 これ以上、誰かがウイルスによって人間性を失う姿を見たくないという、焦りにも似た感情。


 真帆は、その目を何度も見てきた。


「ただ……」


 中山が試験管を下ろした。


「少し気になるデータがある」


「気になるデータ?」


「ここ数日、温泉水から検出される特定の微生物と、いくつかのミネラル成分が減少している」


「減っている?」


「わずかにだ。測定誤差の可能性もある」


 中山は机の上の記録用紙を指でなぞった。


「だが、同じ傾向が数日続いている。水脈の奥で、何らかの変化が起きている可能性は否定できない」


「お湯の成分が変わっているんですか?」


「今のところ、入浴や飲料利用には問題ない。温度や湧出量も、計器上では基準値に収まっている」


「千晴さんも、何も言ってませんでした」


「先ほど確認した。発電用の蒸気圧にも、大きな異常はないそうだ」


「それなら……」


「ただ、私の視点から見ると、源泉がわずかに疲れているように見える」


「疲れている……」


 奇妙な言葉だった。


 温泉は生き物ではない。


 本来なら、疲れることなどないはずだ。


 それなのに、その言葉は真帆の胸の奥へ引っかかった。


「あら。難しいお話の最中でしたか?」


 仕切りの向こうから柔らかな声がした。


 姿を現したのは、白衣を羽織った女性だった。


 短い茶色の髪を薄緑色の頭巾でまとめ、丸い眼鏡をかけている。


 稲村薫子。


 パンデミック以前は看護師として働いており、現在は潮見亭の医療と健康管理を担当している。


 薫子は手作りのハーブティーが入ったマグカップを三つ、お盆に載せていた。


「ちょうど採血が終わったところです」


「お疲れさま、真帆さん」


 薫子は真帆へマグカップを差し出した。


「少し甘くしてあります。採血のあとは、きちんと水分を取ってくださいね」


「ありがとうございます」


「中山先生も、少し休んでください」


「あと一つ、確認を――」


「休んでください」


 薫子は穏やかな笑顔のまま、もう一度言った。


 中山は無言で眼鏡の位置を直し、マグカップを受け取った。


「……ありがとう」


「どういたしまして」


 カモミールの柔らかな香りが、消毒液の匂いの残る研究室へ広がっていく。


「そういえば、もうすぐ本格的な夏ですね」


 薫子が窓の外を見ながら言った。


「そうですね」


 真帆の表情がわずかに曇る。


「嫌な季節になります」


 ゾンビたちの活動は、季節によって変化する。


 気温の低い冬は動きが鈍くなる。


 反対に、気温が上昇する夏には、活動が活発になり、移動範囲も広がる傾向があった。


「千晴さんが防衛用の蒸気管を調整してくれていますけど、油断はできません」


 真帆は窓の向こう、崖下の町を見た。


「最近、崖の下から上がってくるゾンビが増えています」


「硫黄への耐性を持ち始めた個体がいる可能性も考えるべきだ」


 中山が淡々と言った。


「ウイルスは複製の過程で変異する。環境に適応した個体が生き残れば、その性質が広がることもあり得る」


「温泉が効かないゾンビが増えるかもしれない、ということですか?」


「可能性の話だ」


「中山先生は、不安になる言い方ばかりしますね」


 薫子が困ったように微笑む。


「根拠のない楽観は危険だ」


「根拠のない悲観も、心にはよくありません」


「……それは否定しない」


 三年間、潮見亭を守ってきた均衡。


 それが今、目には見えないところから、少しずつ崩れ始めている。


 真帆は両手でマグカップを包み込んだ。


 温かい。


 けれど、胸の奥に生まれた冷たい不安までは消してくれなかった。


「大丈夫です」


 真帆は自分へ言い聞かせるように、はっきりと言った。


「どんなゾンビが来ても、略奪者が来ても、潮見亭の看板は下ろしません」


 薫子と中山が真帆を見る。


「私が、この宿を守ります」


 薫子は優しく微笑んだ。


 中山は何も言わず、眼鏡の位置を直した。


 彼らもまた、この若い女将の言葉に、何度も支えられてきたのだ。


     *


 その日の夜。


 夕食の片づけを終え、皆がそれぞれの持ち場へ戻ったあと。


 真帆は一人、崖へせり出すように作られた展望露天風呂へ向かった。


 一日の終わりに湯へ浸かることは、女将としての特権である。


 同時に、湯温や湯量、匂い、肌触りを自分の体で確かめる、大切な仕事でもあった。


 それは、代々の女将に口伝されてきた教えである。


 真帆は脱衣所で着物を脱ぎ、掛け湯をしてから岩風呂へ足を入れた。


「……はあ」


 湯へ肩まで浸かる。


 温かさが、採血の疲れや一日の緊張をゆっくりとほどいていく。


 硫黄の匂い。


 岩を伝う湯の音。


 湯煙の向こうに浮かぶ、白い満月。


 真帆は湯船の縁へ頭を預け、静かに目を閉じた。


(お父さん、お母さん)


 三年前。


 混乱する宿泊客を逃がすため、崖下の町へ向かった両親。


 父が最後に残した言葉を、今でも鮮明に覚えている。


『真帆。潮見亭を……この湯を守るんだ』


 三年間、必死に守ってきた。


 千晴が発電と設備を維持し。


 西村が食事を作り。


 薫子と中山が命を支え。


 優斗が汗を流し。


 ゆずが危険を知らせる。


 そして真帆が、門前に立つ。


 だが、その均衡は決して強固なものではない。


 一つでも欠ければ、潮見亭は簡単に崩れてしまう。


 ふと、脱衣所の壁に残された古いカレンダーが目に入った。


 日付は三年前のまま。


 だが、その脇には月齢が細かく書き込まれている。


(今夜は、満月なんだ)


 潮見亭には、季節ごとの湯祭りや、満月の夜に行う『月見の湯』という行事が伝わっている。


 かつては満月の光を湯面へ映し、宿泊客へ特別な酒や料理を振る舞う催しだった。


 両親を失ってから、真帆はそれらの伝統を行っていない。


 生き延びることで精いっぱいだった。


 湯祭りも、月見の湯も、観光客を楽しませるための催しにすぎない。


 そう思っていた。


 幼い頃、祖父が語っていた言葉を思い出す。


『いいかい、真帆。この湯は、ただ勝手に湧いているんじゃない』


『わしらが湯を大切にして、人をもてなすからこそ、湧き続けてくれるんだ』


 子どもの頃は、おとぎ話だと思っていた。


 けれど今日、中山は言った。


 源泉が疲れているように見える、と。


(もし、月見の湯が、ただの催しじゃなかったとしたら)


 真帆は無意識に、湯船の縁へ手を伸ばした。


 いつもなら指先がすぐに水面へ触れる。


 潮見亭の岩風呂は、湯が縁近くまで満たされているのが自慢だった。


「……あれ?」


 指先が空を切った。


 真帆は目を開ける。


 湯面が、いつもより低い。


 指一本分。


 いや、二本分ほど下がっている。


(気のせいじゃない)


 さらに、湯の温かさもどこか頼りなかった。


 普段は四十二度に保たれている。


 しかし今夜の湯は、四十度にも届いていないように感じられる。


「どうして……」


 真帆は手のひらで湯をすくった。


 透明な湯が、指の隙間から流れ落ちる。


 その瞬間。


 月明かりを映した湯面が、ゆらりと大きく揺れた。


「え……?」


 風はない。


 真帆も動いていない。


 それなのに、湯船の中央から波紋が広がっていく。


 白い湯煙が、急に濃くなった。


 視界が月明かりごと、白く覆われる。


 湯の音が遠ざかる。


 代わりに聞こえたのは、鈴の音だった。


 ちりん。


 ちりん。


 祭りの夜に、巫女が鳴らす神楽鈴のような澄んだ音。


「何……?」


 湯煙の中。


 月を背負うように、一本の鳥居が浮かび上がった。


 古く朽ちた石の鳥居。


 その根元を、白い湯が川のように流れている。


 鳥居の向こうには、山の斜面へ埋もれた小さな祠が見えた。


 そして、その前に一人の少女が立っている。


 古風な着物。


 月の光を受けて、淡い紫色に輝く髪。


 少女が、ゆっくりと真帆へ顔を向けた。


『月見の祠を――』


 かすかな声。


『湯が、死ぬ前に――』


「待って!」


 真帆が湯の中から手を伸ばす。


 その瞬間、波紋が弾けた。


 鳥居も、祠も、少女の姿も消える。


 あとに残っていたのは、満月を映した静かな湯面だけだった。


「今のは……」


 夢ではない。


 眠ってはいなかった。


 真帆は確かに、その光景を見た。


 湯の中に現れる、不思議な幻。


 代々の女将がごく稀に見ると伝えられてきた――湯幻。


 真帆が言葉を失っていると、脱衣所のスピーカーが突然鳴った。


『真帆! 起きてる!?』


 千晴の声だった。


 普段の冷静さを失った、珍しく切迫した声。


 真帆は弾かれたように立ち上がった。


「千晴さん? どうしました!」


『旧ロープウェイ側の裏門。外周センサーが反応した』


「ゾンビですか?」


『分からない。数も読めない。熱源の反応も安定しない』


 千晴が早口で告げる。


『監視カメラの死角に、何かいる』


 その直後。


 遠くから、ゆずの激しい吠え声が夜気を切り裂いた。


 鋭く、短い警戒音。


 けれど、いつものゾンビに向ける吠え方とは、どこか違っていた。


 普段のゆずなら、腐臭や足音を察知した瞬間、低く唸りながら相手のいる方角へ身を乗り出す。今にも飛びかからんばかりに全身の毛を逆立て、真帆たちへ危険を知らせるのだ。


 だが今夜の声には、敵を威嚇する激しさだけではなく、得体の知れないものを前にした戸惑いが混じっていた。


 吠えている。


 それなのに、近づこうとしていない。


 まるで、門の向こうにいるものがゾンビなのか、人間なのか、それさえ判断できずにいるようだった。


「すぐ行きます!」


 真帆は急いで湯から上がった。


 体を簡単に拭き、着物を羽織る。


 帯をきちんと締める余裕もなく、着崩れないよう上からたすきを掛けた。


 脱衣所の隅に立ててあった神木棍を掴み、裸足のまま下駄を引っ掛けて廊下へ飛び出す。


 心臓が激しく打っていた。


 湯煙の中で見た少女。


 月見の祠。


 湯が死ぬという言葉。


 そして今、裏門の向こうに現れた正体不明の何か。


 あれは単なる幻だったのか。


 それとも、これから起きることを知らせるために、湯が見せたものだったのか。



     *


 本館を抜け、旧館の裏手にある裏門へ走る。


 すでに優斗と西村が駆けつけていた。


 優斗は手製の槍を構え、西村は出刃包丁を握っている。門の前では、ゆずが全身の毛を逆立て、激しく吠え続けていた。


 真帆が到着した直後、門脇のスピーカーから千晴の声が響く。


『遅い』


「千晴さん、状況は?」


『分からない。監視カメラの死角』


 声の向こうで、機械の操作音が聞こえた。


『外周センサーは反応してる。でも、ゾンビにしては熱源が高い。人間にしては、ほとんど動いてない』


「誰かが倒れている可能性は?」


『ある』


「確認しないと」


『待って』


 千晴の声が鋭くなる。


『罠かもしれない』


「罠?」


『助けを求める人間を装って、門を開けさせる。湯煙ナイブズなら、そのくらい考える』


 他人を容易には信用しない千晴らしい判断だった。


 だが、その警戒は、この世界では正しい。


『蒸気管はいつでも動かせる。門の外で不審な動きがあれば、すぐ噴射する』


「待ってください」


 真帆はゆずの様子を見た。


 門へ向かって激しく吠えてはいるものの、いつものように前へ飛び出そうとはしていない。


 むしろ、得体の知れないものを恐れるように、じりじりと後退している。


 敵意というより、戸惑い。


 そして、わずかな畏れ。


「ゆずの反応が変です」


『変って、どういうこと?』


「ゾンビに向ける吠え方とは違います。何がいるのか判断できずに、怖がってるみたいです」


「真帆さん、どうします?」


 優斗が震える声で尋ねる。


「覗き窓から確認します」


 真帆は神木棍を小脇へ抱えた。


「優斗くん、何か飛び込んできたら、槍で突かずに押し返してください」


「はい!」


「千晴さんは、蒸気管をお願いします」


『もう準備してる。勝手に門を開けないで』


「まずは見るだけです」


 真帆は分厚い門扉の中央にある小さな覗き窓へ近づいた。


 板に指を掛ける。


「開けます」


『ゆっくり。顔を近づけすぎないで』


 音を立てないよう、板を横へ滑らせる。


 満月に照らされた裏門の外。


「……え?」


 真帆は予想外の光景に息を呑んだ。


 武装した略奪者はいない。


 ゾンビの群れもいない。


 ただ、門の前に一つの小さな影が倒れていた。


『何がいるの?』


 千晴が低い声で尋ねる。


「……子どもです」


「子ども?」


 優斗が目を見開く。


「こんな真夜中に?」


「女の子が倒れています」


『すぐに開けないで』


 千晴の声が強くなる。


『周囲を確認する。カメラを切り替えるから待って』


「でも、このままでは」


『生きてるかどうかも分からない』


「だから確かめます」


『真帆』


 スピーカー越しに名前を呼ぶ声には、苛立ちだけではなく、隠しきれない焦りが混じっていた。


 人を信用しない千晴。


 危険を冒して見知らぬ誰かを助けることを、合理的ではないと考える千晴。


 だが、彼女が恐れているのは、門前の少女だけではない。


 真帆が危険な目に遭うことも、同じくらい警戒しているのだ。


「千晴さんが見ていてください」


『見えない場所だから止めてる』


「門を少しだけ開けます。何かあれば、すぐに閉めます」


『……何かあったら、すぐ戻って』


「はい」


『絶対に』


「約束します」


 短い沈黙が流れる。


『開けるなら、人一人が通れる幅だけ。西村と優斗は扉から手を離さないで』


「分かりました」


「おう」


「はい!」


 真帆は重い閂を外した。


 西村と優斗が内側から扉を押さえる。


 門をわずかに開くと、冷たい夜風とともに、泥と森の匂いが流れ込んできた。


 門前に倒れていたのは、十二、三歳ほどの少女だった。


 現代の衣服ではない。


 まるで時代劇から抜け出してきたような、古風な着物を身にまとっている。


 裾は泥だらけに汚れ、ところどころが裂けていた。


 足は裸足。


 無数の擦り傷から、細く血が滲んでいる。


 そして何より目を引いたのは、肩にかかるほどの淡い紫色の髪だった。


 月明かりを受け、青白く輝いている。


(さっきの……)


 湯幻の中に立っていた少女。


 同じ髪。


 同じ着物。


 真帆は息を呑んだ。


「おい、生きているのか?」


 西村が出刃包丁を下げながら呟く。


 真帆は神木棍を門の内側へ置き、外へ出た。


『真帆!』


 千晴の鋭い声が飛ぶ。


「大丈夫です」


『その言葉が一番信用できない。周囲を見てから近づいて』


 真帆は左右の暗がりを確認した。


 動く影はない。


 腐臭も聞き慣れた呻き声も感じられなかった。


「周囲に何もいません」


『長居しないで』


 真帆は少女のそばへ膝をつき、慎重に抱き起こした。


「しっかりしてください。聞こえますか?」


 少女の体は、氷のように冷たかった。


 脈は弱い。


 呼吸も浅い。


 まるで生命の火が、今にも消えようとしているかのようだった。


 真帆の腕の中で、少女がゆっくりと目を開いた。


 淡い紫色の瞳。


 しかし、その焦点は真帆に合っていない。


 視線は真帆の肩越しに、夜空の満月を見つめていた。


「……月見の、祠……」


 か細い声。


 それでも、不思議なほど澄んで響いた。


「え……?」


 真帆の胸が強く脈打つ。


 湯幻の中で聞いた言葉と同じだった。


「月見の祠って、どこにあるの?」


 少女の瞳は真帆を見ない。


 遥か遠くの何かを見つめたまま、乾いた唇を動かす。


「……お湯が、死ぬ……」


 その一言が、真帆の胸へ突き刺さった。


 露天風呂で感じた、水位の低下。


 湯温の低下。


 中山が語った、源泉の疲労。


 そして、湯幻の中で聞いた警告。


「どういうこと?」


 真帆は少女の体を抱きしめる。


「あなたは誰なの? どうして月見の祠を知ってるの?」


 少女の小さな手が、すがるように真帆の袖を掴んだ。


「……儀式、を……」


「儀式?」


 その言葉を最後に、紫色の瞳が閉じられた。


 少女の体から力が抜ける。


 袖を掴んでいた指が、するりと滑り落ちた。


「しっかりして!」


 真帆が呼びかけても、少女は目を覚まさない。


『真帆、早く中へ戻って』


 千晴の声がスピーカーから響く。


 冷静さを取り戻してはいたが、普段より明らかに言葉が速い。


『その子が一人で来たとは限らない。周囲に何か潜んでるかもしれない』


「はい」


 真帆は少女を抱き上げ、門の中へ戻った。


 西村と優斗がすぐに扉を閉める。


 太い閂が下ろされた。


「どうやってここまで来たんだ……」


 優斗が少女の泥だらけの足を見つめる。


「この子が一人で、ゾンビのいる町を抜けて崖を登ってきたんでしょうか」


「分からん」


 西村も険しい顔をしている。


 スピーカーから、千晴の声が聞こえた。


『今、お湯が死ぬって言った?』


「言いました」


 真帆が答えると、短い沈黙が流れた。


『今夜、源泉の流量が落ちてる』


「どのくらいですか?」


『まだ基準値の範囲内。でも、夕方より確実に低い』


「どうして黙ってたんですか?」


『計器の誤差かもしれなかった。原因を確認してから話すつもりだった』


 声の向こうで、計器を操作する音が聞こえる。


『でも、このタイミングは偶然とは思いにくい』


 人を簡単には信用しない千晴が、正体不明の少女の言葉を完全には否定しなかった。


 それほど、今夜起きたことは異常だった。


「すぐ医務室へ運びます」


 真帆は少女を抱え直した。


「薫子さんと中山さんを呼んでください!」


『もう呼んだ。二人とも準備してる』


「ありがとうございます」


『優斗は廊下を空けて。西村は毛布と温かい湯を用意して』


「分かった」


「はい!」


 真帆が医務室へ向かおうとすると、スピーカーから再び声が飛んだ。


『真帆』


「はい?」


『その子の傷へ素手で触らないで。噛み傷がないかも確認して』


「分かりました」


『それから……』


 千晴の言葉が一度止まる。


「何ですか?」


『……気をつけて』


「はい」


 通信が切れた。


 千晴は姿を現さない。


 機関室の奥から、計器と監視装置を通して状況を見ている。


 それでも、その声が途切れずに聞こえているだけで、真帆は一人ではないと思えた。


 真帆は少女の冷たい体を、しっかりと抱きしめ直す。


 パンデミック後、初めて潮見亭へ辿り着いた、生きた客。


 だが、その少女が運んできたものは、単純な希望ではなかった。


 月見の祠。


 途絶えた儀式。


 低下する源泉。


 そして、お湯が死ぬという警告。


 満月の下。


 潮見亭にとって長く、奇妙な夜が始まろうとしていた。


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