第三話 死の街への買い出しと、色褪せないおもてなし
潮見亭の地下にある備品倉庫は、一年を通してひんやりとしている。
壁際に並んだ棚には、客室用の浴衣や真新しいシーツ、歯ブラシ、石鹸といった各種アメニティ、それに掃除道具が種類ごとに整然と収められていた。
真帆は首から下げた小さな手帳を開き、棚の在庫と照らし合わせながら、鉛筆で一つずつ印をつけていく。
「客室用歯ブラシ、残り三箱。固形石鹸、二箱。浴衣の替え紐は……まだ大丈夫」
紙面へ数字を書き込みながら、倉庫の奥へ進む。
そこで、業務用の大型プラスチックタンクへ目を留めた。
大浴場と露天風呂に置いてある、シャンプーとボディソープの詰め替え用だ。
真帆はシャンプーのタンクを両手で持ち上げた。
ちゃぷん。
底の方で、いかにも心細い音がした。
「……あと少ししかない」
眉を寄せ、タンクを床へ戻す。
客が来ていないからといって、空のボトルを浴場へ並べておくわけにはいかない。
いつ誰が暖簾をくぐっても、すぐに温かな湯へ案内できるようにしておく。
それが潮見亭の決まりだった。
どれほど泉質のよい温泉でも、髪や体を洗うものすらないのでは、心からくつろいでもらうことはできない。
「真帆ちゃーん、いるか」
階段の上から、重い足音とともに西村の声が聞こえてきた。
「いますよ」
真帆が返事をすると、西村が倉庫へ顔を出した。
片手には、空になった大きな醤油瓶。
もう片方には、底が見え始めた塩の壺を抱えている。
「西村さんも、在庫切れですか?」
「ああ。昆布と乾物は蔵にまだ残ってるが、肝心の塩と醤油が心許ない」
西村は空の瓶を軽く振る。
「味のしない飯を出すくらいなら、料理人を辞めた方がましだ。そろそろ仕入れに行けないか」
「仕入れ……」
その言葉に、真帆は小さく息を吐いた。
かつてなら、電話一本で問屋へ注文を入れれば済んだ。
だが、文明が崩壊した今、仕入れという言葉の意味はまるで違う。
崖を下りる。
死者が徘徊する汐見崎温泉街へ入り、放置された店や倉庫から必要な物資を回収して持ち帰る。
それが、現在の潮見亭における仕入れだった。
ぶつっ。
壁際の内線スピーカーが、短いノイズを吐いた。
『話は聞こえてる』
少し低く、ぶっきらぼうな女の声が倉庫へ響く。
機関室にこもる技術者、古賀千晴だ。
『下へ行くなら、機関室用の潤滑油も探して。あと、五W―三〇のエンジンオイル。この前の蒸気トラップで予備を使い切った』
「千晴さんまで……」
『必要な物を報告しただけ』
「千晴さんが取りに行ってくれる、という選択肢は?」
『ない』
答えは一瞬だった。
「即答ですね」
『私は機関室から離れられない。蒸気圧、発電機、監視設備。全部一人で管理してる』
「それがなくても、外へ行きたくないでしょう?」
短い沈黙。
『……外は効率が悪い』
「普通に、外へ出たくないと言ってもいいんですよ」
『通信を切る』
「まだ切らないでください」
真帆は手帳へ視線を落とした。
シャンプー。
ボディソープ。
塩。
醤油。
潤滑油。
エンジンオイル。
どれも、今日すぐに尽きるわけではない。
だが、「まだ少しある」と先延ばしにしているうちに、本当に底をつく。
そして、必要になってから探しに行くのでは遅い。
「……分かりました」
真帆は手帳を閉じた。
「今日の昼前に出ます。日が高く、影の少ない時間を狙いましょう」
『本気?』
「千晴さんが代わりに行ってくれるなら、取りやめてもいいですよ」
『ルートを確認する』
やはり即答だった。
西村が呆れた顔をする。
「そこまで外へ出たくないのか」
『聞こえてる』
「聞こえるように言った」
通信の向こうで、千晴が小さく舌打ちした。
真帆は苦笑しながら、西村へ向き直る。
「優斗くんを呼んでください。準備ができ次第、出発します」
*
午前十一時。
崖道へ続く裏門の前に、装備を整えた真帆と優斗が立っていた。
真帆はいつもの緑色の着物ではなく、動きやすい藍色の作務衣に着替えている。
袖と裾を紐で絞り、足元には地下足袋。
腰には水筒と救急袋を提げ、手には六尺の神木棍を携えていた。
優斗も厚手の作業着の上へ革製の防具を巻き、背中には荷物を運ぶための大きな背負子を背負っている。
手にしているのは、先端へ鉄の穂先を取りつけた手製の槍だ。
「優斗くん、準備はいい?」
「はい。ちょっと……いや、かなり緊張してますけど」
優斗が乾いた喉を鳴らす。
無理もない。
裏山の点検とは違い、崖下の温泉街は文字通り、死者の巣窟だった。
何百という感染者が、音や匂いを求め、目的もなく町を彷徨っている。
「無理はしないこと」
真帆は優斗の目を見て、ゆっくりと言い聞かせた。
「目的は戦うことではありません。あくまで旅館の仕入れです。必要なものを確保したら、すぐに戻る。危険を感じたら、物資は置いていく。いいですね?」
「了解です」
優斗は指を折りながら確認する。
「シャンプー、ボディソープ、塩、醤油、潤滑油、エンジンオイル」
「よくできました」
「旅館の買い出しとは思えない品揃えですね」
「今の潮見亭には、全部必要なの」
見送りに来た西村が、小さな布包みを差し出した。
「腹が減っては動けん。途中で食え」
包みの中には、小ぶりな塩むすびが四つ入っていた。
貴重な塩を使いすぎないよう、味は少し薄めだ。
「無事に帰ってきたら、とびきりうまい夕飯にしてやる」
「ありがとうございます、西村さん」
真帆は包みを受け取り、腰の袋へ入れた。
「ゆずは、お留守番をお願いね」
「わふ」
ゆずは裏門の前へ賢そうに座り、尻尾を床へ打ちつける。
本当なら連れていきたいところだった。
ゆずの嗅覚は、ゾンビの接近を察知するうえで非常に頼りになる。
だが、感染者の数が多い温泉街では、犬の鳴き声一つが群れを呼ぶ危険もあった。
今回は潮見亭へ残し、門の周辺を見張ってもらう。
腰のトランシーバーから、千晴の声が流れた。
『ルートは昨日確認した通り。旧ロープウェイ乗り場の裏を通って、大通りは避けて』
「はい」
『問屋までの道には、生きてる監視カメラがいくつかある。でも、死角も多い。映像が途切れた場所では、二人の目と耳が頼り』
「分かりました」
『優斗』
「はい!」
『背負子へ積みすぎないで。重くて走れなくなったら、全部捨てること』
「でも、せっかく取りに行くのに……」
『物資より命の方が貴重。比較するまでもない』
千晴の声は淡々としていた。
だが、冗談や言い訳を挟む余地のない、強い言葉だった。
優斗は少し驚いたように目を瞬き、それから真剣に頷く。
「分かりました」
『真帆も』
「私はちゃんと分かっています」
『一番信用できない』
「ひどいですね」
『危険だと思ったら、すぐに戻って』
短い一言。
そこに千晴なりの心配が含まれていることを、真帆は知っていた。
「はい。行ってきます」
真帆は裏門の閂を外した。
分厚い扉を必要な幅だけ開け、優斗とともに薄暗い崖の階段を下りていく。
*
崖を下りきり、汐見崎温泉街へ足を踏み入れた瞬間。
空気の匂いが変わった。
潮見亭を包んでいた柔らかな温泉の香りは消え、代わりに埃と黴、それに鼻の奥へこびりつくような腐臭が漂っている。
かつて浴衣姿の観光客で賑わった石畳の道は、雑草に覆われていた。
雨に洗われても落ちなかった黒い染みが、あちこちに残っている。
土産物屋のショーウィンドウは割れ、店内には色褪せた『汐見崎まんじゅう』の箱が散乱していた。
射的屋の看板は斜めに傾き、風に揺れるたび、からからと乾いた音を立てている。
「……ひどいですね」
優斗は声を潜め、槍を構えたまま絶えず周囲へ目を配っていた。
「あの土産物屋、覚えてます」
割れた店先を見つめる。
「修学旅行のとき、妹にキーホルダーを買ったんです」
「そうだったんだ」
「その頃は……こんなことになるなんて、考えたこともありませんでした」
「そうだね……」
真帆も、崩れた店を見つめた。
三年前の、あの日。
町のどこかで突然、悲鳴が上がった。
噛みつかれた者が倒れ。
しばらくして、再び立ち上がり。
今度は、別の人間へ襲いかかった。
恐怖と混乱は、瞬く間に温泉街全体へ広がった。
真帆の両親――先代の主人と女将も、宿泊客を安全な場所へ逃がすため、町へ下りた。
そして、二度と潮見亭へ戻らなかった。
(お父さん、お母さん)
真帆は神木棍を握る手へ、静かに力を込めた。
(潮見亭は、私が守ってるからね)
二人は裏路地を縫うように進んだ。
途中、単独で徘徊するゾンビを何体か見かけたが、物陰へ身を潜め、通り過ぎるのを待つ。
目的は戦うことではない。
一体を倒せば、必ず音が出る。
音が出れば、別の個体が集まってくる。
この町では、敵に勝つことよりも、見つからないことの方が重要だった。
やがて、目的の建物が見えてきた。
温泉街の旅館や飲食店へ商品を卸していた、『丸山業務用問屋』。
搬入口の大きなシャッターは途中からひしゃげ、人が一人くぐれる程度の隙間が空いている。
「ここですね」
優斗が囁いた。
真帆は周囲を確認してから、声を落とす。
「中では私が入口を見張ります。優斗くんは必要な物を背負子へ詰めてください」
「はい」
「ライトは、足元と棚を確認するときだけ。長くつけないように」
「分かりました」
「少しでもおかしいと思ったら、すぐに中止します」
二人は地面へ身を伏せ、シャッターの隙間を順番にくぐった。
*
倉庫の中には、巨大なスチール棚が迷路のように並んでいた。
割れた高窓から、わずかな光が差し込んでいる。
空気は淀み、埃と湿気の臭いが満ちていた。
感染爆発の直後、人々が真っ先に奪い合ったのは食料と飲料水だった。
缶詰、レトルト食品、米、保存水。
そうした棚は、ほとんど空になっている。
だが、業務用の洗剤や調味料、機械用の油まで持ち出した者は少ない。
それらは、まだ残されている可能性が高かった。
優斗がペンライトを点灯し、細い光で棚を照らす。
「真帆さん、ありました」
抑えた声に、わずかな喜びが混じる。
「業務用シャンプーの十リットルタンクです。ボディソープもあります」
「よかった。塩と醤油は?」
「隣の列です。一升瓶が何本かと、未開封の塩袋も」
「全部は持てないから、軽いものを優先して」
「はい。エンジンオイルは……」
ライトの光が、倉庫の端を横切った。
「あそこです。車用品の棚があります」
優斗は必要な物を選び、背負子へ積んでいく。
シャンプーとボディソープは、一つずつ。
醤油は割れやすい一升瓶を避け、未開封の小型容器を選ぶ。
塩を二袋。
潤滑油と、指定されたエンジンオイル。
積むたびに縄で固く縛り、走っても落ちないように確認する。
真帆は入口付近に立ち、暗闇へ耳を澄ませていた。
外から聞こえるのは、風に揺れる看板の音だけ。
呻き声はない。
あまりにも順調だった。
(これで、しばらくは大丈夫)
真帆はわずかに肩の力を抜いた。
(いつお客様が来ても、きれいなお風呂へ案内できる)
そのとき。
――からん。
倉庫の奥で、空き缶が転がった。
真帆の全身が強張る。
優斗も作業の手を止め、暗闇を見つめた。
「……今の、何ですか」
「動かないで」
真帆は神木棍を構えた。
しばらく、何も聞こえない。
風か。
小動物か。
そう思いかけたとき。
「……ァァ……」
地を這うような呻き声が響いた。
一つではない。
いくつもの声が、暗闇の奥で重なっていく。
倉庫の最奥。
従業員用の休憩室らしき扉が、ゆっくりと開いた。
その隙間から、闇そのものが溢れ出すように人影が現れる。
「閉じ込められていたのね……」
真帆は神木棍を握り直した。
問屋の従業員だったのだろう。
汚れた作業着をまとったゾンビたちが、生きた人間の匂いに反応し、一斉に首を向ける。
十体以上。
暗い室内へ閉じ込められていたためか、屋外の個体ほど乾燥していない。
腐った皮膚には湿り気が残り、体を動かすたび、黒ずんだ液体が床へ滴り落ちた。
「アアアアアッ!」
一体が大きく口を開ける。
それを合図に、群れ全体が動き始めた。
狭い棚の間へ、互いを押しのけるように殺到してくる。
「優斗くん、背負子を背負って!」
「はい!」
「すぐに出ます!」
優斗が背負子を持ち上げた瞬間。
先頭の一体が棚へ肩をぶつけながら、真帆へ飛びかかってきた。
真帆が前へ出る。
だが、スチール棚が密集した倉庫内では、六尺の棍を大きく振り回せない。
(振れないなら、短く使う)
真帆は棍の中央を握り、先端を鋭く突き出した。
ごっ。
棍がゾンビの顔面を捉え、鼻骨を砕く。
それでも止まらない。
真帆は半歩踏み込み、棍の反対側で膝の裏を払った。
足を取られたゾンビが、床へ前のめりに倒れる。
倒しきる必要はない。
通路を塞がせれば、それでいい。
「真帆さん、右!」
優斗の声が飛ぶ。
別の通路から、一体が回り込んできた。
「させない!」
優斗が槍を突き出す。
鉄の穂先がゾンビの胸へ深く突き刺さった。
「やった……!」
「まだです!」
真帆が叫ぶ。
心臓を貫かれても、ゾンビは止まらない。
胸に槍を刺したまま前進し、優斗へ腐った腕を伸ばす。
「うわっ!?」
優斗が恐怖に固まった。
真帆は横から滑り込み、ゾンビの腕へ棍を叩きつける。
手首が不自然な方向へ折れ曲がった。
「優斗くん、槍を放して!」
「でも!」
「出口へ走って! 荷物を先に外へ!」
優斗は一瞬だけ迷った。
「早く!」
真帆の強い声に押され、槍から手を離す。
重い背負子を揺らしながら、シャッターへ向かって走り出した。
真帆は一人、狭い通路へ残る。
迫る群れ。
逃げ場の少ない空間。
数では圧倒的に不利だった。
伸びてきた汚れた爪が、作務衣の袖を掠める。
びりっ、と布が裂けた。
(優斗くんが外へ出るまで)
真帆は棍を縦に構えた。
(あと十秒だけ、ここを塞ぐ)
倒すのではない。
近づけさせなければいい。
喉元を突く。
胸を押す。
脚を払う。
一体を後続へ押しつけ、群れの流れを詰まらせる。
背後で、優斗がシャッターをくぐる音がした。
「真帆さん、出ました!」
「分かりました!」
真帆は目の前のゾンビを、渾身の力で突き飛ばした。
倒れた体がスチール棚へぶつかる。
棚が大きく揺れた。
真帆はその隙間へ神木棍を差し込み、梃子のように全体重をかける。
「はあっ!」
がしゃんっ!
激しい音を立て、棚が通路へ倒れ込んだ。
積まれていた箱や空き容器が一斉に崩れ、押し寄せていたゾンビの群れを塞ぐ。
「今!」
真帆は身を翻し、シャッターへ向かって走った。
地面へ身を滑らせる。
狭い隙間をくぐり抜けた、その直後。
背後から伸びた手が、真帆の地下足袋へ触れかけた。
「真帆さん!」
優斗が腕を掴み、力任せに引き上げる。
二人は路地へ転がり出た。
「優斗くん、怪我は?」
「ありません!」
「噛まれてない?」
「大丈夫です! でも……」
優斗は青ざめた顔で、路地の奥を指差した。
「音が大きすぎました」
倉庫の棚が倒れた音を聞きつけ、周辺の路地から新たなゾンビが姿を現していた。
一体。
二体。
さらに、その後ろからも続いてくる。
濁った目が、真帆たちへ向けられた。
崖へ続く階段までは、まだ距離がある。
背負子を背負った優斗では、走る速度も落ちる。
「優斗くん」
真帆は神木棍を構え直した。
「荷物を捨ててください」
「でも!」
「命の方が大事です」
それは、出発前に千晴が言った言葉だった。
優斗は悔しそうに歯を食いしばる。
背負子の紐へ手を掛けた、その瞬間。
――プァアアアアアアン!
温泉街全体を震わせるような、けたたましいサイレンが鳴り響いた。
音の出所は、はるか頭上。
崖の上に建つ潮見亭だった。
腰のトランシーバーから、千晴の声が飛び込んでくる。
『何してるの! 早く走って!』
「千晴さん!?」
『非常用サイレンを最大出力で鳴らしてる。ゾンビの注意はこっちへ向く。音が止まる前に崖まで戻って!』
「でも、潮見亭へ集まってしまいます!」
『崖は簡単には登れない。門前まで来た個体は蒸気で止める』
千晴の言葉は早かった。
普段の冷静さを保とうとしている。
だが、焦りまでは隠しきれていなかった。
『今は、自分たちの心配をして!』
サイレンへ反応し、ゾンビたちが一斉に動きを止めた。
真帆たちから視線を外し、音の鳴る崖の方角へ顔を向ける。
やがて、引き寄せられるように進路を変え始めた。
包囲の一部が開く。
「優斗くん、走って!」
「はい!」
二人は石畳を蹴った。
優斗は重い背負子を揺らしながら、必死に足を動かす。
真帆はすぐ後ろにつき、近づいてくる個体を神木棍で押し退ける。
路地を抜け、崖の階段へ飛び込んだ。
一段。
また一段。
急な石段を駆け上がる。
肺が焼けるように痛い。
脚の筋肉が悲鳴を上げる。
背後からはサイレンに混じり、無数の呻き声が追いすがってきた。
『あと半分』
トランシーバーから千晴の声がする。
『次の角を曲がれば、裏門が見える』
「見えてるんですか?」
真帆が息を切らしながら尋ねる。
『崖道のカメラは生きてる』
「ずっと見てたんですね」
『当然でしょ』
返事は、いつも通りぶっきらぼうだった。
けれど、カメラの死角へ二人の姿が消えるたび、千晴がどれほど不安だったのか。
真帆には、何となく分かった。
「あと少し……門が見えました!」
優斗が叫ぶ。
崖の上では裏門が開かれ、西村が身を乗り出している。
足元では、ゆずが激しく吠えていた。
「早く入れ!」
真帆と優斗は、転がり込むように門をくぐった。
西村が分厚い扉を閉め、太い閂を下ろす。
一本目。
二本目。
三本目。
直後、扉の向こうで何かがぶつかった。
どんっ。
どんっ。
わずかに遅れて追ってきたゾンビが、門を叩いている。
だが、鉄板と木材で補強された扉は、びくともしなかった。
やがて、サイレンが止まる。
その場に残ったのは、二人の荒い呼吸と、遠くで流れる温泉の音だけだった。
「……はあ、はあ……」
真帆は地面へ仰向けに倒れ、空を見上げた。
青く澄んだ空。
頬を撫でる潮風。
潮見亭の、柔らかな硫黄の香り。
「……生きてる」
優斗も背負子を下ろし、その場へ大の字になった。
「俺たち……帰ってこられました」
「馬鹿野郎。無茶しやがって」
西村が二人へ水筒を差し出す。
叱る声には、隠しきれない安堵が滲んでいた。
真帆が水筒を受け取ったとき、裏門脇のスピーカーが鳴る。
『真帆』
「はい」
『右の袖が破れてる』
真帆は腕を見る。
作務衣の袖が、大きく裂けていた。
「爪が布へ引っかかっただけです。肌には届いてません」
『本当に?』
「本当です」
『優斗は?』
「俺も無傷です!」
『……そう』
通信の向こうから、千晴が短く息を吐く音が聞こえた。
『二人とも、すぐに着替えて。手と顔を洗って、傷がないか全身を確認。持ち帰った物資も、外側を消毒してから中へ入れて』
「分かりました」
『それと』
「何ですか?」
『次からは、危険だと思った時点で戻って。シャンプーも醤油も、命より大事じゃない』
「心配してくれたんですか?」
『違う』
即答だった。
『二人が動けなくなったら、私の仕事が増えるだけ』
「はいはい」
『その返事、信用できない』
通信が切れた。
真帆は思わず笑う。
「千晴さん、ものすごく心配してましたね」
優斗が小声で囁いた。
「聞かれたら怒られるよ」
「もう切れてますよね?」
スピーカーが、ぶつっと鳴った。
『聞こえてる』
「すみません!」
*
その日の夕方。
潮見亭の厨房は、いつにも増して活気に満ちていた。
「ほら、食え。命懸けの仕入れの成果だ」
従業員用の食卓に並んだのは、白身魚の煮つけ、塩むすび、澄まし汁。
それに、残っていた野菜を使った小さな和え物だった。
優斗が煮つけを口へ運び、目を丸くする。
「……うまっ! 西村さん、これ、めちゃくちゃおいしいです!」
「当たり前だ。お前たちが持ち帰った醤油を使ってるからな。香りが違う」
真帆も澄まし汁を口へ運んだ。
舌へ広がる、ほどよい塩気。
出汁の深い旨味。
温かな汁が、疲れ切った体へゆっくりと染み込んでいく。
たった一匙の塩。
たった一滴の醤油。
それだけのものが、これほど人の心を満たすとは。
世界が壊れる前には、考えたこともなかった。
「千晴さんも呼びませんか?」
優斗が、機関室の方角を見る。
「どうせ、機関室へ持ってこいと言う」
西村が答えた。
直後、内線スピーカーが鳴る。
『その通り。夕食は機関室へお願い』
「千晴さん。たまには、こちらで一緒に食べませんか?」
真帆が呼びかける。
『行かない』
「みんなで食べた方がおいしいですよ」
『機関室を空けられない』
「さっきから、数値は安定してるでしょう?」
沈黙。
「本当は、機関室から出たくないだけですよね?」
『……発電機の確認がある』
ぶつり、と通信が切れる。
「逃げましたね」
「逃げたな」
西村が頷く。
「あとで持っていってあげましょう」
「甘やかすな」
「でも、今日は助けてもらいましたから」
真帆は煮つけの皿を見る。
「一番大きな切り身をお願いします」
「仕方ねえな」
西村は文句を言いながらも、千晴の膳へ一番大きな魚を載せた。
*
食後。
真帆は大浴場へ向かった。
持ち帰ったシャンプーとボディソープのタンクを開け、洗い場へ並べた容器へ中身を注いでいく。
とろりとした液体が、空になりかけていたボトルを少しずつ満たしていく。
やがて浴場には、柔らかな花の香りが広がった。
崖下の町へ満ちていた腐臭や埃とは無縁の、清潔で、人間らしい暮らしの匂いだった。
「……よし。完璧」
真帆は、向きまできれいに揃えたボトルを満足そうに眺める。
最後に湯船へ手を入れ、温度を確かめた。
四十二度。
体の芯まで温まる、極上の潮見の湯だ。
そのとき、壁の内線が鳴った。
『真帆』
「千晴さん。どうしました?」
『エンジンオイル、規格も状態も問題なかった。発電機の回転音も安定した』
「それはよかったです」
『……助かった』
短い一言だった。
真帆は、少しだけ目を見開いた。
千晴が自分から礼を言うことは珍しい。
「どういたしまして」
『でも、次からは無茶しないで』
「善処します」
『善処じゃなくて、守って』
「はい」
『本当に?』
「本当です」
真帆は笑った。
「千晴さんの夕食、食事処に置いてありますよ」
『持ってきて』
「たまには自分で取りに来てください」
『遠い』
「廊下を歩いて二分です」
『遠い』
「仕方ないですね」
通信の向こうから、ほんのわずかに息を漏らす音が聞こえた。
もしかすると、笑ったのかもしれない。
けれど尋ねれば、必ず否定するだろう。
「潮見亭、本日の仕入れも無事完了です」
真帆は、誰に聞かせるでもなく小さく口上を述べた。
外の世界がどれほど狂い、どれほど朽ち果てようとも。
この宿の中だけは、清潔で、温かく、おいしい食事が待っている場所でありたい。
いつか訪れる誰かのために、最高のおもてなしを絶やさない。
そして、今この場所で生きている仲間たちにも、少しでも人間らしい暮らしを届ける。
それが、若女将・湊真帆の戦いであり。
同時に、祈りでもあった。




