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第三話 死の街への買い出しと、色褪せないおもてなし

 潮見亭の地下にある備品倉庫は、一年を通してひんやりとしている。


 壁際に並んだ棚には、客室用の浴衣や真新しいシーツ、歯ブラシ、石鹸といった各種アメニティ、それに掃除道具が種類ごとに整然と収められていた。


 真帆は首から下げた小さな手帳を開き、棚の在庫と照らし合わせながら、鉛筆で一つずつ印をつけていく。


「客室用歯ブラシ、残り三箱。固形石鹸、二箱。浴衣の替え紐は……まだ大丈夫」


 紙面へ数字を書き込みながら、倉庫の奥へ進む。


 そこで、業務用の大型プラスチックタンクへ目を留めた。


 大浴場と露天風呂に置いてある、シャンプーとボディソープの詰め替え用だ。


 真帆はシャンプーのタンクを両手で持ち上げた。


 ちゃぷん。


 底の方で、いかにも心細い音がした。


「……あと少ししかない」


 眉を寄せ、タンクを床へ戻す。


 客が来ていないからといって、空のボトルを浴場へ並べておくわけにはいかない。


 いつ誰が暖簾をくぐっても、すぐに温かな湯へ案内できるようにしておく。


 それが潮見亭の決まりだった。


 どれほど泉質のよい温泉でも、髪や体を洗うものすらないのでは、心からくつろいでもらうことはできない。


「真帆ちゃーん、いるか」


 階段の上から、重い足音とともに西村の声が聞こえてきた。


「いますよ」


 真帆が返事をすると、西村が倉庫へ顔を出した。


 片手には、空になった大きな醤油瓶。


 もう片方には、底が見え始めた塩の壺を抱えている。


「西村さんも、在庫切れですか?」


「ああ。昆布と乾物は蔵にまだ残ってるが、肝心の塩と醤油が心許ない」


 西村は空の瓶を軽く振る。


「味のしない飯を出すくらいなら、料理人を辞めた方がましだ。そろそろ仕入れに行けないか」


「仕入れ……」


 その言葉に、真帆は小さく息を吐いた。


 かつてなら、電話一本で問屋へ注文を入れれば済んだ。


 だが、文明が崩壊した今、仕入れという言葉の意味はまるで違う。


 崖を下りる。


 死者が徘徊する汐見崎温泉街へ入り、放置された店や倉庫から必要な物資を回収して持ち帰る。


 それが、現在の潮見亭における仕入れだった。


 ぶつっ。


 壁際の内線スピーカーが、短いノイズを吐いた。


『話は聞こえてる』


 少し低く、ぶっきらぼうな女の声が倉庫へ響く。


 機関室にこもる技術者、古賀千晴だ。


『下へ行くなら、機関室用の潤滑油も探して。あと、五W―三〇のエンジンオイル。この前の蒸気トラップで予備を使い切った』


「千晴さんまで……」


『必要な物を報告しただけ』


「千晴さんが取りに行ってくれる、という選択肢は?」


『ない』


 答えは一瞬だった。


「即答ですね」


『私は機関室から離れられない。蒸気圧、発電機、監視設備。全部一人で管理してる』


「それがなくても、外へ行きたくないでしょう?」


 短い沈黙。


『……外は効率が悪い』


「普通に、外へ出たくないと言ってもいいんですよ」


『通信を切る』


「まだ切らないでください」


 真帆は手帳へ視線を落とした。


 シャンプー。


 ボディソープ。


 塩。


 醤油。


 潤滑油。


 エンジンオイル。


 どれも、今日すぐに尽きるわけではない。


 だが、「まだ少しある」と先延ばしにしているうちに、本当に底をつく。


 そして、必要になってから探しに行くのでは遅い。


「……分かりました」


 真帆は手帳を閉じた。


「今日の昼前に出ます。日が高く、影の少ない時間を狙いましょう」


『本気?』


「千晴さんが代わりに行ってくれるなら、取りやめてもいいですよ」


『ルートを確認する』


 やはり即答だった。


 西村が呆れた顔をする。


「そこまで外へ出たくないのか」


『聞こえてる』


「聞こえるように言った」


 通信の向こうで、千晴が小さく舌打ちした。


 真帆は苦笑しながら、西村へ向き直る。


「優斗くんを呼んでください。準備ができ次第、出発します」


     *


 午前十一時。


 崖道へ続く裏門の前に、装備を整えた真帆と優斗が立っていた。


 真帆はいつもの緑色の着物ではなく、動きやすい藍色の作務衣に着替えている。


 袖と裾を紐で絞り、足元には地下足袋。


 腰には水筒と救急袋を提げ、手には六尺の神木棍を携えていた。


 優斗も厚手の作業着の上へ革製の防具を巻き、背中には荷物を運ぶための大きな背負子を背負っている。


 手にしているのは、先端へ鉄の穂先を取りつけた手製の槍だ。


「優斗くん、準備はいい?」


「はい。ちょっと……いや、かなり緊張してますけど」


 優斗が乾いた喉を鳴らす。


 無理もない。


 裏山の点検とは違い、崖下の温泉街は文字通り、死者の巣窟だった。


 何百という感染者が、音や匂いを求め、目的もなく町を彷徨っている。


「無理はしないこと」


 真帆は優斗の目を見て、ゆっくりと言い聞かせた。


「目的は戦うことではありません。あくまで旅館の仕入れです。必要なものを確保したら、すぐに戻る。危険を感じたら、物資は置いていく。いいですね?」


「了解です」


 優斗は指を折りながら確認する。


「シャンプー、ボディソープ、塩、醤油、潤滑油、エンジンオイル」


「よくできました」


「旅館の買い出しとは思えない品揃えですね」


「今の潮見亭には、全部必要なの」


 見送りに来た西村が、小さな布包みを差し出した。


「腹が減っては動けん。途中で食え」


 包みの中には、小ぶりな塩むすびが四つ入っていた。


 貴重な塩を使いすぎないよう、味は少し薄めだ。


「無事に帰ってきたら、とびきりうまい夕飯にしてやる」


「ありがとうございます、西村さん」


 真帆は包みを受け取り、腰の袋へ入れた。


「ゆずは、お留守番をお願いね」


「わふ」


 ゆずは裏門の前へ賢そうに座り、尻尾を床へ打ちつける。


 本当なら連れていきたいところだった。


 ゆずの嗅覚は、ゾンビの接近を察知するうえで非常に頼りになる。


 だが、感染者の数が多い温泉街では、犬の鳴き声一つが群れを呼ぶ危険もあった。


 今回は潮見亭へ残し、門の周辺を見張ってもらう。


 腰のトランシーバーから、千晴の声が流れた。


『ルートは昨日確認した通り。旧ロープウェイ乗り場の裏を通って、大通りは避けて』


「はい」


『問屋までの道には、生きてる監視カメラがいくつかある。でも、死角も多い。映像が途切れた場所では、二人の目と耳が頼り』


「分かりました」


『優斗』


「はい!」


『背負子へ積みすぎないで。重くて走れなくなったら、全部捨てること』


「でも、せっかく取りに行くのに……」


『物資より命の方が貴重。比較するまでもない』


 千晴の声は淡々としていた。


 だが、冗談や言い訳を挟む余地のない、強い言葉だった。


 優斗は少し驚いたように目を瞬き、それから真剣に頷く。


「分かりました」


『真帆も』


「私はちゃんと分かっています」


『一番信用できない』


「ひどいですね」


『危険だと思ったら、すぐに戻って』


 短い一言。


 そこに千晴なりの心配が含まれていることを、真帆は知っていた。


「はい。行ってきます」


 真帆は裏門の閂を外した。


 分厚い扉を必要な幅だけ開け、優斗とともに薄暗い崖の階段を下りていく。


     *


 崖を下りきり、汐見崎温泉街へ足を踏み入れた瞬間。


 空気の匂いが変わった。


 潮見亭を包んでいた柔らかな温泉の香りは消え、代わりに埃と黴、それに鼻の奥へこびりつくような腐臭が漂っている。


 かつて浴衣姿の観光客で賑わった石畳の道は、雑草に覆われていた。


 雨に洗われても落ちなかった黒い染みが、あちこちに残っている。


 土産物屋のショーウィンドウは割れ、店内には色褪せた『汐見崎まんじゅう』の箱が散乱していた。


 射的屋の看板は斜めに傾き、風に揺れるたび、からからと乾いた音を立てている。


「……ひどいですね」


 優斗は声を潜め、槍を構えたまま絶えず周囲へ目を配っていた。


「あの土産物屋、覚えてます」


 割れた店先を見つめる。


「修学旅行のとき、妹にキーホルダーを買ったんです」


「そうだったんだ」


「その頃は……こんなことになるなんて、考えたこともありませんでした」


「そうだね……」


 真帆も、崩れた店を見つめた。


 三年前の、あの日。


 町のどこかで突然、悲鳴が上がった。


 噛みつかれた者が倒れ。


 しばらくして、再び立ち上がり。


 今度は、別の人間へ襲いかかった。


 恐怖と混乱は、瞬く間に温泉街全体へ広がった。


 真帆の両親――先代の主人と女将も、宿泊客を安全な場所へ逃がすため、町へ下りた。


 そして、二度と潮見亭へ戻らなかった。


(お父さん、お母さん)


 真帆は神木棍を握る手へ、静かに力を込めた。


(潮見亭は、私が守ってるからね)


 二人は裏路地を縫うように進んだ。


 途中、単独で徘徊するゾンビを何体か見かけたが、物陰へ身を潜め、通り過ぎるのを待つ。


 目的は戦うことではない。


 一体を倒せば、必ず音が出る。


 音が出れば、別の個体が集まってくる。


 この町では、敵に勝つことよりも、見つからないことの方が重要だった。


 やがて、目的の建物が見えてきた。


 温泉街の旅館や飲食店へ商品を卸していた、『丸山業務用問屋』。


 搬入口の大きなシャッターは途中からひしゃげ、人が一人くぐれる程度の隙間が空いている。


「ここですね」


 優斗が囁いた。


 真帆は周囲を確認してから、声を落とす。


「中では私が入口を見張ります。優斗くんは必要な物を背負子へ詰めてください」


「はい」


「ライトは、足元と棚を確認するときだけ。長くつけないように」


「分かりました」


「少しでもおかしいと思ったら、すぐに中止します」


 二人は地面へ身を伏せ、シャッターの隙間を順番にくぐった。


     *


 倉庫の中には、巨大なスチール棚が迷路のように並んでいた。


 割れた高窓から、わずかな光が差し込んでいる。


 空気は淀み、埃と湿気の臭いが満ちていた。


 感染爆発の直後、人々が真っ先に奪い合ったのは食料と飲料水だった。


 缶詰、レトルト食品、米、保存水。


 そうした棚は、ほとんど空になっている。


 だが、業務用の洗剤や調味料、機械用の油まで持ち出した者は少ない。


 それらは、まだ残されている可能性が高かった。


 優斗がペンライトを点灯し、細い光で棚を照らす。


「真帆さん、ありました」


 抑えた声に、わずかな喜びが混じる。


「業務用シャンプーの十リットルタンクです。ボディソープもあります」


「よかった。塩と醤油は?」


「隣の列です。一升瓶が何本かと、未開封の塩袋も」


「全部は持てないから、軽いものを優先して」


「はい。エンジンオイルは……」


 ライトの光が、倉庫の端を横切った。


「あそこです。車用品の棚があります」


 優斗は必要な物を選び、背負子へ積んでいく。


 シャンプーとボディソープは、一つずつ。


 醤油は割れやすい一升瓶を避け、未開封の小型容器を選ぶ。


 塩を二袋。


 潤滑油と、指定されたエンジンオイル。


 積むたびに縄で固く縛り、走っても落ちないように確認する。


 真帆は入口付近に立ち、暗闇へ耳を澄ませていた。


 外から聞こえるのは、風に揺れる看板の音だけ。


 呻き声はない。


 あまりにも順調だった。


(これで、しばらくは大丈夫)


 真帆はわずかに肩の力を抜いた。


(いつお客様が来ても、きれいなお風呂へ案内できる)


 そのとき。


 ――からん。


 倉庫の奥で、空き缶が転がった。


 真帆の全身が強張る。


 優斗も作業の手を止め、暗闇を見つめた。


「……今の、何ですか」


「動かないで」


 真帆は神木棍を構えた。


 しばらく、何も聞こえない。


 風か。


 小動物か。


 そう思いかけたとき。


「……ァァ……」


 地を這うような呻き声が響いた。


 一つではない。


 いくつもの声が、暗闇の奥で重なっていく。


 倉庫の最奥。


 従業員用の休憩室らしき扉が、ゆっくりと開いた。


 その隙間から、闇そのものが溢れ出すように人影が現れる。


「閉じ込められていたのね……」


 真帆は神木棍を握り直した。


 問屋の従業員だったのだろう。


 汚れた作業着をまとったゾンビたちが、生きた人間の匂いに反応し、一斉に首を向ける。


 十体以上。


 暗い室内へ閉じ込められていたためか、屋外の個体ほど乾燥していない。


 腐った皮膚には湿り気が残り、体を動かすたび、黒ずんだ液体が床へ滴り落ちた。


「アアアアアッ!」


 一体が大きく口を開ける。


 それを合図に、群れ全体が動き始めた。


 狭い棚の間へ、互いを押しのけるように殺到してくる。


「優斗くん、背負子を背負って!」


「はい!」


「すぐに出ます!」


 優斗が背負子を持ち上げた瞬間。


 先頭の一体が棚へ肩をぶつけながら、真帆へ飛びかかってきた。


 真帆が前へ出る。


 だが、スチール棚が密集した倉庫内では、六尺の棍を大きく振り回せない。


(振れないなら、短く使う)


 真帆は棍の中央を握り、先端を鋭く突き出した。


 ごっ。


 棍がゾンビの顔面を捉え、鼻骨を砕く。


 それでも止まらない。


 真帆は半歩踏み込み、棍の反対側で膝の裏を払った。


 足を取られたゾンビが、床へ前のめりに倒れる。


 倒しきる必要はない。


 通路を塞がせれば、それでいい。


「真帆さん、右!」


 優斗の声が飛ぶ。


 別の通路から、一体が回り込んできた。


「させない!」


 優斗が槍を突き出す。


 鉄の穂先がゾンビの胸へ深く突き刺さった。


「やった……!」


「まだです!」


 真帆が叫ぶ。


 心臓を貫かれても、ゾンビは止まらない。


 胸に槍を刺したまま前進し、優斗へ腐った腕を伸ばす。


「うわっ!?」


 優斗が恐怖に固まった。


 真帆は横から滑り込み、ゾンビの腕へ棍を叩きつける。


 手首が不自然な方向へ折れ曲がった。


「優斗くん、槍を放して!」


「でも!」


「出口へ走って! 荷物を先に外へ!」


 優斗は一瞬だけ迷った。


「早く!」


 真帆の強い声に押され、槍から手を離す。


 重い背負子を揺らしながら、シャッターへ向かって走り出した。


 真帆は一人、狭い通路へ残る。


 迫る群れ。


 逃げ場の少ない空間。


 数では圧倒的に不利だった。


 伸びてきた汚れた爪が、作務衣の袖を掠める。


 びりっ、と布が裂けた。


(優斗くんが外へ出るまで)


 真帆は棍を縦に構えた。


(あと十秒だけ、ここを塞ぐ)


 倒すのではない。


 近づけさせなければいい。


 喉元を突く。


 胸を押す。


 脚を払う。


 一体を後続へ押しつけ、群れの流れを詰まらせる。


 背後で、優斗がシャッターをくぐる音がした。


「真帆さん、出ました!」


「分かりました!」


 真帆は目の前のゾンビを、渾身の力で突き飛ばした。


 倒れた体がスチール棚へぶつかる。


 棚が大きく揺れた。


 真帆はその隙間へ神木棍を差し込み、梃子のように全体重をかける。


「はあっ!」


 がしゃんっ!


 激しい音を立て、棚が通路へ倒れ込んだ。


 積まれていた箱や空き容器が一斉に崩れ、押し寄せていたゾンビの群れを塞ぐ。


「今!」


 真帆は身を翻し、シャッターへ向かって走った。


 地面へ身を滑らせる。


 狭い隙間をくぐり抜けた、その直後。


 背後から伸びた手が、真帆の地下足袋へ触れかけた。


「真帆さん!」


 優斗が腕を掴み、力任せに引き上げる。


 二人は路地へ転がり出た。


「優斗くん、怪我は?」


「ありません!」


「噛まれてない?」


「大丈夫です! でも……」


 優斗は青ざめた顔で、路地の奥を指差した。


「音が大きすぎました」


 倉庫の棚が倒れた音を聞きつけ、周辺の路地から新たなゾンビが姿を現していた。


 一体。


 二体。


 さらに、その後ろからも続いてくる。


 濁った目が、真帆たちへ向けられた。


 崖へ続く階段までは、まだ距離がある。


 背負子を背負った優斗では、走る速度も落ちる。


「優斗くん」


 真帆は神木棍を構え直した。


「荷物を捨ててください」


「でも!」


「命の方が大事です」


 それは、出発前に千晴が言った言葉だった。


 優斗は悔しそうに歯を食いしばる。


 背負子の紐へ手を掛けた、その瞬間。


 ――プァアアアアアアン!


 温泉街全体を震わせるような、けたたましいサイレンが鳴り響いた。


 音の出所は、はるか頭上。


 崖の上に建つ潮見亭だった。


 腰のトランシーバーから、千晴の声が飛び込んでくる。


『何してるの! 早く走って!』


「千晴さん!?」


『非常用サイレンを最大出力で鳴らしてる。ゾンビの注意はこっちへ向く。音が止まる前に崖まで戻って!』


「でも、潮見亭へ集まってしまいます!」


『崖は簡単には登れない。門前まで来た個体は蒸気で止める』


 千晴の言葉は早かった。


 普段の冷静さを保とうとしている。


 だが、焦りまでは隠しきれていなかった。


『今は、自分たちの心配をして!』


 サイレンへ反応し、ゾンビたちが一斉に動きを止めた。


 真帆たちから視線を外し、音の鳴る崖の方角へ顔を向ける。


 やがて、引き寄せられるように進路を変え始めた。


 包囲の一部が開く。


「優斗くん、走って!」


「はい!」


 二人は石畳を蹴った。


 優斗は重い背負子を揺らしながら、必死に足を動かす。


 真帆はすぐ後ろにつき、近づいてくる個体を神木棍で押し退ける。


 路地を抜け、崖の階段へ飛び込んだ。


 一段。


 また一段。


 急な石段を駆け上がる。


 肺が焼けるように痛い。


 脚の筋肉が悲鳴を上げる。


 背後からはサイレンに混じり、無数の呻き声が追いすがってきた。


『あと半分』


 トランシーバーから千晴の声がする。


『次の角を曲がれば、裏門が見える』


「見えてるんですか?」


 真帆が息を切らしながら尋ねる。


『崖道のカメラは生きてる』


「ずっと見てたんですね」


『当然でしょ』


 返事は、いつも通りぶっきらぼうだった。


 けれど、カメラの死角へ二人の姿が消えるたび、千晴がどれほど不安だったのか。


 真帆には、何となく分かった。


「あと少し……門が見えました!」


 優斗が叫ぶ。


 崖の上では裏門が開かれ、西村が身を乗り出している。


 足元では、ゆずが激しく吠えていた。


「早く入れ!」


 真帆と優斗は、転がり込むように門をくぐった。


 西村が分厚い扉を閉め、太い閂を下ろす。


 一本目。


 二本目。


 三本目。


 直後、扉の向こうで何かがぶつかった。


 どんっ。


 どんっ。


 わずかに遅れて追ってきたゾンビが、門を叩いている。


 だが、鉄板と木材で補強された扉は、びくともしなかった。


 やがて、サイレンが止まる。


 その場に残ったのは、二人の荒い呼吸と、遠くで流れる温泉の音だけだった。


「……はあ、はあ……」


 真帆は地面へ仰向けに倒れ、空を見上げた。


 青く澄んだ空。


 頬を撫でる潮風。


 潮見亭の、柔らかな硫黄の香り。


「……生きてる」


 優斗も背負子を下ろし、その場へ大の字になった。


「俺たち……帰ってこられました」


「馬鹿野郎。無茶しやがって」


 西村が二人へ水筒を差し出す。


 叱る声には、隠しきれない安堵が滲んでいた。


 真帆が水筒を受け取ったとき、裏門脇のスピーカーが鳴る。


『真帆』


「はい」


『右の袖が破れてる』


 真帆は腕を見る。


 作務衣の袖が、大きく裂けていた。


「爪が布へ引っかかっただけです。肌には届いてません」


『本当に?』


「本当です」


『優斗は?』


「俺も無傷です!」


『……そう』


 通信の向こうから、千晴が短く息を吐く音が聞こえた。


『二人とも、すぐに着替えて。手と顔を洗って、傷がないか全身を確認。持ち帰った物資も、外側を消毒してから中へ入れて』


「分かりました」


『それと』


「何ですか?」


『次からは、危険だと思った時点で戻って。シャンプーも醤油も、命より大事じゃない』


「心配してくれたんですか?」


『違う』


 即答だった。


『二人が動けなくなったら、私の仕事が増えるだけ』


「はいはい」


『その返事、信用できない』


 通信が切れた。


 真帆は思わず笑う。


「千晴さん、ものすごく心配してましたね」


 優斗が小声で囁いた。


「聞かれたら怒られるよ」


「もう切れてますよね?」


 スピーカーが、ぶつっと鳴った。


『聞こえてる』


「すみません!」


     *


 その日の夕方。


 潮見亭の厨房は、いつにも増して活気に満ちていた。


「ほら、食え。命懸けの仕入れの成果だ」


 従業員用の食卓に並んだのは、白身魚の煮つけ、塩むすび、澄まし汁。


 それに、残っていた野菜を使った小さな和え物だった。


 優斗が煮つけを口へ運び、目を丸くする。


「……うまっ! 西村さん、これ、めちゃくちゃおいしいです!」


「当たり前だ。お前たちが持ち帰った醤油を使ってるからな。香りが違う」


 真帆も澄まし汁を口へ運んだ。


 舌へ広がる、ほどよい塩気。


 出汁の深い旨味。


 温かな汁が、疲れ切った体へゆっくりと染み込んでいく。


 たった一匙の塩。


 たった一滴の醤油。


 それだけのものが、これほど人の心を満たすとは。


 世界が壊れる前には、考えたこともなかった。


「千晴さんも呼びませんか?」


 優斗が、機関室の方角を見る。


「どうせ、機関室へ持ってこいと言う」


 西村が答えた。


 直後、内線スピーカーが鳴る。


『その通り。夕食は機関室へお願い』


「千晴さん。たまには、こちらで一緒に食べませんか?」


 真帆が呼びかける。


『行かない』


「みんなで食べた方がおいしいですよ」


『機関室を空けられない』


「さっきから、数値は安定してるでしょう?」


 沈黙。


「本当は、機関室から出たくないだけですよね?」


『……発電機の確認がある』


 ぶつり、と通信が切れる。


「逃げましたね」


「逃げたな」


 西村が頷く。


「あとで持っていってあげましょう」


「甘やかすな」


「でも、今日は助けてもらいましたから」


 真帆は煮つけの皿を見る。


「一番大きな切り身をお願いします」


「仕方ねえな」


 西村は文句を言いながらも、千晴の膳へ一番大きな魚を載せた。


     *


 食後。


 真帆は大浴場へ向かった。


 持ち帰ったシャンプーとボディソープのタンクを開け、洗い場へ並べた容器へ中身を注いでいく。


 とろりとした液体が、空になりかけていたボトルを少しずつ満たしていく。


 やがて浴場には、柔らかな花の香りが広がった。


 崖下の町へ満ちていた腐臭や埃とは無縁の、清潔で、人間らしい暮らしの匂いだった。


「……よし。完璧」


 真帆は、向きまできれいに揃えたボトルを満足そうに眺める。


 最後に湯船へ手を入れ、温度を確かめた。


 四十二度。


 体の芯まで温まる、極上の潮見の湯だ。


 そのとき、壁の内線が鳴った。


『真帆』


「千晴さん。どうしました?」


『エンジンオイル、規格も状態も問題なかった。発電機の回転音も安定した』


「それはよかったです」


『……助かった』


 短い一言だった。


 真帆は、少しだけ目を見開いた。


 千晴が自分から礼を言うことは珍しい。


「どういたしまして」


『でも、次からは無茶しないで』


「善処します」


『善処じゃなくて、守って』


「はい」


『本当に?』


「本当です」


 真帆は笑った。


「千晴さんの夕食、食事処に置いてありますよ」


『持ってきて』


「たまには自分で取りに来てください」


『遠い』


「廊下を歩いて二分です」


『遠い』


「仕方ないですね」


 通信の向こうから、ほんのわずかに息を漏らす音が聞こえた。


 もしかすると、笑ったのかもしれない。


 けれど尋ねれば、必ず否定するだろう。


「潮見亭、本日の仕入れも無事完了です」


 真帆は、誰に聞かせるでもなく小さく口上を述べた。


 外の世界がどれほど狂い、どれほど朽ち果てようとも。


 この宿の中だけは、清潔で、温かく、おいしい食事が待っている場所でありたい。


 いつか訪れる誰かのために、最高のおもてなしを絶やさない。


 そして、今この場所で生きている仲間たちにも、少しでも人間らしい暮らしを届ける。


 それが、若女将・湊真帆の戦いであり。


 同時に、祈りでもあった。


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