第二話 源泉の番人と、変わらない朝
朝の潮見亭は、昨夜の騒ぎが嘘のように静まり返っていた。
東の空が白み始め、海から吹き上げる風が、門前に残った焦げ臭さを少しずつさらっていく。
真帆は竹箒を手に、石段へ散らばった灰や泥を無心に掃き集めていた。
サッ、サッ、と竹の穂先が石を擦る音だけが、朝靄の中へ小気味よく響く。
「……よし、と」
最後の一掃きを終え、真帆は手の甲で額の汗を拭った。
打ち水を済ませた石段は、昇り始めた朝日を受けてしっとりと濡れ光っている。
暖簾を掛ければ、どこからどう見ても由緒ある老舗旅館の朝だった。
ただ一つ、普段と違う点があるとすれば――石段の下、崖へ続く細い作業道で、優斗が死体の後片付けに追われていることくらいだ。
「よい、しょ……! うう、やっぱり重い……!」
優斗は顔を真っ赤にしながら、分厚い帆布で作られた牽引シートを引いていた。
その上に載っているのは、昨夜、真帆の神木棍と千晴の蒸気トラップによって完全に動きを止めた十体のゾンビである。
この三年で、潮見亭にはいくつもの決まり事が生まれていた。
倒したゾンビは、敷地内に決して放置しない。
腐敗が進めば衛生環境が悪化するだけでなく、濃い死臭が新たな群れを呼び寄せる原因にもなる。
だから戦いが終われば、夜が明ける前に片付ける。
それもまた、潮見亭を守るために欠かせない業務だった。
優斗は牽引シートを崖際まで引きずると、そこに設けられた木製の搬出路へ、一体ずつ死体を押し出していく。
ドサッ。
ゴロゴロゴロ……。
鈍い音を立て、死体は崖下に設けられた処分用の窪地へ落ちていった。
残酷に見えるかもしれない。
だが、世界がこうなった今、旅館の清潔を守ることと、生き延びることは同じ意味を持っている。
「優斗くん、お疲れさま。腰を痛めないようにね」
真帆が石段の上から声を掛けると、優斗は肩で息をしながら振り返った。
「へ、平気です。これ、昔は真帆さんが一人でやってたんですよね。それに比べたら……」
「そうね。あの頃は、千晴さんの蒸気トラップも完成してなかったから」
真帆は懐かしむように石段を見下ろした。
「毎朝、泥と腐った肉にまみれて大変だったわ。優斗くんが手伝ってくれるようになって、本当に助かってる」
「いや、そんな……」
真帆が微笑むと、優斗は照れくさそうに頭を掻いた。
そして、最後の一体を処分路へ押し出す。
三年前、世界が崩壊したとき、優斗はまだ高校生だった。
修学旅行で汐見崎温泉を訪れていた最中に感染爆発が起こり、逃げ惑った末、偶然この潮見亭へ辿り着いた。
家族の安否も分からず、泣いてばかりいた少年。
それが今では、死体の後片付けを済ませ、武器を手に宿を守る、立派な働き手になっていた。
「わふっ」
足元でゆずが鳴き、真帆の足首へ体を擦り寄せる。
昨夜はあれほど全身の毛を逆立てていたのに、今はすっかり安心した様子で尻尾を振っていた。
「ゆずも、お疲れさま」
真帆はしゃがみ込み、ゆずの耳の後ろを撫でる。
「昨日は、早く気づいてくれてありがとうね」
「わふぅ……」
ゆずは褒められたことが分かったのか、気持ちよさそうに目を細めた。
*
厨房へ入ると、温かな出汁の香りが鼻をくすぐった。
西村が慣れた手つきで菜箸を動かし、銅製の卵焼き器の中で卵の形を整えている。
かまどでは白米がふっくらと炊き上がり、甘い湯気を立てていた。
「おはようございます、西村さん」
「おう。門前の片付けは終わったか」
「はい。優斗くんが頑張ってくれました」
石鹸で念入りに手を洗った優斗も、少し遅れて厨房へ入ってくる。
漂う香りを胸いっぱいに吸い込み、幸せそうに息を吐いた。
「はあ……いい匂い。死体処理のあとの西村さんの飯、最高に沁みます」
「馬鹿野郎。飯の前に死体の話をするな」
西村は呆れたように言いながら、ほうれん草の胡麻和えを小鉢へ盛りつける。
「塩で清めてから食卓につけ」
「体はちゃんと洗ってきましたよ!」
「気分の問題だ」
三人が従業員用の小さな食卓を囲み、手を合わせようとした、そのときだった。
壁に取りつけられたインターホンが、ブツッ、とノイズを吐いた。
続いて、少し掠れた千晴の声が響く。
『食事の邪魔をして悪いけど、報告』
「おはようございます、千晴さん。どうしました?」
真帆が味噌汁の椀を持ったまま答える。
『昨夜の蒸気トラップを使った影響で、裏山の第二源泉から引いてる配管の圧力が落ちてる』
「どこか壊れたんですか?」
『メーターを見る限り、バルブの破損か、配管の亀裂。このままだと夕方には露天風呂の湯温が三十度を切る』
「三十度……」
真帆は眉を下げた。
「それでは、露天風呂ではなく水風呂ですね」
『そうなる』
「千晴さんが見に行った方が、早く直せるんじゃありません?」
『外へ出なくて済むなら、出たくない』
「相変わらずですね」
『必要な工具と補修材は、優斗にも分かるようにまとめておく。現場の映像を送って。ここから指示する』
「分かりました」
『それと、配管へ触る前に必ず圧を落として。蒸気をまともに浴びたら大火傷じゃ済まない』
「はい。気をつけます」
千晴は必要なことだけ告げると、一方的に通信を切った。
真帆は小さく息を吐き、味噌汁の椀を食卓へ戻す。
「というわけで、優斗くん。午前中は裏山へハイキングね」
「うっ……了解です。工具箱、用意しておきます」
「ついでに」
西村が卵焼きを頬張りながら口を挟んだ。
「裏山まで行くなら、山菜も見てきてくれ。フキノトウでもワラビでもいい。乾物と缶詰だけじゃ、栄養が偏る」
「配管修理のついでに食材調達ですか」
「何事も効率よくだ」
「それ、千晴さんみたいなこと言ってますよ」
「一緒にするな」
西村は露骨に嫌そうな顔をした。
真帆は思わず笑う。
「分かりました。籠も持っていきます」
潮見亭が三年間、ゾンビの群れに呑み込まれず生き延びてこられたのは、崖の上という立地だけが理由ではない。
最大の要因は、この土地から湧き続ける源泉だった。
硫黄を多く含んだ温泉と地熱を、ゾンビたちは本能的に嫌う。
必ず追い払えるわけではないが、彼らの動きを鈍らせ、接近をためらわせる効果はあった。
千晴は源泉の熱と蒸気を利用し、発電設備、給水装置、監視装置、そして旅館の周囲に設置した蒸気トラップを維持している。
千晴本人は、滅多に機関室から出てこない。
人と長時間顔を合わせることを嫌い、外へ出ることも極端に避けている。
それでも、館内に張り巡らせた配管やセンサー、監視カメラを通して、異常を誰より早く見つける。
潮見亭にとって、源泉は生命線。
そして、その生命線を維持しているのが千晴だった。
*
朝食を終えると、真帆は優斗とゆずを連れ、裏山へ足を踏み入れた。
ゆずは二人を先導するように数歩前を歩き、時折立ち止まっては鼻をひくつかせる。
「真帆さん、工具箱は俺が持ちますよ」
「ありがとう。でも、何かあったら、すぐに竹槍を構えてね」
「は、はい!」
優斗の背には、大きな竹籠と工具箱。
手には、先端を鋭く削り、火で焼き固めた手製の竹槍が握られている。
真帆はいつもの神木棍を手にしていた。
緑色の着物の袖は、山道を歩く邪魔にならないよう、たすきでしっかりとまとめてある。
かつての裏山には、観光客向けの遊歩道が整備されていた。
紅葉の季節になれば多くの宿泊客が訪れ、展望台まで列を作って歩いたものだ。
しかし今では、すっかり自然に呑み込まれている。
シダ植物が道を覆い、杉の木立が鬱蒼と茂り、かつて人間が歩いた痕跡は落ち葉と土の下に埋もれつつあった。
ところどころ、地面の亀裂から白い湯気が噴き出している。
周囲には、卵が腐ったような強い硫黄の匂いが漂っていた。
この匂いのおかげで、山側からゾンビが近づくことは少ない。
だが、決してゼロではない。
「そういえば、真帆さん」
斜面を登りながら、優斗がぽつりと言った。
「本当に、お客さんって来ると思いますか?」
「え?」
「毎日掃除して、ご飯を作って、お湯を張って……俺も旅館の仕事は好きですし、ここでの生活に不満はないんです」
優斗は足元の土を見つめる。
「でも、下の町を見てると、人間なんてもう俺たち以外、全滅してるんじゃないかって……たまに不安になるんです」
真帆は足を止めた。
木々の隙間から、眼下に広がる汐見崎温泉街が見える。
道を塞ぐように放置された車。
崩れ落ちた屋根。
そして、米粒ほどの大きさで徘徊する無数の影。
「……不安になるのは、当たり前だよ」
真帆は静かに答えた。
「私も時々、自分たちの方が幽霊なんじゃないかって思うことがあるの」
「幽霊……ですか?」
「死んでしまった世界で、毎日同じことを繰り返してる。誰も来ない旅館を掃除して、お湯を張って、お客様を待って」
真帆は、神木棍の滑らかな木肌を撫でる。
「全部、終わったことに気づかないまま、おままごとを続けてるだけなんじゃないかって」
優斗が俯いた。
「でもね、優斗くん」
真帆は地面の亀裂から昇る湯気を見つめた。
「お湯は、今も湧いてる」
「……はい」
「世界がこんなことになっても、大地の奥では熱が動いてる。水が流れて、温泉になって、ここまで上がってきてくれる」
真帆は穏やかに微笑んだ。
「だったら、そのお湯を一番いい状態にしておくのが、潮見亭の仕事でしょう?」
「でも、誰も来なかったら……」
「明日来るかもしれない。十年後かもしれない。本当に、誰も来ないかもしれない」
真帆は否定しなかった。
「それでも、いつ誰が来ても迎えられるようにしておく。それが、私が女将として――人間として、ここに立っていられる理由なの」
優斗はしばらく黙っていた。
やがて顔を上げ、小さく頷く。
「……俺、西村さんの味噌汁を誰かに食べさせたいです」
「味噌汁?」
「こんな世界でも、こんなにうまいものが食えるんだぞって、自慢したいです」
「うん」
真帆は笑った。
「その時は、優斗くんが一番いい笑顔で接客してね」
「はい!」
優斗が元気よく返事をした、その直後だった。
「……真帆さん、あそこ!」
前方を指差す。
斜面から剥き出しになった太い鉄製の配管。
その継ぎ目から、シューッという甲高い音とともに白い蒸気が噴き出していた。
バルブの根元には、深い亀裂が走っている。
「あれね。千晴さんの言った通りだわ」
真帆が近づこうとすると、腰の無線機から声が飛んだ。
『それ以上、正面から近づかないで』
「千晴さん、見えてるんですか?」
『近くの監視カメラが一台だけ生きてる。映像は荒いけど、亀裂の位置は分かる』
「どうすれば?」
『横から回って、手前の減圧弁を閉める。真帆一人で。優斗は配管から三メートル離れて待機』
「俺も手伝えます!」
『二人まとめて火傷されたら困る。真帆が圧を落としてから』
「……分かりました」
優斗は不満そうだったが、素直に下がる。
真帆は厚手の耐熱手袋をはめ、蒸気が流れる方向を見極めながら、バルブへ近づいた。
「千晴さん、これですね?」
『右側の赤錆びたやつ。急に閉めないで。四分の一ずつ』
「分かりました」
真帆はバルブへ両手を掛け、ゆっくりと回していく。
ぎぎぎ……。
錆びついた金属が、低い音を立てた。
蒸気の噴出が、少しずつ弱まる。
『もう一段』
「はいっ……!」
さらに力を込める。
やがて、耳を刺していた噴出音が、どうにか会話のできる程度まで下がった。
『そこで止めて。完全に閉じると別の場所へ負荷が掛かる』
「優斗くん、今よ!」
「はい!」
優斗は工具箱を抱えて駆け寄った。
耐熱パテを亀裂へ押し込み、その上から特殊な補修バンデージを何重にも巻きつけていく。
『もっと強く引いて。隙間を作らないで』
「これ以上引いたら、千切れそうです!」
『そのバンデージは千切れない。優斗の腕より丈夫』
「比較がひどい!」
「優斗くん、手を止めないで」
「はい!」
二人が作業を続けていた、そのときだった。
「グルルルル……」
少し離れた場所で周囲を見張っていたゆずが、低く唸った。
尻尾は足の間へ巻き込まれ、全身の毛が逆立っている。
その視線は、遊歩道が崩落した先にある獣道へ向けられていた。
真帆は即座にバルブから手を離し、神木棍を握る。
「優斗くん、作業を止めて。配管の陰へ」
「はい!」
『何かいるの?』
無線から千晴の声がする。
「ゆずが反応しています」
かさっ。
ごそっ。
落ち葉を踏む音が、山の奥から近づいてきた。
風向きが変わる。
濃い硫黄の匂いに混じって、あの独特の腐臭が真帆の鼻へ届いた。
「山側から……」
滅多にないことだった。
真帆は神木棍を正面へ構える。
「優斗くん。私より前へ出ないで」
「分かりました」
木立の奥から、三つの人影が現れた。
泥にまみれた登山服。
背負ったままの大型リュック。
靴には滑り止めの金具が残り、一体の手首には、リーシュで繋がれた錆びたピッケルがぶら下がっている。
感染爆発の初期に山へ逃げ込み、そのまま命を落とした登山者だろう。
山中の低い気温に晒されていたせいか、崖下を徘徊するゾンビより腐敗が浅い。筋肉も形を残し、体格も一回り大きく見えた。
「アァァァ……!」
三体が真帆たちの存在に気づく。
次の瞬間、斜面を滑り落ちるような勢いで迫ってきた。
腐敗が浅い分、動きも速い。
「優斗くんは配管の陰から出ないで!」
真帆は鋭く命じ、自ら前へ出た。
一体目が両腕を伸ばし、真帆へ掴みかかる。
真帆は半歩だけ踏み込み、神木棍を斜めに当てた。
腕を正面から受け止めず、外側へ滑らせる。
同時に腰を落とし、棍の石突を膝の外側へ叩き込んだ。
ばきっ!
鈍い音を立て、ゾンビの片膝が折れる。
巨体が前のめりに崩れた。
だが、息をつく暇はない。
二体目と三体目が、左右から同時に迫る。
一体の手首からぶら下がったピッケルが、腕の動きに振り回され、危険な軌道で跳ねた。
「シッ!」
真帆は短く息を吐き、神木棍を水平に薙いだ。
潮見流古武術――水面薙ぎ。
棍がゾンビの前腕を打ち、骨を砕く。
手首へ繋がっていたピッケルが大きく弾かれ、藪の中へ引っ掛かった。
しかし、ゾンビは痛みを感じない。
腕を折られたまま、体ごと真帆へぶつかってくる。
(重い……!)
真帆は後ろへ跳び、突進をかわす。
斜面の足元は不安定だった。
踏み外せば、転倒したところへ三体まとめて覆いかぶさってくる。
それでも、真帆の心は不思議なほど静かだった。
毎朝欠かさず続けた素振り。
何千回、何万回と繰り返した型。
客室を掃き、温泉の温度を測ることと同じように、棍を振るうこともまた、この場所を守るための日常になっている。
「ハアッ!」
真帆は地面を蹴った。
斜面を下る勢いを利用し、神木棍を上段から振り下ろす。
先ほど膝を折った一体目の頭部へ、棍の先端が直撃した。
頭蓋が砕け、ゾンビが完全に動きを止める。
着地と同時に棍を引き戻し、背後から迫っていた二体目の喉元へ鋭い突きを放った。
頸椎を捉えた感触。
二体目の首が不自然に折れ、黒い血を吐きながら斜面へ倒れ込んだ。
残るのは、一番体格の大きい三体目。
仲間の体につまずきながらも、両腕を広げて真帆へ突進してくる。
真帆の背後には、修理途中の配管があった。
これ以上下がれば、激突して亀裂を広げてしまう。
(迎え撃つしかない)
真帆が棍を短く持ち替えた、その瞬間。
「真帆さん、横へ!」
優斗の叫びが響いた。
真帆は迷わず横へ跳ぶ。
次の瞬間。
シューッ!
優斗が長柄のレンチを使い、減圧弁を一時的に開いた。
亀裂から噴き出した高温の蒸気が、突進してきたゾンビの顔面を直撃する。
「ギィィィィッ!」
ゾンビが獣のような声を上げた。
皮膚を焼かれ、視界を奪われた巨体が、その場で腕を振り回す。
『優斗、すぐ閉めて! 配管がもたない!』
無線から千晴の怒声が飛んだ。
「はいっ!」
優斗が慌ててバルブを戻す。
蒸気の勢いが落ちた。
「今です!」
真帆は地を這うような低い姿勢から踏み込んだ。
「はああっ!」
下から上へ。
全身のばねを使った強烈な打ち上げ。
神木棍の先端がゾンビの顎を捉え、頭部を大きく跳ね上げた。
続けて、返す棍をこめかみへ叩き込む。
どすんっ、と重い音を立て、巨体が斜面へ崩れ落ちた。
もう動かない。
裏山へ静寂が戻った。
風に揺れる木々の音と、真帆の少し荒くなった呼吸だけが響く。
「……ふう」
真帆は神木棍を下ろし、額の汗を拭った。
「真帆さん、怪我は!?」
優斗が工具箱を置いて駆け寄ってくる。
「大丈夫」
真帆は全身を確認し、優斗へ微笑んだ。
「ありがとう。いい判断だったわ」
「へへ……俺も、ただ隠れて震えてるだけじゃありませんから」
『判断そのものは悪くない』
無線から千晴の声がした。
『でも、次からは勝手に弁を全開にしないで。配管が破裂したら二人とも死んでた』
「す、すみません……」
『反省はあと。補修を終わらせて』
「はい!」
優斗は表情を引き締め、配管へ戻った。
「これ以上、お湯を無駄にはできませんから」
耐熱パテを塗り、バンデージを何重にも巻き直す。
真帆は、その背中を眩しいものを見るように見つめた。
泣いてばかりいた少年は、もういない。
崩壊した世界の中でも、優斗は確かに強くなっている。
絶望へ飲み込まれず、自分たちの居場所を守るために。
作業を終えたあと、三体のゾンビは遊歩道から離れた窪地へ移し、腐臭が漏れないよう土と落ち葉を厚く被せた。
すぐに崖下の処分場まで運ぶことはできない。
後日、牽引シートを持って回収するため、目印も残しておく。
彼らもまた、この狂った世界に命を奪われた人間だった。
真帆は短く手を合わせ、静かに頭を下げた。
*
夕方。
潮見亭の館内には、胡麻油の香ばしい匂いが漂っていた。
「おう、よく採ってきたな」
厨房で、西村が籠の中身を確認し、満足そうに頷く。
「フキノトウは天ぷら。ワラビは灰汁を抜いて、明日のお浸しだ」
配管修理の帰り道で摘んできた春の山菜が、籠いっぱいに積まれていた。
「千晴さんも、配管の圧力は戻ったって言ってました」
優斗が得意そうに胸を張る。
「これで露天風呂の温度も大丈夫です」
「千晴さん、夕食には来るかしら」
真帆が、機関室へ続く廊下を見た。
「来ねえだろ」
西村が即答する。
「でも、たまには皆で食べた方が――」
「飯は機関室へ持ってこいって、さっき連絡があった」
「やっぱり……」
「外どころか、食事処へ出てくるのも嫌らしい」
「千晴さんらしいですね」
「感心するところじゃねえ」
西村は呆れながら、菜箸で揚げたてのフキノトウを一つ持ち上げた。
「ほら、味見してみろ」
「いいんですか?」
優斗が熱々の天ぷらを口へ放り込む。
「熱っ……んんっ!」
目を丸くした。
「サクサクで、ちょっと苦くて……うまい!」
「だろう。春の味だ」
西村は満足そうに鼻を鳴らした。
その光景を横目に、真帆はそっと厨房を抜け出した。
向かったのは、本館の奥。
崖へせり出すように造られた展望露天風呂だった。
脱衣所で着物を脱ぎ、掛け湯を済ませる。
それから、ゆっくりと湯船へ身を沈めた。
「……ああ」
思わず、声が漏れる。
肌を刺すような熱さのあと、体の芯までじんわりと解けていく感覚。
強すぎない硫黄の香り。
優斗が命懸けで配管を塞ぎ、千晴が機関室から圧力を調整してくれた、四十二度の完璧な湯だった。
真帆は湯船の縁へ腕を乗せ、眼下を眺める。
汐見崎温泉街は、今日も死の静寂に包まれていた。
崩れた町並みが夕闇へ沈み、その向こうでは、海が赤から紫へ美しい色を重ねている。
狂ってしまった人の世界。
何も変わらず巡り続ける自然。
そして、今も湧き続ける温かな湯。
「……今日も、誰も来なかったわね」
真帆は、湯面を漂う白い湯気を、ふっと吹いた。
誰も答えない。
それでも真帆は、少しだけ笑った。
「でも、お湯は完璧」
厨房からは、夕食を準備する物音がかすかに聞こえてくる。
「お料理も、きっと最高」
真帆は水平線へ沈む夕日を見つめた。
「潮見亭は、いつでもお客様をお迎えできます」
誰に聞かせるでもない、女将としての誓い。
真帆は目を閉じる。
湯が岩肌へ触れる柔らかな音に耳を澄ませながら、深く、静かに息を吐いた。




