第一話 潮見亭へようこそ
短期連載です。
八話まで投稿予定です。
朝の潮風は、少しだけ甘い。
海沿いの町特有の塩気を含んだ湿り気と、山から流れ落ちてくる冷たい空気。その二つが混ざった、どこか懐かしい匂いだ。
崖の上に建つ老舗温泉旅館――『潮見亭』。
毎朝、その玄関を開けるたび、若女将の湊真帆は潮風を胸いっぱいに吸い込む。
それが、潮見亭の一日の始まりだった。
「……よし」
真帆は小さく呟き、両手で頬をぱちんと叩いた。
まだ日は低い。
東の海は白み始めたばかりで、水平線の向こうから差し込む淡い光が、磨かれた床板や木造の欄干を静かに照らしている。
廊下の硝子戸には薄く朝露がつき、庭先の松の葉には小さな雫がいくつもぶら下がっていた。
真帆は、まだ眠りの中にあるような景色をひとしきり眺める。
それから、くるりと踵を返した。
「潮見亭、本日も営業開始です」
誰に聞かせるでもない、いつもの口上だった。
女将は、その宿の一日を最初に迎える人間でなければならない。
客が目を覚ます前に空気を整え、湯を整え、花を整え、食事を整える。
それが旅館の朝であり、女将の仕事なのだと、母はよく言っていた。
「わふ」
足元から、控えめな鳴き声がした。
柴犬のゆずが、黒く澄んだ目で真帆を見上げている。
尻尾を一度だけ振る、いつも通りの少し澄ました顔。
だが、朝の見回りへ同行できると分かっているのか、三角形の耳はぴんと立っていた。
「おはよう、ゆず。今日も見回りをお願いね」
真帆がしゃがんで頭を撫でると、ゆずは満足そうに目を細めた。
柔らかな毛並みをもう一度撫でてから、真帆は立ち上がる。
玄関脇に立てかけてあった、一本の長い棍を手に取った。
長さは六尺。
潮見亭の裏手に建つ小さな社。その御神木の枝から作られ、何代にもわたって受け継がれてきた古い木の棍だ。
観光客に見せるための飾りでも、床の間に収めておく家宝でもない。
真帆にとっては、幼い頃から体へ叩き込まれてきた『潮見流古武術』の相棒だった。
「今日も平和だといいんだけどね」
軽く言ったつもりだった。
だが、自分の声には、わずかに自分自身を励ますような響きが混ざっていた。
*
最初に向かうのは、大浴場だった。
潮見亭の一番の自慢は、崖の上から海を一望できる展望露天風呂と、本館の奥に設けられた大浴場である。
湯は柔らかく、肌当たりがいい。
それでいて、湯から上がったあとも体の芯に温かさが残る。
祖父の代から「潮見の湯は冷えに効く」と評判で、冬になると同じ客が毎年のように湯治へ訪れたものだった。
真帆が脱衣所の引き戸を開けると、温かな湯気と湿った木の匂いがふわりと流れてきた。
まずは窓を少しだけ開き、籠もった湿気を逃がす。
棚の上を指先で撫で、埃がないことを確認する。
桶の向きを揃え、洗面器を重ね直し、鏡に水滴が残っていれば乾いた布で拭き取る。
浴場へ入ると、床の水はけを確かめ、湯口の勢いへ目を向けた。
最後に、湯船の縁へ手を添える。
「うん。ちょうどいい」
真帆は、ほんの少し目を細めた。
朝一番の湯は美しい。
まだ誰にも乱されていない静かな湯面。
そこへ細く注がれていく、新しい温泉。
白い湯気がゆっくりと立ち上り、天窓から差し込む朝の光を柔らかく曇らせている。
時代が変わっても。
町が変わっても。
この湯だけは、変わらず湧き続けてきた。
人の体を温め、凝り固まった疲れをほどき、ほんの少しだけ前を向く力をくれる。
だからこそ、守る価値がある。
真帆は柄杓で湯をすくい、湯口の石へ静かに流しかけた。
硫黄の香りが、少しだけ強く立ち上る。
「今日も、よろしくお願いします」
祈る相手が温泉なのか。
この土地なのか。
それとも、古くから宿を見守ってきた何かなのか。
真帆自身にも分からない。
けれど、この一言を口にすると、不思議と背筋が伸びた。
大浴場を出て、次は展望露天風呂へ向かう。
湯船の向こうに広がる海は、すでに朝の色へ変わり始めていた。
眼下の汐見崎温泉街には薄い霧が流れ、坂の多い町並みが白く霞んでいる。
真帆は露天風呂の縁に立ち、今日も変わらずその景色を見下ろした。
「今日は、よく晴れそうね」
真帆が言うと、ゆずが板張りの床でくるりと一回転した。
そして、なぜか誇らしげに胸を張る。
「ふふ。ゆずのおかげ?」
「わん」
短い返事に、真帆は思わず笑った。
笑うことまでやめてしまったら、本当にすべてが終わってしまう気がする。
だからこそ、こうした何でもない朝を大切にするのだ。
*
風呂の見回りを終えると、次は客室だった。
潮見亭には、本館に八つ、離れに二つの客室がある。
すべての部屋が客で埋まるような賑わいは、もうずいぶん長い間見ていない。
それでも、使わない部屋を放っておくわけにはいかなかった。
畳は湿気を吸う。
柱や床板は少しずつ軋む。
障子紙は陽に焼け、誰も触れなくても少しずつ黄ばんでいく。
だから真帆は毎日、使っていない部屋にも風を通す。
襖を開ける。
窓を開ける。
座卓を拭き、座布団を整え、床の間の花を替える。
今朝は裏庭に咲いていた白い椿を、一輪だけ花入れへ挿した。
誰もいない部屋でも、花が一つあるだけで空気は変わる。
「……よし」
三部屋目の掃除を終えたところで、廊下の奥から慌ただしい足音が聞こえてきた。
「す、すみません、真帆さん! 遅れました!」
息を切らして現れたのは、田中優斗だった。
短い黒髪に、少し大きめの作務衣。
顔立ちにはまだ少年らしさが残っているものの、最近は力仕事が増えたため、腕や肩にも少しずつ筋肉がつき始めている。
真帆は箒を手にしたまま振り返った。
「おはよう、優斗くん」
「お、おはようございます! 本当にすみません! 起きてはいたんですけど、その……」
「夢の中で働いていた?」
「な、なんで分かるんですか!?」
図星だったらしい。
真帆は思わず笑った。
真面目で素直で、頑張り屋。
けれど、張り切りすぎて空回りすることも多い。
そんな優斗を見ていると、若女将になったばかりの頃の自分を思い出すことがあった。
「それじゃあ、遅れた分だけ働いてもらおうかな」
「はい!」
「まず廊下の雑巾掛け。それが終わったら、離れの雨戸を開けて、裏の小屋から炭を運んでください。そのあとは厨房で西村さんのお手伝い」
「任せてください!」
優斗は拳を握ってみせた。
そのまま掃除へ向かおうとして、真帆が持つ神木棍に気づく。
「あれ。今日もそれを持ってるんですね」
「朝の見回りでは、一応ね」
真帆の笑みが、ほんの少しだけ薄くなる。
「最近は、山の獣だけを警戒していればいいわけじゃないから」
「……そうですよね」
優斗も、その言葉の意味は理解している。
一瞬だけ表情を硬くしたあと、気を取り直したように真帆を見た。
「でも、真帆さんって本当に強いですよね」
「何それ。今さら?」
「いや、その……普段はすごく女将さんらしいじゃないですか」
「それ、褒めてる?」
「褒めてます! だから最初は、真帆さんがその長い棒を振り回す姿なんて想像できなかったんです」
「失礼だなあ」
真帆は周囲を見回した。
廊下の柱に、掃除用の手拭いが紐で掛けてある。
「優斗くん。あの手拭いを見ていて」
「え?」
言い終わるより早く、真帆は神木棍を持つ手首を返した。
ひゅん、と風を切る音。
棍の先端が、手拭いを吊していた紐の結び目だけを正確に弾く。
手拭いが、ひらりと床へ舞い落ちた。
優斗は口を開けたまま固まった。
「……え?」
「これで少しは信じた?」
「す、すご……」
素直な驚きを向けられ、真帆は少しだけ得意になった。
「ぼんやりしていると、次は前髪が落ちるかもしれないよ?」
「気をつけます!」
優斗がびしりと背筋を伸ばす。
真帆は声を立てて笑った。
*
厨房へ入ると、そこはすでに西村健太郎の城だった。
大鍋から立ち上る湯気。
炭火の赤い熱。
まな板の上へ整然と並べられた野菜と干物。
包丁がまな板を叩く、小気味よい音。
すべてが一つの流れとして噛み合い、朝の厨房に独特のリズムを作り出している。
「おう、真帆ちゃん。客間は終わったか」
「本館はだいたい終わりました。離れは優斗くんに任せています」
「そうか」
西村は短く答え、味噌汁の鍋をかき混ぜた。
五十歳を過ぎても体はがっしりとしており、厨房へ立つ姿には一切の無駄がない。
真帆にとっては従業員というより、すでに家族に近い存在だった。
「今朝は何ですか?」
「鯵の干物、豆腐の味噌汁、山菜のおひたし、卵焼きに香の物。まあ、いつものだ」
「いい匂い」
「当たり前だ。俺が作ってるんだからな」
西村はそう言いながら、ほんの少しだけ口元を緩めた。
真帆は味噌汁の鍋を覗き込み、それから棚の上に置かれた宿帳へ目を向けた。
新しい名前はない。
今日も予約は一件も入っていなかった。
それでも、西村は決して手を抜かない。
「客が来るかどうかで飯を雑にしてたら、料理人は終わりだ」
真帆が何も言わないうちに、西村が口を開いた。
「いつか、腹を空かせた誰かがここへ辿り着くかもしれん。そのとき出す味噌汁がぬるかったら、潮見亭の負けだ」
真帆は、すぐに言葉を返せなかった。
西村の一言が、静かに胸の奥へ沈んでいく。
「旅館ってのは、客を泊めるだけの商売じゃない」
西村は焼き網へ鯵の干物を並べる。
「明日も生きてみようって気にさせる商売だ」
「……はい」
真帆がようやく答えると、西村は何も言わず、魚をひっくり返した。
ぱちっ、と脂が炭へ落ちる。
香ばしい匂いが厨房へ広がった。
その匂いだけで、少しだけ元気が湧いてくる。
*
午前中は、洗濯と帳場仕事に追われた。
客がいなくても、旅館の仕事はなくならない。
布団干し。
浴衣の点検。
備品の補充。
花の水替え。
廊下の拭き掃除。
玄関先の打ち水。
裏の物置の整理。
旅館は生き物に似ている。
手を掛ければ機嫌よく息をし、放っておけば、たちまち拗ねるように傷み始める。
真帆が帳場で在庫帳をつけていると、廊下の向こうから、かん、と乾いた金属音が聞こえてきた。
機関室の方角だ。
温泉の熱を使って発電し、館内の照明やポンプ、冷蔵設備を動かし続ける。
そのすべてを管理しているのが、技術者の古賀千晴だった。
発電機。
ボイラー。
配管。
電気設備。
監視装置。
千晴は、潮見亭に張り巡らされた複雑な設備を、まるで自分の手足のように把握している。
彼女がいなければ、潮見亭はとうの昔に湯も灯りも失っていたはずだ。
ただし、本人が機関室から姿を現すことはほとんどない。
長く人と顔を合わせることを避け、食事すら機関室まで運ばせようとする。
現場で異常が起きても、まず口にするのは決まっていた。
『現場の映像を送って。ここから指示する』
無愛想で、言葉も少ない。
人を簡単には信用せず、自分の過去について語ることもない。
それでも千晴がいるからこそ、潮見亭は今日も旅館として息をしている。
真帆は在庫帳へ数字を書き込みながら、小さく呟いた。
「千晴さん、今日も働いてるなあ」
廊下の隅に取りつけられた古いスピーカーが、ぶつっと鳴った。
『聞こえてる』
「わっ」
真帆は肩を跳ねさせた。
『第一、第三系統、異常なし。無駄話してる暇があるなら、帳簿を進めて』
「無駄話じゃありません。感謝してたんです」
『聞こえなかった』
「今、言いましたよね?」
『私は仕事に戻る』
ぶつり、と通信が切れた。
「もう。相変わらず素直じゃないんだから」
返事はない。
その数秒後。
帳場の上にある照明が、一度だけ小さく明滅した。
千晴なりの返事なのか。
ただの電圧の揺らぎなのか。
真帆には分からなかった。
千晴は姿を見せない。
機関室の奥へ閉じこもり、人と距離を取っている。
それでも館内の音を聞き、計器を見つめ、潮見亭の異常を誰より早く見つける。
その気配が館のどこかにある。
それだけで、真帆は少しだけ安心できた。
*
日が傾き始める頃には、館内はすっかり整っていた。
磨かれた廊下。
湯気の立つ風呂。
乱れなく整えられた客室。
厨房から漂う夕餉の匂い。
夕方の旅館独特の、少し眠たくなるような穏やかな空気が、館内を満たしている。
真帆は玄関先の花を直したあと、夜へ備えて門の様子を確かめるため、外へ出た。
潮見亭の正門は、分厚い木材と鉄板で何重にも補強されている。
その向こうには、崖下へ続く急な坂道が延びていた。
道の下には汐見崎温泉街が広がっている。
古い木造旅館。
土産物屋。
共同浴場。
坂道と石段。
そして、その向こうに広がる海。
夕焼けに染まった町並みは、胸が痛くなるほど美しかった。
「今日も、誰も来なかったね」
隣へ座ったゆずに語りかける。
「わふ」
「でも、明日は来るかもしれないし」
真帆は軽く背筋を伸ばした。
そのときだった。
ゆずの耳が、ぴくりと動いた。
「……ゆず?」
次の瞬間。
先ほどまでの穏やかな空気を切り裂くように、低く鋭い唸り声が喉の奥から漏れた。
ゆずは門の向こう、坂道の下を凝視している。
尻尾は止まり、全身の毛が逆立っていた。
真帆の背筋を、冷たい感覚が走る。
反射的に玄関へ戻り、脇へ立ててあった神木棍を掴んだ。
「優斗くん! 西村さん!」
館内へ向けて声を飛ばす。
「はい!」
「どうした!」
厨房の方角から、優斗と西村の返事が聞こえた。
直後、門の上部に設置されたスピーカーが、ノイズ混じりに鳴る。
『門前に反応。三体』
千晴の声だった。
『……坂の下から七体追加。合計十体』
普段と変わらない、感情を抑えた声。
だが、言葉の速度がいつもよりわずかに速い。
『真帆、門から離れて。西村は内側の閂を確認。優斗は厨房から出ないで』
「監視カメラは生きてるんですね」
『生きてるから報告してる』
「まともなお客様でないなら、なおさら女将が出ないと」
『馬鹿なの?』
「女将です」
『答えになってない』
真帆は着物の袖をたすきでまとめ、白い前掛けの紐を固く締め直した。
「どうやら、招かれざるお客様がいらしたようです」
優斗が息を呑む音が聞こえた。
「優斗くんは、絶対に外へ出ないでください。西村さん、戸口の守りをお願いします」
「任せろ」
『真帆』
「はい?」
『左の石段脇に、源泉を入れた甕がある。近づかれたら足元へ撒いて。頭から浴びせようとして身を乗り出さないで』
「分かってます」
『前にもそう言った』
「今日は、ちゃんと聞きます」
『信用してない』
「ひどい」
『生きて戻ったら謝る』
真帆は、わずかに目を見開いた。
普段の千晴なら、そんな言葉は口にしない。
心配しているのだ。
そう分かっても、指摘すればきっと否定する。
「了解です」
真帆は短く答え、ゆずとともに石段の脇へ移動した。
夕闇が、少しずつ濃くなっている。
風向きが変わった瞬間。
鼻の奥を刺すような、強烈な腐臭が届いた。
ぎい……。
門の外から、分厚い扉が押される音が響く。
真帆の目が細くなった。
「……やっぱり、あなたたちでしたか」
門の隙間から覗いていたのは、裂けた頬。
白く濁った目。
乾いて黒ずんだ血。
三年前から、何度も見てきた。
もう人ではないものの顔が三つ、互いに押し合うように蠢いていた。
「今朝のお湯でございます」
真帆は甕から柄杓で温泉を汲む。
「どうぞ、ごゆっくり」
門の隙間から、三体の足元へ一気に浴びせた。
白く濁った高濃度の硫黄泉が腐肉へ触れた瞬間、じゅっ、と嫌な音がした。
「ギィィィッ!」
白い煙を上げながら、ゾンビたちが獣じみた声を上げる。
硫黄を含む温泉は、彼らの動きを鈍らせる。
だが、それだけで必ず退けられるわけではない。
怯んだのは、ほんの一瞬だった。
坂の下から這い上がってきた七体が合流する。
生きた人間の匂いを嗅ぎつけた十体の群れが、一斉に門へ殺到した。
どんっ。
どんっ。
ばきり、と木材が軋む。
門を叩く力が、急激に強くなった。
「千晴さん、第一トラップをお願いします!」
『もう準備してる』
短い返答。
『蒸気圧上昇。真帆、門から三歩下がって』
真帆が後退する。
『あと二歩』
さらに下がる。
『そこで止まって』
「細かいですね」
『死なれたくないから』
ぶっきらぼうな声だった。
直後。
『第一散布管、作動』
ごおおおおっ!
地鳴りにも似た音が響き、門の外へ大量の白い蒸気が噴き上がった。
温泉から得られる熱と蒸気を利用し、千晴が組み上げた防衛設備。
高温の蒸気が、門へ押し寄せていた群れを包み込む。
「ギャアアアアアッ!」
絶叫が重なった。
腐敗した皮膚を焼かれ、大半のゾンビが苦しげに倒れていく。
機関室から一歩も出ることなく、千晴は監視映像と計器を確認し、配管の弁と蒸気圧を操作していた。
館内へ張り巡らされた設備は、千晴にとって目であり、耳であり、手足だった。
『……三体、止まってない』
千晴の声に、緊張が混じった。
蒸気の中から、三つの影が飛び出した。
皮膚を焼かれ、顔の半分を爛れさせながらも、門へ体当たりを繰り返す。
補強された扉が、大きく揺れた。
『真帆、下がって。第二噴射を――』
千晴の声が途切れる。
スピーカーの向こうで、短い警告音が鳴った。
『駄目。圧力が足りない』
「それなら、私が出ます」
『待って。別の方法を考える』
「その間に門が壊れます」
『真帆』
「千晴さんは、中から私を見ていてください」
『私は最初から見てる!』
珍しく荒らげられた声に、真帆は少しだけ笑った。
「それなら、大丈夫です」
『何が大丈夫なの』
「一人じゃないので」
千晴は答えなかった。
真帆は門の脇に設けられた小さな通用口を開き、素早く外へ滑り出た。
「それでは――」
六尺の神木棍を両手で構える。
「お見送りです」
蒸気の中から、一体目が両腕を伸ばして襲いかかってきた。
「潮見流古武術、入ります」
真帆は半歩踏み込み、腐った腕を棍の柄で外側へ流す。
力へ逆らわず、体の向きを変えながら懐へ潜り込む。
棍の平たい先端を、濁った眼窩へ突き入れた。
ごっ、と鈍い感触。
頭部を破壊された一体目が、石段へ崩れ落ちる。
『左!』
スピーカーから千晴の声が飛ぶ。
二体目と三体目が、左右から同時に迫っていた。
真帆は棍を体の中心へ引きつけ、腰を軸に半回転する。
「巻き落とし!」
遠心力を乗せた棍が、二体の膝を続けざまに打ち据えた。
ごきっ。
骨の折れる音とともに、二体の姿勢が崩れる。
真帆は足を止めない。
一歩踏み込み、二体目の頭部へ棍を振り下ろす。
打撃の反動を利用して半回転し、最後の一体の側頭部へ横打ちを叩き込んだ。
「潮見亭へようこそ――なんて、言うと思いましたか!」
湿った音が続けて響く。
二体の体が石段へ倒れ込んだ。
それでも、腐った指先はまだ真帆を求めるように蠢いている。
真帆は荒い息を吐き、神木棍を逆手へ持ち替えた。
「うちのお湯は――」
石突を、頭部へ真っすぐ突き込む。
「生きているお客様のためのものです」
最後の一体から、ようやく力が抜けた。
立ち込める蒸気と腐臭の中。
門前に、突然の静寂が戻る。
真帆は、しばらくその場に立ち尽くしていた。
心臓が激しく脈打っている。
指先が震える。
神木棍を握る手のひらは、汗で濡れていた。
強いから、恐ろしくないわけではない。
慣れたから、命のやり取りが平気になったわけでもない。
ただ、守らなければならないから動く。
それだけだった。
『真帆』
スピーカーから千晴の声が響く。
いつもより低く、少し掠れていた。
『返事して』
「大丈夫です」
『触られた?』
「いいえ」
『本当に?』
「本当です」
『……そう』
短い返事。
だが、スピーカーは、その向こうで千晴が大きく息を吐く音まで拾っていた。
「真帆さん!」
優斗が半泣きの顔で外へ駆け出そうとする。
すぐに西村が襟首を掴んだ。
「近づくなって言われただろうが!」
「でも、真帆さんが!」
『門前だけじゃない』
千晴の声に、再び緊張が戻る。
『坂の下を見て。……まだ来る』
真帆は呼吸を整えながら、ゆっくり顔を上げた。
門の外。
夕焼けに沈む汐見崎温泉街。
そこに広がっていたのは、かつての旅情あふれる風景ではなかった。
土産物屋の硝子は割れ、看板は傾いている。
坂道の途中には放置された車が折り重なり、商店のシャッターは半ば壊されていた。
遠くの旅館の窓は砕け、電線は垂れ下がり、街灯は一本も点いていない。
その向こう。
坂下の交差点で、一つ。
また一つ。
人だったものが、ゆっくりと立ち上がる。
ぼろぼろの服。
不自然に折れ曲がった手足。
白く濁った目。
文明は、もうとっくに終わっていた。
三年前。
世界はゾンビに呑み込まれた。
町は死に、ここ汐見崎温泉もまた、崩壊した日常の中へ取り残された。
それでも、崖の上に建つ老舗旅館『潮見亭』だけは、まだ息をしている。
湯を守る者がいる。
食を守る者がいる。
傷ついた人を癒やす者がいる。
原因不明の感染を研究し続ける者がいる。
機関室の奥から、火と灯りと仲間たちを守る者がいる。
そして真帆は、若女将として毎朝こう告げる。
「潮見亭、本日も営業開始です」
たとえ、明日も客が来なくても。
たとえ、門の前に立つのが招かれざる死者ばかりでも。
それでもいつか。
本当に疲れ果てた誰かが、この宿の戸を叩くかもしれない。
その日のために、潮見亭は今日も崩れない。
「……戸を閉めましょう」
真帆は静かに言った。
「明日のお客様を迎えられるように、きちんと整えないと」
優斗が顔を上げる。
西村が、ふっと息を吐いた。
スピーカーの向こうから、千晴の小さな舌打ちが聞こえる。
『だったら、まず門前の片付け。放っておくと臭いが残る』
「ふふ。はい」
『それと』
「何ですか?」
『終わったら、怪我がないかちゃんと確認して』
「心配してくれてるんですか?」
『違う。動けなくなられると困るだけ』
「はいはい」
『その返事、信用できない』
真帆は、ようやく声を上げて笑った。
千晴は機関室から出てこない。
優しい言葉も、ほとんど口にしない。
それでも、自分たちを守ろうとしていることを真帆は知っている。
こんな世界になっても、旅館の仕事はなくならない。
湯を守る。
部屋を整える。
食事を作る。
訪れた者を迎える。
壊れた機械を直し、危険が来れば互いに支え合う。
だから潮見亭は、今日も開いている。
人の世が崩れたあとも、なお人を待ち続ける宿として。




