第十話 宿帳に刻まれた名前と、最後の入浴客
リリカが初めての朝湯を楽しんでいた、その頃。
機関室では、千晴が源泉の記録を机いっぱいに広げていた。
復活直前の圧力。
温度。
流量。
地下で月樋を動かした時刻。
医務室の照明が瞬いた時刻。
すべてを秒単位で並べ、何度も見比べている。
「千晴さん」
工具を返しに来た優斗が、紙の山を覗き込んだ。
「何か分かりました?」
「分からない」
「そんな即答あります?」
「分からないものは分からない」
千晴は鉛筆の先で記録表を叩いた。
「月樋の弁を開けてから、圧力が戻るまで二時間以上空いてる。地下の流路が長いなら、遅れて地上へ影響が出た可能性はある」
「じゃあ、月樋を開けたから戻ったんですか?」
「それだけでは説明できない」
千晴は別の記録を指す。
「温度と圧力の上がり方が急すぎる。それに、儀式は途中で中断した。神楽も最後まで終わってない」
「儀式が終わってないと、まずいんですか?」
「分からない」
「またそれですか」
「事実だから」
千晴は源泉計へ視線を向けた。
今は安定している。
だが、この状態が明日も続く保証はない。
「一時的に圧力が戻っただけかもしれない。今日の夜に、また止まる可能性もある」
「そんな……」
「だから、湯量も温度も監視を続ける。以前と同じように使えると思わないで」
優斗は不安そうに源泉計を見つめた。
やがて、重くなった空気を変えるように口元を緩める。
「じゃあ、リリカちゃんがお粥を食べたから戻ったんじゃないですか?」
千晴の手が止まった。
「どうしてそうなるの」
「だって、リリカちゃんがお粥を食べたあとに、源泉が戻ったじゃないですか」
「時間が近かっただけ」
「すごくおいしそうに食べてましたよ。お腹いっぱいになって元気が出たから、温泉も元気になったとか」
「温泉は空腹にならない」
「冗談ですよ」
「分かりにくい」
優斗は小さく笑った。
「千晴さんなら、『白粥と源泉復活の因果関係を調査する』とか言い出すかと思って」
「調査方法がない」
千晴は記録へ視線を戻す。
「それに、地下の設備を調べれば何か分かるとしても、今は無理」
「変異体がいるからですか?」
「そう」
千晴の表情が険しくなった。
「点検口の下には、硫黄を苦にしないゾンビが残ってる。何体いるのかも分からない。鉄蓋がいつまでもつかも不明」
これまで潮見亭が生き残れたのは、硫黄を含んだ温泉と蒸気が、ゾンビに対する有効な防壁になっていたからだ。
だが、地下の変異体には、その前提が通用しない。
「硫黄で止められない以上、こっちから突っ込んでいくわけにはいかない」
「じゃあ、儀式の続きも……」
「できない」
千晴は即答した。
「源泉がまた止まったとしても、今すぐ地下へ行くのは自殺行為。設備の調査も、儀式の再開も、まず安全を確保してから」
「でも、どうやって倒すんですか。真帆さんの棍でも、ほとんど効かなかったんですよね」
「銃器でもあれば別」
「銃なんて無理ですよ。ここ、日本ですよ?」
優斗が呆れた声を出す。
千晴は真顔のまま、机の上の工具へ目を向けた。
「……作るか」
「何をですか?」
「銃」
「作れるんですか!?」
「冗談」
「千晴さんの冗談、怖すぎますよ!」
「分かりやすかったでしょ」
「全然分かりませんでした!」
千晴は何事もなかったように、地下構造の略図へ視線を落とした。
「正面から倒す方法を考える必要はない。別の入口がないか。変異体を閉じ込めたまま月樋を操作できないか。地上から遠隔で圧力を調整できないか」
「そんなこと、できるんですか?」
「できるかどうかを調べる」
「また地下へ行くんですか?」
「行かない方法を探してる」
「千晴さんらしいですね」
「褒めてないで、手を動かして」
千晴は源泉計の記録用紙を、優斗へ差し出した。
「一時間ごとに圧力と温度を記録して。数値が少しでも落ちたら、すぐに呼んで」
「分かりました」
「大浴場の湯量も確認して。今は安定して見えても、急に落ちるかもしれない」
「真帆さんたちが入ってますよ」
「中へ入れとは言ってない。入口の温度計と、配管の音だけ確認して」
「自分で行った方が早くないですか?」
「機関室から離れる必要がないなら、離れたくない」
「大浴場は外じゃありませんよ」
「ここ以外は外」
「範囲が広すぎます!」
優斗は呆れながらも、記録用紙を受け取った。
機関室を出ようとしたところで、千晴が呼び止める。
「優斗」
「はい?」
「白粥のことは、西村には言わないで」
「どうしてです?」
「調子に乗って、源泉に毎日供え始めるかもしれない」
「そこまでしませんよ」
「分からない」
「千晴さん、西村さんを何だと思ってるんですか?」
「料理人。だから怖い」
優斗は吹き出しそうになるのを堪えながら、機関室を出ていった。
一人になった千晴は、再び源泉計へ目を向ける。
針は安定している。
今のところは。
「……止まらないで」
誰にも聞こえない声で、千晴は小さく呟いた。
原因は分からない。
儀式も終わっていない。
地下には、硫黄を恐れない変異体が残っている。
復活した奇跡の湯が、いつまで湧き続けるのか。
それを知る者は、まだ誰もいなかった。
*
昼を過ぎる頃には、潮見亭はいつもの呼吸を取り戻し始めていた。
厨房では、西村が昼食の準備を進め。
薫子は、リリカとゆずの診察を行い。
中山は、地下で見た変異体について、真帆と千晴から聞き取った内容を記録している。
優斗は、撤退用にまとめた荷物を、一つずつ元の場所へ戻していた。
「せっかく詰めたのに……」
大きなリュックから缶詰を取り出しながら、優斗が呟く。
「使わずに済んだことを喜んでください」
真帆は、客室用の毛布を畳んでいた。
「それはそうですけど、昨日の俺、ものすごく頑張って詰めたんですよ」
「では、片づけも頑張りましょう」
「真帆さん、たまに厳しいですよね」
「若女将ですから」
その横では、リリカが座布団へ座り、折り畳まれた浴衣を眺めていた。
風呂から上がったあとは少し疲れた様子だったが、朝より顔色はよくなっている。
ゆずも隣の毛布の上で、前脚へ顎を載せていた。
「リリカちゃん。その浴衣を持ってもらえますか?」
「これ?」
「はい。そちらの棚へお願いします」
リリカは両手で浴衣を抱え、ゆっくりと立ち上がる。
薫子から、少しなら歩いてもいいと許可が出ていた。
慎重な足取りで棚まで運び、真帆が示した場所へ置く。
「ここ?」
「完璧です」
リリカは、少し嬉しそうに振り返った。
「これも、お客様の仕事?」
「いえ。それは従業員のお仕事です」
「やってはいけない?」
「体調がいい時に、少しだけなら」
真帆は考えてから付け加える。
「でも、無理をしないことが一番大切なお仕事ですよ」
「難しい……」
「何もしないのは、意外と難しいんです」
優斗が頷いた。
「千晴さんは得意そうですけど」
廊下のスピーカーが鳴った。
『聞こえてる』
「どこまで聞こえてるんですか!?」
『館内の主要箇所』
「怖いですよ!」
『無駄口を叩いてないで、荷物を戻して』
「はい……」
優斗は缶詰を抱え、肩を落とす。
リリカが真帆へ小声で尋ねた。
「千晴は、どこにいるの?」
「機関室です」
「ずっと?」
「だいたい、ずっとです」
「お客様?」
「従業員です」
「何もしないのに?」
今度は、真帆が返答に困った。
『全部聞こえてる』
千晴の冷たい声が、廊下へ響く。
「リリカちゃん。千晴さんは、見えないところでたくさん仕事をしているんです」
「見えないから、何もしてないと思った」
『合理的な疑問だけど、少し傷つく』
スピーカーから聞こえた言葉に、全員が一瞬黙った。
優斗が目を丸くする。
「千晴さんが、傷つくって言いました?」
『言ってない』
「今、言いましたよね?」
『通信を切る』
ぶつり、と音が消えた。
リリカは真帆を見上げる。
「怒った?」
「少しだけ、照れたんだと思います」
「難しい人」
「そうですね」
真帆と優斗は、同時に頷いた。
*
夕方。
真帆は帳場に座り、三年ぶりに宿帳を開いていた。
最後に名前が書かれたページには、三年前の日付が残っている。
楽しそうな家族連れ。
毎年訪れていた老夫婦。
修学旅行の引率教師。
そのすべてが、世界が壊れた日に途切れていた。
真帆は新しいページを開く。
日付を記す。
それから少し迷いながら、客の名前を書いた。
――リリカ。
住所は分からない。
年齢も、正確には分からない。
滞在日数も決まっていない。
それでも確かに、潮見亭を訪れた一人目の客だった。
「何を書いているの?」
声に顔を上げる。
帳場の前に、リリカが立っていた。
後ろには、足を引きずりながらついてきたゆずがいる。
「宿帳です」
「しゅくちょう?」
「潮見亭へ泊まったお客様のお名前を書いておく帳面です」
真帆はページをリリカへ見せる。
「ここに、リリカちゃんのお名前を書きました」
「わたしの名前……」
リリカは、鉛筆で記された文字へ指先を近づける。
触れる直前で止め、じっと見つめた。
「消えない?」
「帳面を大切に保管しておけば、消えません」
「ずっと残る?」
「はい」
真帆は微笑んだ。
「リリカちゃんが潮見亭へ来てくれたことは、ずっと残ります」
リリカは何も言わなかった。
しばらくして、名前の隣へ視線を移す。
「ここは?」
「備考欄です」
「何を書くの?」
「お客様について、覚えておきたいことを少しだけ」
「何て書くの?」
真帆は鉛筆を持ち直した。
「そうですね……」
少し考え、ゆっくりと文字を書き加える。
――白粥を美味しいと召し上がった。
「これでどうですか?」
リリカは、文字を読もうと目を細める。
「おいしい……」
「覚えていますか?」
「うん」
小さく頷く。
「温かかった」
「では、それも書きましょう」
真帆は備考欄へ、もう一言書き足した。
――温かいものがお好き。
「好きかどうか、分からない」
「嫌いでしたか?」
「……好き」
「では、間違っていませんね」
リリカは少しだけ笑った。
真帆は宿帳を閉じ、大切に棚へ戻す。
たった一人の名前。
それでも、三年間空白だった潮見亭の時間が、ようやく再び動き出したように思えた。
*
夜。
大浴場の掃除を終えた真帆が、最後の湯温を確認していると、壁のスピーカーが鳴った。
『真帆』
「はい?」
『今、大浴場に誰かいる?』
「いいえ。掃除も終わりました」
『湯温は?』
「四十二度です。千晴さんの指定どおりですよ」
『……そう』
不自然な沈黙。
真帆は首を傾げた。
「どうしました?」
『別に』
「もしかして、お風呂に入りたいんですか?」
『配管の現地確認』
「ゴーグルをつけたままですか?」
『外す』
「作業着で入るんですか?」
『着替える』
「それは、普通にお風呂へ入ると言うのでは?」
通信の向こうが静かになる。
「千晴さん」
『……十五分だけ』
「どうぞ、ごゆっくり」
『監視カメラは切って』
「最初から、脱衣所と浴場にはありませんよ」
『知ってる。確認しただけ』
「着替えとタオルを用意しておきますね」
『自分で持っていく』
「では、入口に置いておきます」
『話を聞いて』
真帆は笑いながら、通信を切った。
脱衣籠へ、清潔な浴衣とタオルを置く。
さらに少し考え、小さな札も添えた。
札には、筆でこう書かれている。
――本日最後のお客様 古賀千晴様。
数分後。
浴場へ続く廊下の奥から、足音が聞こえた。
やがて、脱衣所の前で止まる。
長い沈黙。
そして、館内スピーカーが鳴った。
『真帆』
「はい?」
『この札、今すぐ撤去して』
「お客様ではありませんか?」
『設備点検』
「ごゆっくりどうぞ」
『真帆』
真帆は返事をせず、帳場へ向かって歩き出した。
しばらくすると、浴場の方角から引き戸が閉まる音がした。
続いて、掛け湯の音。
やがて、誰かが湯船へ静かに身を沈める水音が聞こえた。
潮見亭には、温泉の流れる音が戻っていた。
厨房から漂う夕食の匂い。
廊下を歩く仲間たちの足音。
客室で休む、最初のお客様。
機関室からようやく出てきた、最後の入浴客。
地下には、まだ恐ろしいものが封じられている。
源泉が戻った理由も分からない。
儀式は途中で終わり、明日も同じように湯が湧いている保証はない。
それでも今夜だけは。
潮見亭に、ありふれた日常が戻っていた。
真帆は帳場の明かりを落とし、静かな館内へ向けて一礼する。
「潮見亭、本日の営業も無事終了です」
その直後。
『真帆』
浴場のスピーカーから、千晴の声が響いた。
『十五分経ったら教えて』
「長湯は禁止ですよ」
『分かってる』
「寝ないでくださいね」
『寝ない』
「去年、露天風呂で一時間――」
『それは真帆』
「あ、そうでした」
『……本当に信用できない』
千晴の呆れた声を聞きながら、真帆は小さく笑った。
潮見亭は、今日も開いている。
温かな湯と、食事と、少し変わった住人たちとともに。




