第十一話 何もしないお客様と、働きたがるリリカ
源泉が復活してから、二日目の朝。
潮見亭の館内には、久しぶりに穏やかな時間が流れていた。
大浴場の湯口からは、乳白色の温泉が一定の量で注がれている。
厨房では包丁の音が響き、廊下には炊きたての米と味噌汁の匂いが漂っていた。
窓の外には、朝日に照らされた相模湾。
地下に硫黄を苦にしない変異体が残っていることも。
復活した源泉が、いつまで湧き続けるのか分からないことも。
何一つ解決してはいない。
それでも、少なくとも今朝の潮見亭は平和だった。
「……おかしいですね」
本館二階の客室『潮騒』。
真帆は、きれいに畳まれたはずの布団を前にして首を傾げていた。
いや。
きれいに畳まれている、とは少し言い難い。
掛け布団は縦に細長く折られ、敷布団は無理やり丸められている。
枕は、その上へ落ちないよう絶妙な均衡で載せられていた。
布団というより、今にも崩れそうな白い塔だった。
「昨日、私が敷いた時は普通だったはずですが……」
「地震じゃないですか?」
後ろから覗き込んだ優斗が言う。
「布団だけを器用に畳む地震があるんですか?」
「新種の地震かもしれません」
「それなら千晴さんに調べてもらわないといけませんね」
「冗談です」
「分かりにくいです」
「千晴さんに言われたくない言葉ですね……」
二人が布団の塔を眺めていると、部屋の隅から小さな物音が聞こえた。
障子の陰。
そこから、淡い紫色の髪が少しだけ覗いている。
「リリカちゃん?」
「……はい」
観念したような声とともに、リリカが姿を現した。
古い着物から、潮見亭の子ども用の浴衣へ着替えている。
真帆が以前の宿泊客用に保管していたものだ。
淡い水色の生地に、小さな白い波模様が描かれている。
丈は少し長かったため、腰紐で調整していた。
「もしかして、このお布団を畳んでくれたんですか?」
リリカは視線を逸らしながら、小さく頷いた。
「昨日、真帆が畳んでいたから」
「ありがとうございます。でも、今日はまだ寝ていてもよかったんですよ」
「もう、起きました」
「体調は?」
「大丈夫」
リリカは両腕を広げ、元気であることを示そうとした。
だが、その直後。
ふらりと体が揺れる。
「危ない!」
真帆が慌てて肩を支えた。
「……ちょっとだけ、床が動いた」
「床は動いていません」
「じゃあ、地震?」
リリカが真顔で尋ねる。
優斗は笑いを堪えながら顔を背けた。
「優斗くん」
「笑ってません」
「まだ何も言っていませんよ」
「先に否定しておこうと思って」
真帆はリリカを座布団へ座らせた。
「薫子さんから、まだ無理に動いてはいけないと言われたでしょう?」
「でも、みんなは働いています」
「私たちは従業員ですから」
「わたしも働く」
「リリカちゃんはお客様です」
「お客様は、何もしない」
「そうです」
「昨日、教えてもらった」
「よく覚えていましたね」
真帆が微笑む。
だが、リリカの表情は晴れなかった。
「でも、何もしないと……暇です」
「暇なのは、悪いことではありませんよ」
「落ち着かない」
リリカは、畳まれた――というより積み上げられた布団を見た。
「みんなが働いているのに、わたしだけ何もしないのは変です」
「変ではありません」
「でも」
「まずは朝ご飯にしましょう」
真帆は話を切り替え、リリカへ手を差し出した。
「歩けますか?」
「歩けます」
「本当に?」
「……ゆっくりなら」
「では、ゆっくり行きましょう」
リリカは真帆の手を握った。
もう片方の手で、なぜか枕を持ち上げる。
「それは置いていって大丈夫ですよ」
「運びます」
「どこへ?」
「分からない」
「では、置いていきましょう」
「……はい」
リリカは少し残念そうに、枕を布団の塔へ戻した。
その瞬間。
均衡を失った布団が、一気に崩れ落ちた。
ぼふっ。
白い掛け布団がリリカの頭からすっぽりと被さる。
「リリカちゃん!」
「……大丈夫」
布団の中から、くぐもった声が聞こえた。
「少し、あたたかい」
「それはよかったですけど、まず出ましょう」
真帆と優斗は、布団の山からリリカを救出した。
*
朝食は、麦を混ぜたご飯と味噌汁。
それに、昨夜の残りの白身魚を甘辛く煮つけたものだった。
リリカには、胃へ負担をかけないよう、柔らかく煮た野菜と、細かくほぐした魚が出されている。
「今日は粥じゃねえぞ」
西村が、少し得意げに言った。
「普通の飯だ。まだ少なめだけどな」
「豪華?」
リリカが尋ねる。
「豪華だ」
「卵は?」
「今日は入ってねえ」
「豪華じゃない?」
「魚がある」
「じゃあ、豪華」
「基準が分かってきたじゃねえか」
西村は満足そうに頷いた。
真帆たちは食卓を囲み、静かな朝食を始めた。
食事中も、リリカは落ち着かない様子で周囲を見回している。
西村が空いた鍋を厨房へ運ぶ。
優斗が食べ終わった食器を重ねる。
薫子がゆずの包帯を確認する。
中山が手帳へ何かを書き込む。
真帆が全員の湯呑みへお茶を注ぐ。
誰もが、自分の役目を持っていた。
「真帆」
「はい?」
「それ、やります」
リリカが、真帆の持つ急須へ手を伸ばした。
「お茶を注ぐんですか?」
「うん」
「少し重いですよ」
「持てます」
言うより早く、リリカは両手で急須を持ち上げた。
だが、まだ体力が戻っていない。
急須は予想以上に重かったらしく、手元が大きく傾く。
「あっ」
湯呑みではなく、食卓へお茶が流れた。
「熱っ!」
向かいに座っていた優斗が、慌てて膝を引く。
「優斗くん!」
「大丈夫です! 今回は心じゃなくて、ちょっと指が熱かっただけです!」
「ごめんなさい……」
リリカが急須を置き、俯いた。
「気にするな」
西村が布巾を投げてよこす。
「客が茶をこぼしたくらいで怒る宿があるか」
「でも……」
「優斗なら、毎週何かしらこぼしてる」
「毎週はこぼしてません!」
「先週は味噌汁」
「あれは床が滑ったんです!」
「その前は醤油」
「蓋が緩かったんです!」
「その前は鍋」
「鍋はこぼしてません! 落としただけです!」
「もっと悪いじゃねえか」
西村の言葉に、リリカが顔を上げる。
真帆はすぐに布巾で食卓を拭いた。
「ほら。もうきれいになりました」
「怒らないの?」
「誰も怪我をしていませんから」
「優斗の指は?」
「大丈夫です!」
優斗は赤くなった指を隠し、力強く答えた。
「このくらい、千晴さんの手伝いで電線に触った時と比べれば――」
食事処のスピーカーが鳴った。
『何の話?』
「何でもありません!」
『電線に触った?』
「触ってません!」
『あとで機関室へ来て』
「どうしてですか!?」
『確認する』
「元気ですよ!」
『来て』
「はい……」
優斗は肩を落とした。
その姿を見て、リリカの口元がほんの少しだけ緩む。
真帆はそれを見て、安心したように微笑んだ。
*
朝食後。
真帆は玄関の掃除を始めた。
潮見亭の一日は、玄関から始まる。
たとえ客が一人しかいなくても。
外の世界がゾンビに支配されていても。
玄関へ砂や落ち葉が溜まっていることを、真帆は許さなかった。
箒で石畳を掃いていると、背後から小さな足音が近づいてくる。
「何をしているの?」
振り返ると、リリカが立っていた。
後ろには、包帯を巻いたゆずがゆっくりとついてきている。
「玄関のお掃除です」
「わたしもやります」
「リリカちゃんは、ゆずとお部屋で休むお約束では?」
「ゆずが歩きたいって」
「わふ」
「そう言ってる」
「ゆずのせいにしてはいけません」
ゆずは何も知らないという顔で、前脚を舐めている。
「少しだけ」
リリカは玄関脇に立てかけられていた、小さな箒へ手を伸ばした。
子ども用ではない。
狭い場所を掃くための短い箒だった。
「これなら、持てます」
「ですが――」
「少しだけ」
真帆は迷った。
体調が悪くなれば、すぐに休ませる。
玄関先なら危険も少ない。
「では、こちらの隅だけお願いします」
「分かりました」
「ゆっくりでいいですからね」
「はい」
リリカは真剣な顔で箒を握った。
そして、石畳の隅に溜まった落ち葉を掃き始める。
さっ。
さっ。
最初は順調だった。
だが、箒の使い方に慣れていないため、集めた落ち葉を自分の足で踏み散らしてしまう。
もう一度集める。
今度は箒の先で強く払いすぎて、落ち葉が玄関の中央へ飛ぶ。
「……増えた」
「大丈夫です。掃除とは、時々そういうものです」
「そうなの?」
「上手になるまでは」
リリカは再び箒を動かした。
数分後。
玄関の隅は、掃除を始める前よりも広範囲に落ち葉が散らばっていた。
「……難しい」
「少し休みましょうか」
「まだできます」
「顔色が悪くなっています」
「悪くない」
「では、ここへ座ってください」
「どうして?」
「若女将命令です」
真帆が縁台を示す。
リリカは不満そうだったが、箒を置いて腰を下ろした。
直後。
小さく息を吐き、胸元を押さえる。
「ほら。疲れたでしょう?」
「少しだけ」
「少しでも、今は休んでください」
真帆は水筒から白湯を注ぎ、リリカへ渡した。
リリカは両手で湯呑みを包み、ゆっくりと口をつける。
その足元では、ゆずも疲れたのか、縁台の下へ腹をつけていた。
「二人とも、無理をしすぎです」
「ゆずも?」
「もちろんです」
「わふ……」
「ゆずも反省してください」
ゆずは顔を背けた。
*
昼前。
真帆は客室用のシーツを干すため、中庭へ向かった。
洗濯機は動くようになったが、源泉設備と発電量がまだ安定していないため、電気を大量に使う乾燥機は使えない。
洗ったシーツは、一枚ずつ手で広げて干していた。
「よいしょ……」
真帆が大きなシーツを物干し竿へ掛ける。
すると反対側から、小さな手が布を掴んだ。
「持ちます」
「リリカちゃん」
またしても、いつの間にかついてきていた。
「お部屋で休んでいたのでは?」
「休みました」
「どのくらい?」
「たくさん」
「具体的には?」
「……五分」
「それは休んだとは言いません」
「でも、もう元気です」
リリカはシーツの端を持ったまま離そうとしない。
「これなら、重くないです」
「風に引っ張られますよ」
「大丈夫」
その瞬間。
海から強い風が吹き込んだ。
ばさっ!
大きなシーツが風を受けて膨らむ。
「きゃっ」
リリカの小さな体が、布に引かれて前へよろめいた。
「危ない!」
真帆が手を伸ばす。
だが、シーツは二人の頭へ覆いかぶさった。
真っ白な布の中。
真帆とリリカは、その場へしゃがみ込む。
「大丈夫ですか?」
「……白い」
「シーツですから」
「前が見えない」
「動かないでくださいね。今、外します」
真帆が布を持ち上げようとした時。
外側から、何かがシーツへ潜り込んできた。
「わふっ」
「ゆず?」
ゆずが真帆とリリカの間へ入り、その場で丸くなる。
「どうして寝るんですか?」
「落ち着くみたい」
「そういう問題でしょうか……」
白いシーツの下。
三人だけの小さな空間。
外からは、波の音と風の音が聞こえる。
リリカは少しだけ笑った。
「秘密の部屋みたい」
「潮見亭には、もっと立派なお部屋がありますよ」
「でも、ここも温かい」
ゆずの体温と、昼の日差しで温められたシーツ。
真帆は急いで外そうとしていた手を止めた。
「少しだけですよ」
「うん」
三人はしばらく、シーツの下で風が弱まるのを待った。
*
その後も、リリカは何か仕事を探し続けた。
厨房へ入り、西村の横で野菜を切ろうとする。
「包丁は駄目だ」
「じゃあ、魚」
「もっと駄目だ」
「火を見る」
「見てどうする」
「燃えてるか教える」
「俺にも見える」
西村に追い出された。
薫子のところへ行き、包帯を巻こうとする。
「まずは自分の体を治してください」
「ゆずなら?」
「ゆずの包帯は、私が巻きます」
「見てる」
「それなら構いません」
しかし真剣に見すぎて疲れ、途中でうとうとし始めた。
中山のところでは、記録用紙を運ぼうとする。
「これは地下の変異体に関する資料だ。触らない方がいい」
「じゃあ、鉛筆を持つ」
「何のために?」
「分からない」
「なら、持たなくていい」
ここでも仕事はもらえなかった。
最後に機関室へ向かったが、扉を開ける前にスピーカーから千晴の声がした。
『入らないで』
「まだ何もしてない」
『扉の前のカメラに映ってる』
「仕事をください」
『ない』
「何かあるはず」
『ない』
「掃除は?」
『私の工具の位置が変わるから駄目』
「物を運ぶ」
『落とすから駄目』
「数字を見る」
『読める?』
「……少し」
『何が読める?』
「一、二、三……いっぱい」
『駄目』
「何もしないのは、嫌」
スピーカーの向こうが、しばらく静かになった。
『……真帆のところへ戻って』
「仕事をくれない」
『私に子どもの扱いを期待しないで』
「子どもじゃない」
『じゃあ、なおさら自分の体調を管理して』
通信が切れた。
リリカは機関室の扉を、じっと見つめる。
「けち」
小さく呟いた直後。
『聞こえてる』
リリカは何も言わず、静かにその場を離れた。
*
午後。
真帆がリリカを見つけたのは、厨房裏の井戸水用貯水槽の近くだった。
リリカは小さな桶へ水を入れ、それを両手で運ぼうとしていた。
水は桶の半分ほど。
それでも、今のリリカには重すぎる。
腕を震わせながら、一歩ずつ進んでいる。
「リリカちゃん!」
真帆が駆け寄る。
驚いたリリカの手から、桶が滑り落ちた。
ばしゃんっ。
水が地面へ広がる。
「……ごめんなさい」
「怪我はありませんか?」
「大丈夫」
「どうして、こんなものを運んでいたんですか?」
「ゆずの水」
「ゆずの水は、お部屋にあります」
「少なくなってた」
「優斗くんに頼めばよかったでしょう?」
「自分でできると思った」
リリカは濡れた桶を見つめた。
「でも、できなかった」
「今はまだ、体力が戻っていないだけです」
「何もできない」
「そんなことはありません」
「全部、駄目って言われる」
リリカの声が震える。
「布団も駄目。お茶も駄目。掃除も、洗濯も、料理も駄目。千晴も仕事をくれない」
「それは、リリカちゃんに休んでほしいからです」
「でも、みんなは働いてる」
「私たちは元気ですから」
「わたしも、元気になった」
「まだ完全には――」
「何もしなかったら」
リリカが、真帆の言葉を遮った。
「何もしなかったら……いらないって言われる」
真帆の動きが止まった。
「誰に、そんなことを言われたんですか?」
「……分からない」
リリカは自分の胸元を掴んだ。
「覚えてない。でも、何もしないと、置いていかれる気がする」
断片的な記憶。
それとも、理由も分からないまま残った恐怖なのか。
リリカ自身にも分かっていない。
「だから、働く」
紫色の瞳に、涙が滲む。
「仕事をしたら、ここにいてもいい?」
真帆は、すぐには答えられなかった。
リリカにとって、働くことは誰かの役に立つためだけではない。
ここにいてもいい理由を作るためなのだ。
何もしない自分には価値がない。
役に立たなければ捨てられる。
そんな恐怖だけが、記憶を失った心へこびりついている。
真帆は濡れた地面へ膝をつき、リリカと目線を合わせた。
「リリカちゃん」
「……何?」
「潮見亭に泊まるために、仕事をする必要はありません」
「でも」
「お客様は、働いた代わりに泊めてもらうわけではありません」
真帆は、冷たくなったリリカの手を包む。
「疲れた人が休むために、旅館はあるんです」
「何もできなくても?」
「はい」
「役に立たなくても?」
「リリカちゃんは、道具ではありません」
真帆は、はっきりと言った。
「誰かの役に立てるかどうかで、ここにいていいかを決める必要はありません」
「でも、わたしは……」
「リリカちゃんが潮見亭へ来てくれた。それだけで、私にとっては十分です」
「どうして?」
「ずっと待っていたからです」
真帆は微笑む。
「私は三年間、いつか誰かが潮見亭へ来てくれると信じて、玄関を掃いて、お部屋を整えてきました」
「わたしを?」
「リリカちゃんだとは知りませんでしたけどね」
「……知らなかったの?」
「はい。名前も、顔も知りませんでした」
「変なの」
「そうですね」
真帆は小さく笑った。
「でも、リリカちゃんが最初のお客様になってくれました」
「お客様……」
「だから、仕事をしなくても、ここにいていいんです」
「ずっと?」
真帆は少しだけ言葉を選んだ。
外の世界は危険に満ちている。
源泉がいつまで続くのかも分からない。
潮見亭そのものが、永遠に安全である保証もない。
それでも。
「少なくとも、今は何も心配しなくて大丈夫です」
真帆はリリカの手を、もう一度握った。
「リリカちゃんは、潮見亭の大切なお客様です」
リリカは俯いたまま、しばらく動かなかった。
やがて、小さな声で尋ねる。
「じゃあ、働かなくても怒らない?」
「怒りません」
「水をこぼしても?」
「怪我がなければ」
「布団が崩れても?」
「畳み直せば済みます」
「お茶をこぼしても?」
「優斗くんの指が少し熱くなるくらいです」
「俺、まだ少し赤いですよ!」
いつの間にか、厨房の角から優斗が顔を出していた。
「優斗くん。いつから聞いていたんですか?」
「水をこぼした音がしたところからです」
「なら、早く出てきてください」
「いい話だったので、出るタイミングを失いました」
優斗は新しい水の入った器を持ってくる。
「ゆずの水は、俺が運びます」
リリカが器を見る。
「仕事を取った」
「これは俺の仕事です」
「ずるい」
「じゃあ、一緒に行きますか?」
「いいの?」
「持つのは俺です。リリカちゃんは、ゆずのところまで案内してください」
「場所、知ってる?」
「知ってますけど、案内してもらいたい気分なんです」
リリカは少し考えたあと、頷いた。
「分かりました」
真帆は、ようやく表情を緩めた。
*
夕方。
真帆は裏庭へリリカを連れていった。
潮見亭の庭には、祖父の代から大切にされてきた椿の木がある。
赤。
白。
淡い桃色。
冬の名残を残す花が、海風に揺れていた。
「きれい……」
リリカが小さく呟く。
「リリカちゃんに、一つだけお願いしたいお仕事があります」
「仕事?」
先ほどまで沈んでいた紫色の瞳が、わずかに輝く。
「はい。ただし、潮見亭にいるために必要なお仕事ではありません」
「しなくても、ここにいていい?」
「もちろんです」
「じゃあ、やる」
「まだ内容を言っていませんよ」
「何でもやる」
「何でもは困ります」
真帆は苦笑しながら、椿の木を示した。
「この中から、一番きれいだと思う花を一輪、選んでください」
「選ぶだけ?」
「大切なお仕事です」
「どうして?」
「客室に飾ります」
真帆は花切り鋏を手に取った。
「潮見亭では、お客様に季節を感じていただくため、お部屋へ花を飾っていました」
「今のお客様は、わたしだけ」
「だからこそ、リリカちゃんが好きな花を選んでほしいんです」
リリカは椿の木々を見回した。
赤い花へ近づく。
次に、桃色の花を見る。
最後に、白い椿の前で足を止めた。
真っ白な花弁の中央に、黄色い雄しべが集まっている。
「これ」
「白い椿ですね」
「潮騒の部屋にあった花と同じ」
「覚えていたんですか?」
「うん」
真帆は、選ばれた椿を鋏で切った。
リリカへ渡す。
「落とさないように、優しく持ってくださいね」
「水みたいに?」
「水より軽いです」
「じゃあ、できる」
二人は客室『潮騒』へ戻った。
真帆が小さな花瓶を用意し、水を入れる。
リリカは白い椿を、そっと花瓶へ挿した。
少し右へ傾く。
直そうとして、今度は左へ傾く。
何度か調整した末、椿は海を望むような角度で落ち着いた。
「できた」
「とてもきれいです」
「本当?」
「はい」
真帆は花瓶を床の間へ置いた。
朝日に照らされた海。
淡い水色の浴衣。
白い椿。
ほんの少し前まで冷え切っていた客室に、ようやく温かな生活の気配が生まれていた。
「この花を見たお客様は、うれしい?」
「きっと、うれしいと思います」
「今のお客様は、わたしだけ」
「そうですね」
「じゃあ、わたしがうれしいから、成功?」
「大成功です」
リリカは白い椿を見つめた。
「これで、わたしも潮見亭の人?」
真帆は一瞬、答えに迷った。
従業員にするには、まだ幼く、体も回復していない。
それに、仕事をしなければここにいられないという誤解を、再び与えたくはなかった。
「今は、潮見亭の大切なお客様です」
「まだ、お客様?」
「はい」
「いつまで?」
「リリカちゃんが元気になったら、その先のことは一緒に考えましょう」
「働くことも?」
「働かないこともです」
「働かないことも、考えるの?」
「とても大切です」
リリカは難しそうに眉を寄せた。
やがて、ゆっくりと頷く。
「分かりました」
「本当に?」
「たぶん」
「薫子さんに怒られる答えですね」
「たぶんじゃ駄目?」
「今は、それでもいいことにしましょう」
足元では、ゆずが毛布の上で丸くなっていた。
リリカはその隣へ腰を下ろす。
「ゆず」
「わふ」
「わたしの仕事、終わった」
「わふ」
「上手だった?」
ゆずは答える代わりに、リリカの膝へ顎を載せた。
「重い」
「それは、ゆずからの合格という意味ですよ」
「そうなの?」
「たぶん」
真帆が答えると、リリカが顔を上げた。
「真帆も、たぶんって言った」
「言いましたね」
「薫子に怒られる」
「内緒にしてください」
「分かりました」
リリカは初めて、はっきりと笑った。
*
夜。
真帆が館内の見回りを終え、客室『潮騒』の前を通ると、中から小さな寝息が聞こえてきた。
障子を少しだけ開ける。
布団の中では、リリカが眠っていた。
枕元には、白い椿。
その隣には、ゆずが体を丸めている。
リリカの片手は、ゆずの背中へそっと添えられていた。
働かなければ。
役に立たなければ。
捨てられてしまう。
そんな恐怖が、すぐに消えることはないだろう。
失われた記憶の中で、リリカが何を経験してきたのかも分からない。
それでも、潮見亭にいる間だけは。
何もしなくても、安心して眠れる場所でありたい。
真帆は音を立てないよう、障子を閉めた。
廊下へ出ると、壁のスピーカーから千晴の声が聞こえた。
『寝た?』
「はい。ゆずと一緒に」
『そう』
「気になっていたんですか?」
『別に』
「機関室へ仕事をもらいに行ったそうですね」
『断った』
「どうしてです?」
『工具を触られたくないから』
「それだけですか?」
少しの沈黙。
『……倒れたら困る』
「優しいですね」
『違う』
「では、そういうことにしておきます」
『源泉計の数値は安定してる』
千晴は話を変えた。
『今夜は、たぶん止まらない』
「たぶん、ですか」
『絶対とは言えない』
「分かりました」
真帆は廊下の窓から、暗い庭を見つめた。
湯小屋の煙突からは、白い蒸気が静かに立ち上っている。
源泉は、今夜も湧いている。
地下には変異体が残り。
儀式も終わっていない。
明日も同じ朝を迎えられる保証はない。
だからこそ。
今日一日を、無事に終えられたことを大切にしたかった。
「千晴さん」
『何?』
「今日も一日、お疲れさまでした」
『……まだ仕事中』
「夜更かしは駄目ですよ」
『源泉計を見る人が必要』
「優斗くんと交代してください」
『数字を読み間違える』
「教えてあげてください」
『時間がかかる』
「今後のためです」
『面倒』
「千晴さん」
『……あとで考える』
「たぶん、ですか?」
通信の向こうで、短い沈黙が流れる。
『真帆』
「はい?」
『今日、リリカが選んだ花』
「白い椿です」
『監視カメラで見た』
「きれいでしょう?」
『……悪くない』
ぶつり、と通信が切れた。
真帆は小さく笑う。
客室では、初めてのお客様が眠っている。
温かな布団と。
怪我をした柴犬と。
自分で選んだ、一輪の白い椿に囲まれて。
潮見亭は今日も、客を迎える宿として静かな夜を過ごしていた。




