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第十二話 眠らない設備係と、機関室への強制配膳

 初夏の朝日が、相模湾の水面を白くきらめかせていた。


 夜の間に海から流れてきた薄い霧は、崖の下へゆっくりと沈み、潮見亭の庭では濡れた紫陽花の葉が風に揺れている。湯小屋の煙突から立ち上る白い蒸気も、今朝はまっすぐ空へ昇っていた。


 源泉が戻ってから、潮見亭には少しずつ以前の日常が帰ってきている。


 大浴場には湯が張られ、厨房では温かい朝食を作ることができる。館内の照明も点き、冷蔵庫や濾過装置も、低い機械音を響かせながら動いている。


 少なくとも、表面上は平穏だった。


 ただ一つ。


 今朝の館内放送だけが、いつもより少しおかしかった。


『本日の大浴場は、午前六時から使用可能。湯温は四十二・三度。入浴前には必ず朝食を――』


 そこで放送が途切れた。


 朝食を並べていた優斗が、食事処の天井を見上げる。


「入浴前に朝食を食べろってことですか?」


「空腹で長湯するよりは安全だが、妙な言い方だな」


 西村が味噌汁の鍋を運びながら眉を寄せる。


 数秒後。


 再びスピーカーが鳴った。


『訂正。入浴前には掛け湯を。朝食は食事処で食べて』


「それは分かってます」


 優斗が答える。


『あと、午前中は露天風呂の使用を禁止。北側配管の圧力が――』


 またしても、放送が途中で止まった。


「千晴さん、どうしたんでしょう」


 真帆は配膳の手を止めた。


「昨日の夜から、ずっと機関室にいるんですよね?」


「ああ」


 西村が不機嫌そうに答える。


「夕飯も取りに来なかった。持っていったら、あとで食うって追い返された」


「食べたんですか?」


「器がそのままなら、食ってねえだろうな」


 真帆の表情が曇る。


 昨夜、客室『潮騒』の前で話した時も、千晴は源泉計を監視していると言っていた。


 あれから、きちんと眠ったのだろうか。


『真帆』


 館内放送から、千晴の声がした。


「はい?」


『源泉の圧力は正常。北側配管も問題ない』


「それなら、どうして露天風呂は禁止なんですか?」


 しばらく返事がない。


『……何の話?』


「今、千晴さんが放送で言いましたよ」


『私が?』


「はい」


 また、沈黙。


『午前中は使用可』


「さっきと逆です!」


『訂正。使っていい』


 ぶつり、と通信が切れた。


 食事処に、何とも言えない空気が流れる。


 西村が大きく息を吐いた。


「ありゃ寝てねえな」


「ですね」


 真帆は即座に頷いた。


「優斗くん」


「はい」


「千晴さんの朝食を運びます」


「今度は追い返されませんか?」


「追い返されても置いてきます」


「強いですね」


「若女将ですから」


 真帆は千晴の分の膳を盆へ載せた。


 麦飯。


 味噌汁。


 白身魚の煮つけ。


 柔らかく煮た大根。


 食後のお茶。


 それを見た西村が、さらに小さな皿を追加する。


 皿には、だし巻き卵が二切れ載っていた。


「これは?」


「食わせろ」


「千晴さん、朝から食べ切れますかね」


「食わなきゃ、口に突っ込め」


「それは西村さんがしてください」


「俺が行ったら、工具で追い返される」


「俺たちなら追い返されないんですか?」


「真帆ちゃんには弱い」


「そうでしょうか?」


「お前よりはな」


 優斗は納得できない顔をしながらも、真帆とともに機関室へ向かった。


     *


 機関室の扉を開けると、重い機械油と金属の匂いが漂ってきた。


 復活した蒸気タービンは、低い唸りを響かせながら回転を続けている。


 壁の配管を湯と蒸気が通り、床からは一定の振動が伝わっていた。


 部屋の中央では、千晴が制御盤の前に立っている。


 紺色の作業着。


 額へ上げたゴーグル。


 片手には記録用の鉛筆。


 いつもと変わらない姿に見えた。


 ただし、髪は普段以上に乱れ、目の下には濃い隈ができている。


 作業台には、手をつけられていない昨夜の夕食が置かれていた。


「千晴さん」


「何?」


「朝食です」


「そこに置いて」


「昨夜の夕食も、そこに置いてあります」


「あとで食べる」


「昨夜もそう言いました」


「今、忙しい」


 千晴は真帆を見ようともせず、計器の数値を書き込む。


 だが、鉛筆の先は、すでに数字が書かれている場所を何度もなぞっていた。


「千晴さん」


「何?」


「今、同じ数字を三回書いています」


 千晴の手が止まる。


 記録用紙を見る。


 同じ時刻の欄に、同じ数値が三つ並んでいた。


「……記録を強調しただけ」


「苦しいです」


「重要な数値だから」


「三回書くほどですか?」


「念のため」


 優斗が横から記録を覗き込む。


「時刻も三つとも同じですけど」


「見ないで」


 千晴は記録用紙を裏返した。


「食事は置いていって。今は源泉から目を離せない」


「食べ終わるまで、ここにいます」


「邪魔」


「では、邪魔にならない場所にいます」


「機関室に邪魔にならない場所はない」


「それなら、食べて早く帰してください」


 真帆は作業台に残っていた昨夜の膳を下げ、新しい朝食を置いた。


 千晴は露骨に嫌そうな顔をする。


「源泉がまた止まるかもしれない」


「食事をしている間にですか?」


「可能性はある」


「止まりそうになったら、計器が教えてくれるんですよね?」


「計器を見て判断する人が必要」


「食べながら見ればいいじゃないですか」


「行儀が悪い」


「今さらですか?」


 真帆に押し切られ、千晴は渋々パイプ椅子へ腰を下ろした。


 箸を取る。


 だし巻き卵へ伸ばしかけた手が、途中で止まった。


「これ、西村?」


「はい」


「頼んでない」


「食べてほしいそうです」


「余計なことを」


 そう言いながら、千晴は最初に卵を口へ運んだ。


 優斗がそれを見て、にやりと笑う。


「何?」


「いえ。卵から食べるんだなと思って」


「冷めると食感が変わるから」


「好きだからじゃなくて?」


「違う」


「まだ何も言ってませんよ」


「顔に書いてある」


 千晴は味噌汁を一口飲んだ。


 温かい汁が喉を通ったためか、わずかに肩から力が抜ける。


 だが、その視線はすぐに源泉計へ戻った。


「ずっと監視していたんですか?」


 真帆が尋ねる。


「ずっとではない」


「眠ったんですか?」


「目は閉じた」


「何時間?」


「時間は測ってない」


「どこで?」


「ここ」


「椅子で?」


「作業台」


 優斗が作業台を見る。


「机に伏せたんですか?」


「少しだけ」


「どのくらいです?」


「……十二分」


「寝たうちに入りませんよ!」


「意識は回復した」


「回復していません!」


 優斗の大声に、千晴が顔をしかめる。


「声が大きい」


「千晴さんが無茶をするからです!」


「源泉が安定してない」


 千晴は箸を置き、机いっぱいに広げた記録を示した。


「圧力は一応、許容範囲に収まってる。でも小さな変動が続いてる。儀式は最後まで終わってないし、いつまた止まるかも分からない」


「だから、眠らないつもりですか?」


「安定するまで」


「いつ安定するんです?」


「分からない」


「一週間かかったら?」


「一週間監視する」


「倒れますよ!」


「倒れる前に交代要員を用意する」


 千晴は優斗を見た。


「優斗が覚えればいい」


「俺ですか?」


「他に誰がいるの」


「今、初めて聞きました!」


「今、決めたから」


 千晴は残りの味噌汁を飲み干し、立ち上がった。


「食べた。もう戻って」


「まだ半分残っています」


「あとで食べる」


「その言葉は信用できません」


 真帆が魚の皿を千晴の前へ戻す。


「全部とは言いません。せめて、もう少し食べてください」


「真帆」


「駄目です」


「まだ何も言ってない」


「顔に書いてあります」


 千晴はしばらく真帆を見つめた。


 やがて諦めたように、再び箸を取る。


「……面倒」


「よく言われます」


「褒めてない」


「知っています」


     *


 朝食を終えたあと。


 千晴は優斗を、制御盤の前へ立たせた。


「まず、これが主源泉の圧力計」


「はい」


「こっちが温度。隣が流量」


「はい」


「今の数値を読んで」


 優斗は圧力計へ顔を近づけた。


 丸い文字盤の中で、細い針が小刻みに震えている。


「四十六です」


「〇・四六」


「同じじゃないですか?」


「全然違う」


「点が小さすぎません?」


「点を消したら配管が破裂する」


「そんなに重要なんですか!?」


「数字は全部重要」


 千晴は赤い鉛筆で、圧力計の文字盤へ印をつける。


「針がこの緑の範囲にあれば正常。黄色まで下がったら記録して、三分続いたら私を呼ぶ」


「赤まで下がったら?」


「すぐ呼ぶ」


「何か操作は?」


「しない」


「でも、急いで弁を開けたり――」


「絶対に触らない」


 千晴は優斗をまっすぐに見た。


「分からない状態で触るくらいなら、何もしない方がいい」


「でも、壊れそうだったら?」


「非常停止だけは使っていい。ただし、私か真帆の許可を取ってから」


「間に合わなかったら?」


「その時は押す」


「難しいですね……」


「だから覚える」


 次に、温度計。


 流量計。


 タービンの回転数。


 発電量。


 貯水槽の水位。


 千晴は一つずつ説明していく。


 優斗は記録用紙へ必死に書き込んだ。


「主源泉の温度が下がったら、まず千晴さんを呼ぶ。流量が落ちても呼ぶ。回転数が上がりすぎても呼ぶ」


「全部呼ぶになってる」


「駄目なんですか?」


「間違って触るよりはいい」


「つまり、俺の仕事は千晴さんを呼ぶことですね」


「最初は」


「そのうち、何か操作してもいいんですか?」


「覚えたら」


「どのくらいで覚えられます?」


「優斗次第」


「頑張ります!」


 優斗は圧力計の数値を書き込んだ。


 千晴が紙を見る。


「〇・四六じゃなくて、〇・六四になってる」


「逆でした?」


「逆」


「似てますね」


「似てない」


「千晴さん、これ本当に俺に任せる気あります?」


「今、少しなくなった」


「早いですよ!」


 真帆は二人のやり取りを見守りながら、食器を盆へ戻した。


 源泉計の針は、今のところ緑の範囲で安定している。


 しかし千晴が心配する理由も分かっていた。


 昨夜戻った湯が、今夜も湧き続ける保証はない。


 地下で行った儀式は途中で終わっている。


 何が源泉を復活させたのかも分からない。


 しかも地下には、硫黄を苦にしない変異体が残されている。


 調査へ降りることも、儀式をやり直すことも、現時点ではできない。


 だからこそ、今ある湯の変化を見逃したくないのだろう。


 だが――。


「千晴さん」


「何?」


「目を閉じていますよ」


 千晴の瞼が、ゆっくりと上がった。


「閉じてない」


「今、閉じてました」


「まばたき」


「十秒くらいありましたよ」


「長めのまばたき」


「寝てます!」


「寝てない」


 優斗が呆れていると、制御盤から短い電子音が鳴った。


 ぴっ。


 三人の表情が変わる。


「圧力が下がってる」


 千晴は即座に計器へ顔を向けた。


 主源泉の針が、緑の範囲からわずかに下がり、黄色へ近づいている。


「また止まるんですか?」


「静かに」


 千晴は流量計と温度計を確認した。


「温度は変化なし。流量だけ増えてる」


「湯が出すぎて、圧力が下がった?」


 優斗が尋ねる。


「たぶん」


 千晴は館内図へ手を伸ばした。


「今、どこかで大量に湯を使ってる」


「大浴場は掃除中です」


 真帆が答える。


「露天風呂も閉じています」


「家族風呂は?」


「使っていません」


「客室の給湯は?」


「リリカちゃんが顔を洗うくらいです」


「それだけじゃ、この流量にはならない」


 千晴は内線のスイッチを入れた。


『西村。厨房で湯を使ってる?』


『使ってねえ。朝飯も終わった』


『薫子は?』


『医務室では使っていません』


 千晴は館内図を見つめる。


「旧館側」


「誰もいませんよ」


 優斗が言う。


「だから確認する」


 千晴は工具を取ろうとした。


 しかし、椅子から立ち上がった瞬間。


 体が大きく揺れた。


「千晴さん!」


 優斗が慌てて腕を支える。


 千晴の手から、古いモンキーレンチが床へ落ちた。


 がしゃんっ。


 乾いた金属音が、機関室へ響く。


「離して」


「無理です!」


「旧館の弁を確認しないと」


「俺が行きます」


「場所が分からないでしょ」


「教えてください!」


 千晴は何か言い返そうとした。


 だが言葉が出る前に、目を強く閉じる。


「……少し、立ちくらみ」


「少しじゃありません!」


 真帆は内線のボタンを押した。


「薫子さん。機関室へ来てください。今すぐです」


『何がありました?』


「千晴さんが倒れかけました」


「倒れてない」


「倒れかけました」


『すぐ行きます』


 千晴は優斗の腕を振りほどこうとしたが、力が入っていない。


「旧館の弁が――」


「場所を教えてください」


 優斗がもう一度言った。


「俺が見てきます」


「一人では駄目」


「真帆さんと行きます」


 真帆が頷く。


「案内してください」


 千晴は不満そうに二人を見た。


 やがて諦め、館内図の一点を指差す。


「旧館一階。元従業員用の浴室。廊下の突き当たりに点検口がある」


「弁は?」


「青い取っ手。閉じてるはずだから、触らずに状態だけ確認」


「開いていたら?」


「時計回りに閉める。でも、固かったら無理に回さない」


「分かりました」


「配管から異音がしたら、近づかない」


「はい」


「あと――」


「それ以上は無線で聞きます」


 優斗は無線機を持ち、真帆とともに機関室を飛び出した。


     *


 旧館は、薄暗く静まり返っていた。


 窓から朝日が差し込んでいるが、使われなくなった客室や廊下には、冷たい空気が残っている。


「こちらです」


 真帆が先に立ち、廊下の奥へ進んだ。


 元従業員用の浴室。


 今は物置同然になっている小さな脱衣所の壁に、四角い点検口があった。


 優斗が蓋を開ける。


「青い取っ手……ありました」


『状態は?』


 無線機から千晴の声が聞こえる。


「斜めになってます」


『斜め?』


「完全に横でも縦でもないです」


『半開きになってる』


「どうしてです?」


『自動弁が途中で止まったか、圧力が戻った時に動いた』


「閉めてもいいですか?」


『ゆっくり時計回り。異音がしたら止めて』


「分かりました」


 優斗は青い取っ手へ手を掛けた。


 力を込める。


「固い……!」


「私も手伝います」


「千晴さんが、無理に回すなって」


「では、少しずつ」


 二人でゆっくりと取っ手を回す。


 ぎっ。


 古い金属が擦れる音。


 取っ手が、わずかに動いた。


『音は?』


「少し鳴ってます」


『甲高い音? 低い音?』


「ぎぎぎって感じです」


『分からない』


「どう説明すればいいんですか!?」


『配管の振動は?』


 優斗が配管へ手を近づける。


 触れる前に、真帆が止めた。


「熱くないか確認してください」


「そうでした」


 手の甲を近づける。


「少し温かいです。でも触れます」


『なら続けて』


 さらに取っ手を回す。


 やがて、がちん、と音がして止まった。


「閉まりました!」


『圧力を確認する』


 無線の向こうで、紙をめくる音がする。


 数秒後。


『上がってきた』


「直ったんですか?」


『原因は旧館浴室の給湯弁。閉じた信号は出てたのに、実際には半開きだった』


「源泉が止まりかけたわけではない?」


『今回は違う』


 真帆と優斗は、同時に息を吐いた。


「よかった……」


『喜ぶのは戻ってから。点検口を閉めて』


「はい」


 優斗は点検口の蓋を戻した。


 その顔には、わずかな達成感が浮かんでいる。


「俺、役に立てましたかね」


「もちろんです」


「でも、ほとんど千晴さんの指示どおりに動いただけです」


「それが大切なんです」


 真帆は微笑んだ。


「勝手な判断をせず、指示を聞いて、必要な作業をした。十分立派ですよ」


「千晴さんも、そう言ってくれますかね」


「どうでしょう」


「そこは言い切ってくださいよ」


「千晴さんですから」


「ですよね……」


 二人は苦笑しながら、機関室へ戻った。


     *


 機関室では、千晴がパイプ椅子へ座らされていた。


 その前には、薫子が立っている。


「睡眠不足。軽い脱水。食事不足。疲労による判断力の低下」


 薫子は一つずつ、診断結果を並べていた。


「放っておけば、今度こそ本当に倒れます」


「今は倒れてない」


「倒れてからでは遅いんです」


「源泉の監視が必要」


「あなたが倒れて、誤った操作をする方が危険です」


 千晴の口が止まった。


 薫子は逃がさないというように、腕を組む。


「最低でも六時間、休んでください」


「長すぎる」


「六時間です」


「二時間」


「六時間」


「三時間」


「交渉ではありません」


「機械は待ってくれない」


「人間の体も待ってくれません」


 真帆と優斗が戻ってくる。


「弁は閉まりました」


 優斗が報告した。


「圧力も戻っています」


「記録は?」


「え?」


「閉めた時刻。取っ手の状態。音。配管の温度」


「そこまでは……」


「記録してないの?」


「すみません!」


 千晴が立ち上がろうとする。


 薫子が肩を押さえた。


「座ってください」


「優斗に教える」


「口で教えられます」


 優斗は慌てて記録用紙を取り出した。


「閉めたのは七時四十二分くらいです。弁は半開き。配管は手で触れられるくらい。音は、ぎぎぎって――」


「それでいい」


「いいんですか?」


「擬音はあとで直す」


「やっぱり駄目なんですね」


 千晴は記録用紙を受け取り、確認する。


「字が汚い」


「急いで書いたので」


「数字の六とゼロが似てる」


「直します」


「時刻には分をつけて」


「はい」


 千晴は紙を返した。


「でも、報告はできてる」


「それは……褒めてます?」


「事実を言っただけ」


 優斗の顔が明るくなった。


 薫子は、その様子を見て結論を出す。


「監視は優斗さんに任せましょう」


「まだ無理」


 千晴が即座に否定する。


「一人では無理です」


 真帆が言った。


「ですから、優斗くんが監視し、数値に変化があれば千晴さんを起こします」


「変化を見落とすかもしれない」


「警報もありますよね?」


「あるけど――」


「正常範囲を色で分かるようにしていました」


「それだけじゃ足りない」


「記録用紙もあります」


「書き間違える」


「直します!」


 優斗が力強く答える。


「絶対に勝手な操作はしません。数値が変わったら、すぐに呼びます」


「……絶対?」


「絶対です」


「赤いレバーは?」


「勝手に触らない」


「圧力が黄色に入ったら?」


「記録して、三分続いたら呼ぶ」


「赤なら?」


「すぐ呼ぶ」


「温度が下がったら?」


「流量も確認して、すぐ報告する」


「配管から異音がしたら?」


「近づかない。場所を確認して、千晴さんを呼ぶ」


 千晴は優斗をじっと見つめた。


「非常停止は?」


「千晴さんか真帆さんの許可を取る。間に合わない時だけ押す」


「……覚えてる」


「必死でしたから」


「なら、二時間」


「六時間です」


 薫子が割り込む。


「三時間」


「六時間」


「四時間」


「六時間」


「五時間」


「増えましたね。あと一時間です」


「……面倒」


「六時間後に聞きます」


 薫子は有無を言わせず、千晴の腕を取った。


「休憩室へ行きます」


「自分で歩ける」


「先ほど倒れかけた人の言葉は信用できません」


「倒れてない」


「その主張は、もう聞きました」


 千晴は連れていかれながら、何度も振り返る。


「優斗」


「はい!」


「十分ごとに記録」


「一時間ごとじゃなかったんですか?」


「最初だから十分」


「細かい!」


「圧力が〇・〇三以上変化したら呼ぶ」


「はい」


「タービンの音が変わっても呼ぶ」


「はい」


「眠くなったら――」


「交代します」


 真帆が答えた。


「真帆は数字を読める?」


「今から優斗くんに教えてもらいます」


「不安」


「安心して休んでください」


「できない」


 千晴の声が廊下の向こうへ消えていく。


 やがて完全に聞こえなくなると、優斗は大きく息を吐いた。


「……責任重大ですね」


「大丈夫です」


「根拠は?」


「私もいますから」


「真帆さん、圧力計を温度計と間違えてませんでした?」


「これから覚えます」


「急に不安になってきました」


     *


 機関室の隣にある従業員用休憩室。


 普段は物置として使われている小さな和室へ、真帆が急いで布団を敷いた。


 薫子に連れてこられた千晴は、部屋の入り口で立ち止まる。


「機関室から遠い」


「壁一枚向こうです」


「計器が見えない」


「警報音は聞こえます」


「優斗が何か触るかもしれない」


「触らないと約束しました」


「真帆が触るかもしれない」


「私への信用が低すぎませんか?」


「去年、露天風呂の排水栓を間違えて抜いた」


「一度だけです」


「浴槽が空になった」


「一度だけです」


 薫子が千晴の背中を押す。


「横になってください」


「眠れない」


「目を閉じるだけでも構いません」


「十二分なら寝た」


「六時間です」


「長い」


「返事をする元気があるなら、まだ余裕がありますね」


 千晴は不満そうに布団へ座った。


 額のゴーグルを外す。


 腰の工具袋も外し、枕元へ置いた。


 最後に父親から受け継いだモンキーレンチを布団の横へ置く。


「武器ですか?」


 真帆が尋ねる。


「工具」


「寝る時も必要ですか?」


「何かあった時に使う」


「何も起こらないよう、私たちが見ています」


「……信用できない」


「先ほどから、そればかりですね」


 千晴は布団へ横になる。


「六時間は長い」


「おやすみなさい」


「四時間で起こして」


「六時間です」


「五時間」


「おやすみなさい」


「真帆」


「はい?」


「源泉計が黄色に入ったら――」


 そこで、千晴の言葉が途切れた。


 真帆は返事を待つ。


 だが、続きは聞こえなかった。


 千晴は目を閉じたまま、規則正しい寝息を立て始めている。


「……眠るの、早いですね」


「限界だったのでしょう」


 薫子は千晴の手首へ触れ、脈を確認した。


「これで少しは安心です」


「機関室の方が不安ですけど」


「任された人を信じることも、休むためには必要です」


 真帆は眠る千晴へ毛布を掛ける。


 起きている時の険しい表情が消えると、年齢よりも少し幼く見えた。


「六時間、きちんと寝かせましょう」


「はい」


 二人は音を立てないよう、休憩室を出た。


     *


 機関室では、優斗が一人、制御盤の前に座っていた。


 正確には、一人と二匹――ではなく、一人と一人と一匹だった。


「何をしているの?」


 リリカが、機関室の入り口から顔を覗かせていた。


 その足元には、包帯を巻いたゆずが座っている。


「源泉の監視です」


「監視?」


「お湯がちゃんと出ているか、機械の数字を見てるんです」


「千晴は?」


「寝ています」


 リリカの目が少し大きくなる。


「千晴も寝るの?」


「人間ですからね」


「機関室に住んでると思ってた」


「俺も少し思ってました」


 優斗は記録用紙へ数値を書き込む。


 今度は、〇・四六。


 点の位置も間違えていない。


「リリカちゃんは、真帆さんとお部屋にいたんじゃ?」


「ゆずが歩きたいって」


「また、ゆずのせいにしてませんか?」


「わふ」


 ゆずは否定とも肯定ともつかない声を出した。


「機関室には危ないものが多いので、中へ入らないでください」


「見るだけなら?」


「入り口からなら」


 リリカは扉の前へ座った。


 ゆずもその隣へ伏せる。


「優斗の仕事は、数字を見ること?」


「そうです」


「動かない?」


「基本的には」


「何もしないのと同じ?」


「違いますよ。見守るのも大事な仕事です」


 リリカは少し考える。


「わたしと同じ」


「そうですね」


「わたしは、ゆずを見守る仕事」


「俺は、源泉を見守る仕事です」


「何もしないけど、大切」


「その通りです」


 リリカは満足したように頷いた。


 しばらくの間、機関室にはタービンの回転音と、鉛筆が紙を擦る音だけが響いた。


 十分後。


 優斗は、もう一度数値を確認する。


 圧力、正常。


 温度、正常。


 流量、正常。


「よし」


「何が、よし?」


「全部、問題ありません」


「お湯は止まらない?」


「今のところは」


 リリカは源泉計を見つめる。


「止まらないでほしい」


「俺もです」


 優斗は、針が緑の範囲にあることを確かめた。


 責任は重い。


 怖くないわけではない。


 それでも、千晴が初めて自分へ任せた仕事だった。


 呼ぶだけの役目。


 見るだけの役目。


 けれど、それは潮見亭の心臓を見守る仕事でもある。


 優斗は背筋を伸ばし、再び記録用紙へ向かった。


     *


 六時間後。


 休憩室の襖が勢いよく開いた。


「今、何時?」


 髪を大きく乱した千晴が、廊下へ飛び出してきた。


「午後二時です」


 待っていた薫子が答える。


「六時間……」


「よく眠れましたね」


「どうして起こさなかったの」


「起こさない約束でしたから」


「約束してない」


「私が決めました」


 千晴はゴーグルを片手に、機関室へ急ぐ。


 扉を開ける。


 制御盤の前には、優斗が座っていた。


 机には数枚の記録用紙が並んでいる。


 その隣では、真帆が交代用の椅子に座り、計器を眺めていた。


 リリカとゆずは、入り口近くで眠っている。


「数値は?」


 千晴が尋ねる。


「圧力はずっと緑の範囲です。十一時二十分に〇・〇一だけ下がりましたけど、十分後には戻りました」


「温度は?」


「変化なし。流量も正常です」


「異音は?」


「ありません」


「発電量は?」


「安定しています」


 優斗は記録用紙を差し出した。


 千晴は無言で受け取り、一枚ずつ確認する。


 十分ごとの記録。


 圧力。


 温度。


 流量。


 時刻。


 旧館側の弁を閉じたあとの変化まで、書き込まれている。


「十一時二十分の温度」


「はい?」


「五十六じゃなくて、六十五」


「あっ」


「数字を逆に書いてる」


「すみません!」


「でも、次の欄は合ってる」


 千晴は記録を机へ置いた。


「他は問題ない」


「本当ですか?」


「嘘をつく理由がない」


「俺、できてました?」


「監視だけなら」


 優斗の顔が明るくなる。


「じゃあ、これから交代できますね!」


「まだ一人では無理」


「でも、監視だけならできるって」


「今日一回できたからといって、毎回できるとは限らない」


「厳しい!」


「設備は失敗を一度しか許さないこともある」


 千晴は新しい記録用紙を取り出した。


 そして、制御盤の横へ置かれていた予備のパイプ椅子を、優斗の椅子の隣へ並べる。


「明日から、一日二時間」


「何がです?」


「監視の交代」


「任せてくれるんですか?」


「私が隣にいる時だけ」


「最初はそれで十分です!」


「勝手に触らない」


「はい!」


「数字を逆に書かない」


「気をつけます!」


「分からなかったら聞く」


「はい!」


「大声を出さない」


「はい!」


 優斗の返事が、機関室いっぱいに響いた。


 千晴は眉を寄せる。


「今のが大きい」


「すみません……」


 真帆が二人を見て、微笑む。


「これで千晴さんも、少し休めますね」


「休まない」


「毎日六時間は寝てください」


「長い」


「薫子さんに言いますよ」


「告げ口」


「健康管理です」


 千晴は反論せず、源泉計へ目を向けた。


 針は、今も緑の範囲で安定している。


「今日は止まらなかった」


「明日も大丈夫でしょうか」


 優斗が尋ねる。


「分からない」


 千晴はいつものように答えた。


「でも、変化があれば記録は残る」


「俺たちが見ていますからね」


「見落とさなければ」


「そこは少しくらい信用してくださいよ」


「これから」


 千晴は短く言った。


「今日の記録は、悪くなかった」


 優斗は一瞬、意味を理解できなかったように固まった。


 やがて、満面の笑みを浮かべる。


「ありがとうございます!」


「声が大きい」


「すみません!」


「それも大きい」


 入り口で眠っていたリリカが、声に驚いて目を開ける。


「お湯、止まった?」


「止まってません!」


「優斗がうるさいだけ」


 千晴が答える。


「よかった」


 リリカは安心し、再びゆずの背中へ頬を寄せた。


 ゆずは迷惑そうに片目を開けたが、そのまま動かなかった。


 制御盤の横には、二脚の椅子。


 机の上には、二人分の記録用紙。


 これまで千晴だけの場所だった機関室に、少しずつ他人の居場所が増え始めていた。


 千晴はそれを認めることも、拒むこともしなかった。


 ただ、新しい記録用紙を優斗へ一枚渡す。


「次は、流量計の読み方」


「今からですか?」


「覚えたいんでしょ」


「はい!」


「だから声が大きい」


 機関室には、今日も温泉の流れる音が響いている。


 その音を守る設備係は、まだ一人前には程遠い。


 それでも潮見亭に、二人目の設備係見習いが生まれようとしていた。


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