第十三話 温泉卵と、下がり始めた源泉計
初夏の陽射しが差し込む厨房には、久しぶりに穏やかな朝の空気が流れていた。
開け放たれた窓からは、潮の香りを含んだ風が入り、裏手の湯小屋から立ち上る白い蒸気をゆっくりと揺らしている。源泉計の針は今朝も正常範囲に収まり、優斗が記入した監視記録にも、目立った異常はなかった。
大浴場には温かな湯が満ち、厨房では味噌汁の鍋が静かに湯気を上げている。
ほんの少し前まで、潮見亭を離れる準備までしていたことが、遠い出来事のように思える朝だった。
そんな平穏な厨房で、なぜか深刻な顔をした西村が、食卓の中央へ籠を置いた。
「温泉卵を作る」
籠の中には、白い卵が十二個。
潮見亭に残された、貴重な生卵である。
『却下』
壁のスピーカーから、千晴の声が即座に返ってきた。
「まだ何も説明してねえだろうが」
『説明されなくても分かる。温泉へ卵を入れるつもりでしょ』
「温泉卵だからな」
『今の源泉は料理用の鍋じゃない』
「温泉旅館で温泉卵を作って、何が悪い」
『源泉の流量が安定してない』
「昨日一日、止まらなかったんだろ?」
『止まらなかったことと、安定したことは同じじゃない』
西村が眉間へ皺を寄せる。
その向かいでは、真帆と優斗が静かに成り行きを見守っていた。
リリカは卵の入った籠を、興味深そうに覗き込んでいる。
「これ、生きてる?」
「今は生きてねえ」
西村が答えた。
「温めると?」
「温泉卵になる」
「生き返る?」
「料理になる」
「どうして?」
「そういうもんだ」
「説明を諦めるのが早いですね」
優斗が口を挟む。
「じゃあ、お前が説明しろ」
「ええと……卵を温めると、中が固まって……」
「生き返る?」
リリカが尋ねる。
「生き返りません」
「じゃあ、死んでる?」
「その質問はちょっと難しいですね……」
『受精してない卵だから、雛にはならない』
スピーカーから千晴が淡々と説明した。
リリカは天井を見上げる。
「千晴は何でも知ってる」
『何でもは知らない』
「温泉卵の作り方も?」
『温度と時間なら計算できる』
西村の口元が、にやりと上がった。
「ほう」
『何?』
「温泉卵作りに協力する気になったか」
『なってない』
「温度と時間を計算するんだろ?」
『作るなら失敗しないように言っただけ』
「それを世間では協力って言うんだよ」
『言わない』
「じゃあ、作っていいんだな?」
『大量の源泉を流しっぱなしにしないなら』
「よし、許可が出た」
『条件つき』
「聞いたか、真帆ちゃん。設備係のお墨つきだ」
「千晴さん、ありがとうございます」
『だから、まだ何も――』
西村は通信が終わる前に、厨房のスピーカーを切った。
「切って大丈夫なんですか?」
優斗が心配そうに尋ねる。
「大丈夫だ。どうせすぐ掛け直してくる」
数秒後。
スピーカーが鳴った。
『西村』
「ほらな」
『源泉へ卵を直接入れないで。調理用の籠を使う。使用するのは厨房裏の検査槽。大浴場では絶対に作らない』
「分かってる」
『検査槽の温度は今、六十八・二度。卵は冷蔵庫から出したばかりなら、三十分から三十五分』
「半熟がいい」
『卵黄を固めて卵白を柔らかくするなら、そのくらい』
「やっぱり詳しいじゃねえか」
『熱変性の話』
「料理の話だ」
『違う』
「一緒ですよね?」
真帆が言うと、通信の向こうが一瞬黙った。
『……温度が下がったら時間を延ばして』
千晴は答えを避けるように、それだけ告げた。
*
厨房裏には、源泉の温度や濁りを確認するための小さな検査槽があった。
石造りの細長い槽へ、配管から乳白色の温泉が少量ずつ注がれている。
大浴場へ送る前の湯を、一時的に採取する場所だ。
本来は食材を入れる設備ではない。
そのため、千晴の指示どおり、卵は金属製の籠へ入れ、湯へ直接触れないよう薄い調理袋で包んでいた。
「そこまで厳重にする必要あります?」
優斗が籠を持ちながら尋ねる。
「衛生管理だ」
西村が答える。
「それに、殻が割れて湯の中へ流れたら千晴が怒る」
『怒る』
壁際の屋外スピーカーから、本人の声がした。
「見てるんですか?」
『監視カメラで』
「温泉卵まで監視されるんですか?」
『源泉設備を監視してる。卵はついで』
「卵から目を離すなよ」
西村が優斗へ言った。
「三十五分、ここで見てろ」
「俺がですか?」
「お前は源泉の監視係見習いだろ」
「卵の監視は業務に入ってませんよ!」
『温度計も一緒に見て』
「千晴さんまで!」
優斗は渋々、検査槽の横に置かれた丸椅子へ座った。
手元には時計。
壁には温度計。
槽の中には十二個の卵。
その隣へ、リリカも小さな椅子を運んできた。
「わたしも見る」
「何をです?」
「卵」
「見ていても、ほとんど変わりませんよ」
「優斗も見てる」
「俺は仕事です」
「わたしも仕事」
「リリカちゃんはお客様でしょう?」
「卵を見守るお客様」
「新しい種類のお客様ですね……」
リリカの足元には、ゆずが伏せていた。
後ろ脚の腫れは少しずつ引いているが、まだ包帯は外れていない。
卵の匂いが気になるのか、時折鼻をひくつかせていた。
「ゆずも見る」
「ゆずはたぶん、食べたいだけです」
「わふ」
「否定しませんね」
三人は並んで、湯の中の籠を眺めた。
一分。
二分。
三分。
何も起きない。
「変わらない」
リリカが言った。
「だから言ったでしょう」
「本当に料理になってる?」
「たぶん」
「たぶん?」
「中で少しずつ固まってるんです」
「見えないのに?」
「見えないところで進む仕事もあるんですよ」
優斗は、機関室の千晴を思い浮かべながら答えた。
「温泉も同じです。見た目はいつもと変わらなくても、温度とか圧力とか、いろんなものが動いてます」
「優斗、詳しくなった」
「昨日、たくさん教わりましたから」
「設備係?」
「見習いです」
「卵係?」
「それは今だけです!」
リリカは小さく笑った。
優斗は時計を確認し、記録用紙へ時間と温度を書き込む。
六十八・一度。
ほぼ変化なし。
「千晴さん、温度は正常です」
『聞こえてる』
「卵も正常です」
『それは知らない』
「見てるんじゃなかったんですか?」
『外から状態は分からない』
「じゃあ、俺と同じじゃないですか」
『私は源泉を見てる』
「俺は卵と源泉を見てます」
『仕事を増やしたのは西村』
「確かに」
優斗は納得した。
*
三十五分後。
温泉卵は、無事に完成した。
西村が一つだけ殻を割り、小鉢へ落とす。
柔らかな卵白の中から、橙色の卵黄が丸い形を保ったまま現れた。
「成功だ」
「固まってない」
リリカが不思議そうに覗き込む。
「これでいいんだ」
西村は箸の先で卵黄を割った。
とろりと濃い黄身が流れ出す。
「普通の茹で卵は、白身が固くて黄身も固い。温泉卵は逆に、白身が柔らかくて、黄身が少し固まる」
「どうして?」
「温度だ」
「温度で逆になる?」
「卵黄と卵白で、固まり始める温度が違う」
西村は得意げに答えた。
「さっき千晴から聞いた」
「受け売りじゃないですか」
「料理人は、使える知識なら誰のでも使う」
『聞こえてる』
厨房のスピーカーから、千晴の声がした。
「ちょうどいい。味見するか?」
『いらない』
「卵入りの白粥を欲しがったくせに」
『あれはタンパク質』
「これもタンパク質だ」
『今、手が離せない』
「じゃあ、あとで持っていってやる」
『勝手にして』
通信が切れる。
「欲しいんですね」
リリカが言った。
「そうみたいですね」
真帆が笑う。
「違うって言ってましたよ」
優斗は首を傾げた。
「千晴さんの『勝手にして』は、場合によっては『お願いします』という意味なんです」
「難しい人」
「私もそう思います」
リリカの前へ、小さな器が置かれた。
温泉卵に薄い出汁をかけ、胃へ負担がないよう味を控えめにしている。
「いただきます」
リリカは両手を合わせた。
真帆に教えられた挨拶も、少しずつ自然になっている。
小さな匙で、白身と黄身を一緒にすくう。
口へ運ぶ。
紫色の瞳が、わずかに大きくなった。
「……柔らかい」
「おいしいですか?」
「うん」
「豪華か?」
西村が尋ねる。
リリカはしばらく考えた。
「卵が一個入ってる」
「入ってるな」
「すごく豪華」
「分かってきたじゃねえか」
西村が満足そうに頷いた。
優斗も自分の温泉卵を割る。
「すごい。本当に中だけ固まってます」
「見りゃ分かる」
「俺、三十五分ずっと見てたんですよ。ちょっと感動させてください」
真帆も温泉卵を一口食べる。
やわらかな白身。
濃厚な黄身。
薄い出汁の塩気。
昨夜まで、湯が明日も出るかどうかさえ分からなかった。
今こうして温泉を料理へ使えていることが、ひどく贅沢に感じられた。
「やっぱり、温泉旅館には温泉卵ですね」
「だろう?」
西村が胸を張る。
「潮見亭の新しい名物にしてもいい」
「お客様が一人しかいませんけど」
優斗が言う。
「最初は何でも一人からだ」
「わたし、名物を食べた最初のお客様?」
リリカが尋ねる。
「そうです」
真帆は微笑んだ。
「潮見亭の温泉卵、第一号のお客様です」
リリカは器を両手で持ち、少しだけ嬉しそうに残りを食べ始めた。
その時だった。
館内へ、短い警報音が響いた。
ぴっ。
ぴっ。
ぴっ。
優斗の表情が変わる。
「源泉計……?」
食べかけの匙を置き、立ち上がった。
直後。
厨房のスピーカーから、千晴の鋭い声が飛ぶ。
『優斗、機関室へ来て』
「はい!」
『真帆も』
「分かりました」
『西村は、今どこで湯を使ってる?』
「厨房じゃ使ってねえ」
『温泉卵の検査槽は?』
「もう止めた」
『完全に?』
「元栓まで閉めたぞ」
一瞬の沈黙。
『……圧力が下がってる』
食事処の空気が、一気に冷えた。
*
機関室へ駆け込むと、千晴は制御盤の前に立っていた。
額のゴーグルは目元まで下ろされ、机には記録用紙が広げられている。
源泉計の針は、正常を示す緑色の範囲から、ゆっくりと下へ動いていた。
「〇・四二……〇・四一」
優斗が数値を読み上げる。
「昨日は〇・四六でしたよね」
「朝までは〇・四七」
千晴は温度計を確認した。
「源泉温度は変わってない。流量だけが増えてる」
「また、どこかで湯が漏れているんですか?」
真帆が尋ねる。
「その可能性が高い」
「源泉そのものが弱ってる可能性は?」
「まだ否定できない」
千晴の声は冷静だった。
だが、鉛筆を握る指へ力が入っている。
儀式は終わっていない。
源泉が復活した原因も分からない。
いつ再び止まるかもしれない。
全員が抱えていた不安が、源泉計の針とともに現実へ近づいていく。
「温泉卵を作ったせいでは……」
優斗が恐る恐る言う。
「十二個の卵で、源泉が止まるわけない」
千晴が即答する。
「でも、検査槽でお湯を使いました」
「使用量は計算に入れてる。もう元栓も閉じてるなら、今も流量が増え続けてる説明にならない」
源泉計の針が、さらに下がる。
〇・四〇。
黄色の警戒範囲へ入った。
「千晴さん」
「分かってる」
千晴は館内図を机へ広げた。
「大浴場。露天風呂。客室。厨房。医務室。旧館。どこかで湯が逃げてる」
「手分けして確認しましょう」
真帆が言った。
「大浴場は私が見ます」
「俺は厨房と検査槽を確認します」
優斗が続ける。
「西村さんには客室側を見てもらいます」
「待って」
千晴が二人を止めた。
「闇雲に走り回るより、流量の変化を見た方が早い」
「どうするんです?」
「系統ごとに弁を閉じる。流量が戻った場所が原因」
千晴は制御盤の操作盤へ手を伸ばした。
「まず大浴場系統を一時停止」
スイッチを操作する。
流量計の針を見る。
変化はない。
「違う」
「次は?」
「客室給湯」
別の弁を閉じる。
それでも針は動かない。
「違う」
「厨房は?」
「閉じる」
厨房系統を遮断する。
変化なし。
千晴の表情が、少しずつ険しくなっていく。
「旧館側は、昨日閉めましたよね」
「閉めた。でも、信号と実際の弁の位置がずれることはある」
「また確認に行きますか?」
「旧館は最後」
地下の点検口に近い場所だ。
その下には、硫黄を苦にしない変異体がいる。
鉄蓋は補強してあるものの、近づくこと自体に危険が伴う。
「先に排水系統」
千晴は機関室の奥にある、小さな表示盤へ目を向けた。
その瞬間。
優斗が首を傾げた。
「千晴さん」
「何?」
「変な音がしませんか?」
三人が黙る。
蒸気タービンの低い回転音。
配管を流れる湯の音。
その奥に。
しゃああああ……。
水が勢いよく流れ続けるような音が混じっていた。
「どこから?」
真帆が周囲を見回す。
「床の下です」
優斗は耳を澄ませた。
「昨日、旧館の弁が開いていた時とは違います。もっと近い……機関室の裏側?」
千晴は壁の配管図へ視線を走らせる。
「排熱槽」
「排熱槽?」
「余った湯や蒸気を、一時的に逃がす設備」
千晴は工具袋を掴み、機関室奥の鉄扉へ向かった。
「源泉が復活した時、急激な圧力上昇を逃がすためにバイパスを開けた。その自動排水弁が閉じきってない可能性がある」
「俺も行きます」
「真帆は制御盤を見てて」
「私がですか?」
「見るだけ。触らないで」
「分かりました」
「絶対に」
「信用がありませんね……」
千晴と優斗は鉄扉を開け、裏手の設備通路へ入った。
*
設備通路は、人一人が通れるほどの狭さだった。
壁と天井を、太い配管が縦横に走っている。
足元には水滴が落ち、鉄板の床が湿っていた。
「滑らないで」
千晴が先を歩きながら言う。
「千晴さんこそ、急がないでください」
「圧力が下がってる」
「だからって転んだら意味がありません」
「昨日より口数が増えた」
「昨日、見習いになりましたから」
「まだ見習いとも言ってない」
「二人目の設備係って、真帆さんが言ってました」
「勝手に増やさないで」
通路の奥から、水の流れる音が大きくなっていく。
やがて二人は、太い排水管の前へ出た。
配管の途中に、大きな筒状の部品が取りつけられている。
その下には、金属製の箱。
排熱槽へ湯を逃がす自動弁だった。
「表示は閉」
千晴が制御盤の小さなランプを確認する。
「でも、音はしてます」
「実際には開いてる」
千晴は耐熱手袋をはめ、配管へ手を近づけた。
触れる前に温度を確かめる。
「熱い。流れてる」
「どうして閉じないんです?」
「中に何か噛んでる」
「何か?」
「源泉が止まってた間に溜まった錆か、沈殿物」
千晴は弁の前後にある手動バルブを確認した。
「一度、この区画を切り離す」
「俺は何を?」
「入口側のハンドルを閉めて。赤い方」
「赤は触るなって、いつも言ってませんでした?」
「今は私が指示してる」
「そうでした」
「ゆっくり。急に閉めると圧力が跳ね返る」
「はい」
優斗は両手で赤いハンドルを握った。
固い。
体重をかけ、少しずつ回す。
ぎぎぎ、と金属が軋む。
「もう少し」
「固いです……!」
「無理なら交代する」
「できます!」
優斗は歯を食いしばり、さらに回した。
やがてハンドルが止まる。
「閉まりました!」
「次、出口側」
反対側の弁も閉める。
水の流れる音が、徐々に小さくなった。
『千晴さん』
無線機から真帆の声がした。
『源泉計の針が戻り始めました』
「やっぱりここ」
千晴は短く息を吐いた。
「源泉そのものじゃない。排水弁の故障」
『お湯が止まるわけではないんですね?』
「今回は」
その一言に、真帆の返事が一瞬遅れた。
『……分かりました』
千晴は自動弁の下へ工具箱を置いた。
「中を開ける」
「俺も手伝います」
「熱が残ってる。触る場所を間違えないで」
「はい」
二人で固定ボルトを外す。
一つ。
二つ。
三つ。
最後のボルトを緩めると、内部に残っていた湯が少量流れ出した。
「うわっ」
「下がって」
千晴が優斗を後ろへ押す。
湯が止まるのを待ち、弁の蓋を開けた。
内部には、茶色い錆と、白っぽい鉱物の塊が詰まっている。
「これが原因ですか?」
「たぶん」
「温泉の成分?」
「それと配管の錆。止まってた間に剥がれて、源泉が戻った時に一気に流れてきた」
「これが弁に挟まって、閉じなくなった」
「そう」
千晴は細い工具で、詰まりを慎重に取り除き始めた。
優斗はライトを持ち、手元を照らす。
「もっと右」
「こうですか?」
「近すぎる。影になる」
「すみません」
「少し上」
「はい」
「動かさないで」
「はい」
しばらくして、弁の奥に挟まっていた大きな塊が外れた。
ころん。
白茶色の固まりが、鉄板の床へ落ちる。
「取れた」
「これだけで、あんなに湯が流れ続けるんですね」
「弁は少し隙間があるだけでも漏れる。圧力が掛かれば、量は増える」
千晴は内部を清掃し、弁が滑らかに動くことを確認した。
「優斗。開閉させる」
「はい」
「手を出さないで見てて」
制御線へ仮接続する。
スイッチを入れると、内部の弁がゆっくり閉じた。
今度は最後まで止まる。
「正常」
千晴が小さく頷いた。
「直ったんですか?」
「今のところは」
「千晴さん、最近そればかりですね」
「絶対はないから」
二人は蓋を戻し、ボルトを締め直した。
入口と出口のバルブを、今度は少しずつ開く。
配管へ再び湯が流れ始める。
だが、先ほどまでの排水音は聞こえない。
『圧力、〇・四六まで戻りました』
無線機から真帆が報告する。
『緑の範囲です』
「了解」
千晴は無線を切った。
優斗は壁へ背を預け、大きく息を吐く。
「よかった……」
「まだ終わってない」
「え?」
「同じ詰まりが、他の弁にも起きる可能性がある。フィルターも全部確認する」
「全部?」
「全部」
「何個あるんですか?」
「大小合わせて二十三」
「温泉卵が冷めますね……」
「あとで温め直せばいい」
「温泉卵は温め直したら、普通の茹で卵になりません?」
千晴の手が止まる。
「……なるかも」
「そこは分からないんですか?」
「料理は専門外」
「西村さんに怒られますよ」
「卵より設備」
「でも、千晴さんの分もあります」
「……冷めないうちに一個だけ食べる」
「やっぱり食べたいんじゃないですか」
「作業効率のため」
「その言い方、便利ですね」
*
機関室へ戻ると、源泉計の針は正常範囲へ戻っていた。
真帆は制御盤の前で、両手を膝へ置き、じっと計器を見つめている。
「おかえりなさい」
「触ってない?」
千晴が最初に尋ねた。
「触っていません」
「本当に?」
「ずっと椅子に座っていました」
「一度も?」
「一度、警報音を止めようか迷いました」
「止めてない?」
「止めてません」
「ならいい」
「もう少し信用してください」
真帆は立ち上がり、源泉計を見た。
「原因は、設備だったんですね」
「排熱槽の自動弁に、錆と温泉成分が詰まってた」
「また起きますか?」
「可能性はある」
「源泉そのものは?」
「今の数値を見る限り、問題ない」
「それなら安心ですね」
「今回は」
千晴は、はっきりと付け加えた。
「今回は設備側の不具合だった。でも次に圧力が下がった時も、同じ原因とは限らない」
真帆の表情が少し曇る。
「儀式が終わっていないからですか?」
「それもある」
千晴は記録用紙へ、新しい数値を書き込んだ。
「源泉が戻った仕組みが分からない以上、これで安定したとは言えない。地下の流路が一時的に開いただけなら、また閉じるかもしれない」
「調べることは……」
「今は無理」
千晴は即答した。
「地下には、硫黄を苦にしない変異体がいる。硫黄が有効な防御にならない以上、あそこへ突っ込むことはできない」
「儀式の続きも?」
「同じ。変異体を閉じ込めるか、安全な操作方法を見つけるまで禁止」
優斗は源泉計を見つめる。
「でも、また湯が止まったら……」
「地上からできることを先に探す」
千晴は地下構造の略図を広げた。
「遠隔操作できる配管が残ってないか。別の点検口がないか。地上から月樋へ圧力を送れないか」
「見つかりますか?」
「分からない」
「また、それですか」
「でも、探す」
千晴は鉛筆を置き、優斗を見た。
「それより、優斗」
「はい?」
「警報が鳴った時、すぐ数値を確認した?」
「しました。圧力が黄色に入って、温度は変わってなくて、流量が増えてました」
「記録は?」
優斗は胸元の紙を取り出した。
「ここです」
千晴が確認する。
時刻。
圧力。
温度。
流量。
警報発生時の状態が、正確に記されている。
「数字も逆じゃない」
「今日は確認しました」
「報告も早かった」
「それは……合格ですか?」
「監視については」
優斗の顔が明るくなる。
「ありがとうございます!」
「声が大きい」
「すみません」
「それも少し大きい」
真帆が笑った。
「優斗くんが見つけてくれたんですね」
「警報が鳴っただけですけど」
「音の違いにも気づいた」
千晴が言った。
「排水音がなければ、原因を探すのにもっと時間が掛かった」
「本当ですか?」
「嘘をつく理由がない」
優斗は少し照れたように頭を掻く。
「卵を三十五分見てた成果ですかね」
「関係ない」
「見守る仕事は大切だって、リリカちゃんにも言ったんです」
「それは合ってる」
千晴は新しい記録用紙を差し出した。
「次の一時間、監視を続けて」
「はい」
「そのあと、フィルターの点検」
「二十三個全部ですか?」
「今日は十個」
「明日もあるんですね……」
「設備係見習いでしょ」
優斗は一瞬、目を丸くした。
「今、見習いって言いました?」
「言ってない」
「言いましたよ!」
「作業して」
「はい!」
返事が、また機関室へ大きく響いた。
*
遅くなった朝食が再開された頃。
温泉卵は、まだほんのりと温かかった。
リリカは自分の器を食べ終え、ゆずの前へしゃがみ込んでいる。
「ゆずも食べたい?」
「わふ」
「駄目です」
薫子が即座に止めた。
「味のついたものはあげられません」
「白いところだけなら?」
「ほんの少しなら」
リリカは真帆に手伝ってもらい、味のついていない卵白を小さくちぎった。
ゆずの前へ置く。
ゆずは匂いを嗅ぎ、一口で食べた。
「おいしい?」
「わふ」
「豪華?」
「わふ」
「豪華だって」
「本当に言っているんでしょうか」
真帆は笑いながら、自分の温泉卵を口へ運んだ。
そこへ、千晴と優斗が戻ってくる。
千晴は席へ座る前に、源泉計の記録用紙を食卓の端へ置いた。
「食事中くらい、仕事を置け」
西村が呆れたように言う。
「数値が変わったらすぐ戻る」
「一個食う間くらい変わらねえよ」
「保証は?」
「俺がする」
「料理人の保証は、設備には使えない」
「面倒くせえな」
西村は千晴の前へ温泉卵を置いた。
「ほら。冷める前に食え」
「少し冷めてる」
「設備を直してたんだから仕方ねえだろ」
千晴は殻を割り、小鉢へ落とした。
柔らかな卵白。
半熟の卵黄。
形は崩れていない。
一口食べる。
「どうですか?」
リリカが尋ねる。
「適切」
「何が?」
「加熱時間と温度」
「おいしい?」
千晴は少し考えた。
「……悪くない」
「千晴さんの『悪くない』は、おいしいという意味です」
真帆が説明する。
「違う」
「難しい人」
リリカが言った。
「それには同意する」
西村が頷く。
「聞こえてる」
「目の前で言ってるからな」
食卓へ、久しぶりの笑い声が広がった。
源泉計は、一時的に下がった。
警報も鳴った。
全員が、再び湯を失う恐怖を思い出した。
だが、今回は違った。
源泉が死にかけたのではない。
長く止まっていた設備が、少しだけ不調を起こしただけだった。
「千晴さん」
真帆が尋ねる。
「今日の夜も、お湯は大丈夫でしょうか」
「今のところは」
「たぶん?」
「たぶん」
「薫子さんに怒られる答えですね」
「医療の話じゃないからいい」
千晴は温泉卵の残りを食べながら、食卓の端に置いた記録用紙へ視線を落とした。
針は正常。
温度も正常。
流量も安定している。
今のところは。
地下の儀式は、まだ終わっていない。
硫黄を苦にしない変異体も残っている。
明日も源泉が湧いている保証など、どこにもなかった。
それでも今日。
潮見亭では、復活した湯で温泉卵を作ることができた。
リリカは最初のお客様として、それをおいしいと食べた。
優斗は設備係見習いとして、異常を見つけた。
そして千晴は、たった一言だけ。
「次は、もう少し黄身を柔らかくして」
そう言った。
西村が、にやりと笑う。
「次も作っていいんだな?」
千晴の箸が止まった。
「……設備が安定してたら」
「よし。許可が出た」
「条件つき」
「聞いたか、真帆ちゃん。潮見亭の新名物に決定だ」
「はい。次のお客様にも出せますね」
「次のお客様……」
リリカが呟いた。
「来る?」
「きっと、いつか」
真帆は微笑んだ。
「その日のために、練習しておきましょう」
湯小屋の煙突からは、今日も白い蒸気が立ち上っている。
不安は消えない。
謎も残っている。
それでも潮見亭は、今ある湯を大切に使いながら、次の客を迎える準備を続けていた。




