第十四話 洗濯日和と、空っぽの洗剤倉庫
初夏の朝日が、相模湾の向こうから顔を出した。
潮見亭の屋根瓦と中庭が柔らかな光に照らされ、夜露に濡れていた紫陽花の葉がきらきらと輝いている。
風は弱い。
雲も少ない。
昨日まで湿っていた石畳も、朝のうちに乾き始めていた。
真帆は縁側から空を見上げ、満足そうに頷いた。
「今日は、絶好の洗濯日和ですね」
「その言葉、嫌な予感しかしません」
後ろで優斗が呟いた。
「どうしてですか?」
「真帆さんが『絶好の何か日和』って言う時は、だいたい俺の仕事が増えるので」
「気のせいです」
「前回の絶好の掃除日和では、旧館の廊下を全部雑巾掛けしました」
「きれいになりましたね」
「絶好の薪割り日和では、夕方まで斧を振りました」
「冬を越せましたね」
「絶好の修繕日和では、屋根に上がりました」
「雨漏りが減りました」
「やっぱり仕事が増えてます!」
優斗が訴える。
真帆はにこやかに微笑んだ。
「今日は洗濯です」
「どのくらいですか?」
「少しだけです」
「真帆さんの『少し』は信用できません」
「では、見てもらいましょう」
真帆が大広間の襖を開けた。
そこには、布の山があった。
医務室で使ったシーツ。
リリカを包んでいた毛布。
地下から戻った時に泥と汗で汚れた作業着。
真帆と優斗の浴衣。
大量のタオル。
旧館の点検で使った雑巾。
さらに、源泉が止まった際の撤退準備で、収納から引っ張り出したままになっていた客室用の寝具まで積まれている。
床の一角を完全に占領した布の山は、優斗の胸ほどの高さがあった。
「少し……?」
「はい」
「これが?」
「潮見亭全体から見れば」
「旅館基準で答えないでください!」
優斗が頭を抱える。
布の山の陰から、淡い紫色の髪が覗いた。
「何をしているの?」
リリカが、ゆずと一緒に大広間へ入ってきた。
ゆずの後ろ脚には、まだ薄い包帯が巻かれている。
歩き方は少しぎこちないが、以前よりもしっかりと床へ足をつけられるようになっていた。
「今日は洗濯をするんです」
真帆が答えた。
「せんたく?」
「汚れた布や服を、水できれいにすることです」
リリカは積み上げられたシーツへ近づき、鼻先を寄せた。
「少し、変な匂い」
「地下の泥と硫黄、それに汗ですね」
「これを、全部きれいにするの?」
「その予定です」
「わたしもやります」
リリカが即座に言った。
「無理をしない範囲なら、お願いしたいことがあります」
「仕事?」
「お手伝いです」
「違うの?」
「やらなくても、ここにいていいお手伝いです」
真帆が念を押す。
リリカは少し考えてから頷いた。
「分かりました」
「本当に?」
「たぶん」
「薫子さんに怒られる答えですね」
真帆は苦笑した。
*
潮見亭の洗濯室には、業務用の大型洗濯機が二台並んでいた。
三年前までは、毎日大量の浴衣やタオルを洗っていた機械である。
だが今は、一台しか使えない。
もう一台は、制御基板が故障したままだった。
「同時に乾燥機は使わないで」
洗濯室のスピーカーから、千晴の声が響く。
『発電量は戻ってるけど、まだ負荷変動が大きい。大型洗濯機と乾燥機を一緒に動かしたら、別の系統が落ちる可能性がある』
「天気がいいので、外へ干します」
真帆が答えた。
『洗濯機も一台ずつ。終わってから次を回して』
「二台同時は駄目ですか?」
『駄目』
「時間がかかりますね」
『布団まで全部、今日洗おうとするからでしょ』
「洗える時に洗っておかないと」
『源泉も電気も、完全に安定したわけじゃない』
「分かっています」
『本当に?』
「たぶん」
『真帆』
「冗談です」
通信の向こうから、深いため息が聞こえた。
『それと、給湯温度は上げすぎないで。高温洗浄は電気と湯を使う』
「では、通常の温度で」
『医務室で使ったものは別。薫子に確認して』
「はい」
真帆は洗濯物を種類ごとに分け始めた。
医療用。
衣類。
タオル。
シーツ。
毛布。
泥のついた作業着。
「優斗くん。作業着の泥を先に落としてください」
「どこでですか?」
「外の洗い場で」
「水、冷たいですよね?」
「今日は暖かいですよ」
「気温が暖かくても、水は暖かくなりませんよ」
「温泉を少し混ぜれば」
『勝手に源泉を使わないで』
「聞こえてるんですか!?」
優斗が天井を見上げる。
『主要な作業場所の音は拾える』
「監視が細かすぎます!」
『優斗が勝手なことをするから』
「まだしてません!」
『する前に言ってる』
優斗はぶつぶつ言いながら、泥のついた作業着を抱えて洗い場へ向かった。
真帆は洗濯機の前へ、最初のシーツを運ぶ。
「リリカちゃんには、これをお願いします」
差し出したのは、洗濯ばさみの入った籠だった。
木製と樹脂製が混ざり、大小もばらばらになっている。
「同じ形のものを、二つずつ揃えてもらえますか?」
「二つずつ?」
「シーツを干す時、左右で同じものを使いたいんです」
「違うと駄目?」
「駄目ではありません。でも、揃っている方が気持ちいいでしょう?」
リリカは籠の中を覗き込む。
赤。
青。
白。
木の色。
「これなら、できます」
「疲れたら休んでくださいね」
「うん」
リリカは床へ座り、洗濯ばさみを一つずつ並べ始めた。
その隣では、ゆずが籠へ鼻を入れようとしている。
「ゆず。食べ物ではありませんよ」
「わふ」
ゆずは不満そうに鼻を鳴らした。
*
真帆は洗濯機の扉を開け、医務室で使ったシーツとタオルを入れた。
次に、棚から業務用洗剤のボトルを取り出す。
持ち上げた瞬間。
からん。
中で、わずかな液体が揺れる音がした。
「……あら?」
ボトルを傾ける。
透明な計量カップへ、洗剤が細く流れ落ちた。
ほんの少し。
洗濯一回分に、ぎりぎり届くかどうかという量しかない。
「優斗くん!」
真帆が洗い場へ向かって声を上げた。
「何ですか!?」
「洗剤の予備は、どこへ置きました?」
「倉庫じゃないですか?」
「どの倉庫です?」
「洗濯室の隣です!」
「そこにはありません!」
「じゃあ、厨房裏の備蓄庫!」
「そこにもありません!」
「だったら旧館の物置です!」
「確認しました!」
「全部確認済みじゃないですか!」
泥だらけの手袋をつけた優斗が、洗濯室へ戻ってきた。
「この前、洗剤の箱を見た気がするんですけど」
「どのような箱でした?」
「白くて、大きくて、洗剤っぽい箱です」
「情報が少なすぎます」
「『業務用』って書いてありました」
「業務用の何です?」
「そこまでは……」
二人は顔を見合わせた。
「確認しましょう」
「はい」
真帆と優斗は、洗濯室隣の備品倉庫へ入った。
棚には、空の洗剤ボトル。
残り少ない柔軟剤。
漂白剤の容器。
固形石鹸が三個。
掃除用のブラシ。
未使用のゴム手袋。
そして優斗が指差した、白くて大きな箱。
「これです!」
箱の側面には、大きな文字が印刷されていた。
――業務用入浴剤 柚子の香り。
「入浴剤ですね」
「洗剤じゃなかった……」
「どちらも白い箱ですが、用途が違います」
「これで洗えませんか?」
「浴衣が柚子の香りになるだけだと思います」
『配管も詰まるかもしれないから、洗濯機には入れないで』
倉庫のスピーカーから千晴の声が飛んできた。
「入れませんよ!」
『優斗なら分からない』
「俺の信用、低すぎませんか?」
『日頃の積み重ね』
「何を積み重ねたんです!?」
真帆は棚の奥まで確認した。
だが、洗剤の予備は見つからなかった。
棚の端には、色褪せた紙が一枚貼られている。
備品の入庫日と数量を記録した一覧表だった。
半年以上前の日付。
太く角張った字で、
――業務用洗剤 三箱。
――石鹸 二箱。
――漂白剤 六本。
と書かれている。
記入者の欄にあった名前は、火村修二。
「火村さんが最後に持ち帰った分ですね」
真帆が呟いた。
優斗も一覧表を覗き込む。
「半年前に、町の宿泊施設から回収してくれたやつです」
「三箱もあったのに……」
「半年使い続ければ、なくなりますよ」
火村が潮見亭にいた頃は、必要な物資が底を突く前に、彼が周辺の町や倉庫を調べていた。
危険な道は先に偵察し。
ゾンビの位置を確認し。
安全な退路を確保してから、必要な品を持ち帰る。
真帆たちが気づく頃には、減り始めた棚へ新しい物資が並んでいた。
だが火村は、半年前に受信した無線の救助要請を受け、東京へ向かった。
それ以来、一度も潮見亭へ戻っていない。
火村が補充した最後の備蓄を、真帆たちは少しずつ使い続けていた。
そして今日。
とうとう、その底が見えたのだ。
「おかしいですね。まだ残っているような気がしていました」
「火村さんがいた頃の感覚のままだったんじゃないですか」
優斗が言った。
「なくなる前に、いつも補充されてましたから」
「……そうですね」
真帆は空になった棚を見つめた。
誰かが補ってくれていたから、減っていることを意識せずに済んでいた。
その誰かがいなくなっても、生活は待ってくれない。
「どうしましょう」
優斗が尋ねた。
「洗剤がなくても、水だけで洗えませんか?」
「汚れは多少落ちます。でも、汗や皮脂までは十分に落ちません」
「温泉なら?」
『洗濯に源泉を使いすぎないで』
千晴が即答する。
「まだ何も言ってません」
『言おうとしてた』
「温泉で洗えば、硫黄の匂いがつきそうですね」
『それ以前に、成分が布や洗濯機へ残る可能性がある。常用はしない方がいい』
「固形石鹸を削って入れるとか」
優斗が棚の石鹸を指差す。
『洗濯機には入れないで』
「これも駄目なんですか?」
『泡が多すぎる。排水口や機械内部に残る』
「何でも知ってますね」
『故障させられたくないだけ』
真帆は、残された洗剤の量を見た。
「まず、何を洗うべきか決めましょう」
*
食事処の机には、洗濯物の一覧が並べられていた。
医務室のシーツとタオル。
リリカの着物。
地下で汚れた真帆と千晴の衣類。
日常用の浴衣。
客室の寝具。
雑巾。
毛布。
全員が一覧を囲み、優先順位を話し合っている。
「医務室で使ったものが最優先です」
薫子が言った。
「今後、怪我人や病人が出た時に、不衛生な寝具を使うわけにはいきません」
「厨房の布巾も必要だ」
西村が続ける。
「食い物に触るものは、汚れたまま使えねえ」
「作業着は泥を落とせば、洗剤なしでもしばらく着られる」
千晴は椅子へ座らず、壁際に立ったまま一覧を見ている。
「私のは後回しでいい」
「千晴さんの作業着、地下の泥と変異体の体液がついていたでしょう」
薫子が指摘する。
「医療用と一緒には洗えませんが、放置もできません」
「じゃあ、手洗い」
「素手で触らないでください」
「耐薬品手袋を使う」
「そういう問題だけではありません」
真帆は一覧の横へ、優先順位を書き込んだ。
一番目。
医務室で使ったシーツとタオル。
二番目。
厨房用の布巾。
三番目。
地下で汚れた衣服。
それ以外は、洗剤を使わずに水洗いするか、後日に回す。
「客室のシーツは洗わないの?」
リリカが尋ねた。
「今使っているものは、まだきれいですから」
「汚れたら?」
「その時は、洗わなければいけません」
「洗剤がないと、洗えない?」
「十分にきれいにはできませんね」
リリカは、自分が泊まっている客室の方角を見た。
「お客様が来ても?」
その言葉に、真帆の手が止まる。
今、潮見亭にいる客はリリカ一人だけ。
だが、真帆はこれから先も客を迎えるつもりだった。
負傷した生存者。
行き場を失った人。
助けを求めて門を叩く誰か。
その時、汚れたシーツしか用意できない宿にはしたくない。
「洗剤、必要ですね」
真帆が言った。
「今ごろ気づいたのか」
西村が呆れたように答える。
「火村さんがいた頃は、なくなる前に持って帰ってきてくれましたからね」
優斗が言った。
「俺たち、棚に物があるのを当たり前だと思ってたのかもしれません」
「火村?」
リリカが聞き慣れない名前に首を傾げた。
「潮見亭の仲間です」
真帆が答える。
「今はいない?」
「半年前、東京へ人を助けに行きました」
「帰ってこない?」
「……まだ、帰ってきていません」
リリカは少し考えた。
「死んだ?」
食事処が静かになる。
「分かりません」
真帆は静かに答えた。
「だから、帰ってくる場所を残して待っています」
「潮見亭へ帰ってくる?」
「はい」
「では、お部屋をきれいにしておく?」
真帆は一瞬だけ目を見開き、それから微笑んだ。
「そうですね」
火村が帰ってきた時。
泥と血にまみれていたとしても、温かな湯と清潔な布団を用意して迎えたい。
それが宿で待つ者にできることだった。
「必要なのは洗剤だけではありません」
薫子が棚卸し表を取り出した。
「消毒液も残り少ないです。包帯は洗って再利用していますが、それにも限界があります。石鹸、歯磨き粉、女性用の衛生用品も補充が必要です」
「厨房もだ」
西村が指を折る。
「塩、醤油、油。缶詰も減ってる。米はまだあるが、いつまでも保つ量じゃねえ」
「火村がいなくなってから、遠出の回数が減ったからな」
西村は苦い顔で言った。
「近場だけじゃ、手に入るものにも限界がある」
「設備関係は?」
真帆が千晴を見る。
千晴はポケットから折り畳まれた紙を出した。
机の上へ広げる。
紙には、小さな文字がびっしりと書かれていた。
「機械油。ヒューズ。被覆電線。絶縁テープ。配管用シール材。ゴムパッキン。洗浄剤。防錆剤。電池。予備の無線機。携帯用ライト」
「多い!」
優斗が叫んだ。
「まだある」
「これ以上?」
千晴は紙を裏返した。
裏面にも、同じ密度で文字が並んでいる。
「工具の替え刃。耐熱手袋。防塵マスク。保護眼鏡。交換用のベアリング。できれば小型ポンプ」
「買い物メモの量じゃありませんよ!」
「買い物じゃない」
「では、何なんです?」
「必要物資一覧」
「言い方を変えても多いです!」
真帆は紙を受け取った。
「これを全部、持ち帰れるでしょうか」
「全部は無理」
「減らしてください」
「全部必要」
「必要でも、運べません」
「優先順位はつけてある」
よく見ると、項目の横に一から五までの数字が記されていた。
「数字の一が最優先ですか?」
「五」
「逆なんですか?」
「重要度が高い方を大きくした」
「分かりにくいですよ!」
「今、説明した」
優斗は頭を抱えた。
*
「洗剤を作ることはできないんですか?」
中山が尋ねた。
「昔は木灰から洗浄液を作ったと聞いたことがある」
「灰汁だな」
西村が腕を組む。
「薪の灰ならある。昔の人間は、それで布を洗ってた」
「では、それを使えば」
「待ってください」
薫子が止めた。
「灰汁は濃度によっては皮膚を傷めます。医療用の布や、リリカさんの衣服へ使うのは避けた方がいいでしょう」
「布も傷む」
千晴も言った。
「灰の種類や濃度を一定にできない。洗濯機へ入れるのも駄目」
「石鹸なら作れますか?」
優斗が尋ねる。
「油と強いアルカリが必要」
「あるんですか?」
「廃油はある。でも、薬品の扱いを間違えると危険」
「千晴さんなら作れそうです」
「作れるかどうかと、今やるべきかは別」
千晴は即座に却下した。
「源泉設備の監視と修理がある。石鹸作りまで管理できない」
「西村さんは?」
「俺は料理人だ。石鹸を煮た鍋で飯は作らん」
「鍋を分ければいいのでは?」
「そういう問題じゃねえ」
結局、手製の洗剤は、今すぐ使える解決策にはならなかった。
真帆は一覧を見つめる。
「外へ取りに行くしかありませんね」
食事処が静かになった。
外。
潮見亭の塀の向こう。
ゾンビが徘徊し、人間の気配にも警戒しなければならない世界。
日用品を一つ手に入れるためにも、命を懸けなければならない場所だった。
以前なら、このような時は火村が先に立った。
目的地。
経路。
ゾンビの数。
逃げ道。
持ち帰れる重量。
すべてを調べ、危険だと判断すれば、必要な物資が目の前にあっても引き返した。
真帆たちは、そんな火村の背中を追っていればよかった。
だが、今は違う。
「どこへ行く?」
西村が尋ねる。
「汐見崎温泉街のドラッグストアには、以前入りました」
真帆が答えた。
「残っている物資も少ないはずです」
「町の北側に、共同のリネン倉庫があった」
千晴が館内地図の裏へ、周辺の略図を描き始める。
「旅館やホテルへ、タオルやシーツ、洗剤を卸していた場所」
「そんなところがあるんですか?」
優斗が身を乗り出す。
「火村が残した調達記録に書いてあった」
千晴は古びた手帳を開いた。
地図の隅には、火村の筆跡で短い注意書きが残されている。
――海沿いは見通しがよすぎる。
――車庫内のバスは確認していない。
――倉庫は未探索。
「行かなかったんですか?」
優斗が尋ねた。
「当時は洗剤に余裕があった。食料と医薬品を優先したらしい」
「では、倉庫に物資が残っている可能性はありますね」
「荒らされていなければ」
「荒らされていたら?」
「何もない」
「行ってみるまで分からないんですね」
「外の物資は全部そう」
千晴は火村の記録を参考にしながら、二つの道を書き込んだ。
「海沿いの県道は早い。でも開けていて、ゾンビに見つかりやすい」
「山側の道は?」
「遠回り。倒木や崩落の可能性がある」
「どちらが安全ですか?」
「今は分からない。監視カメラが届くのは温泉街の入口まで」
「火村さんなら、先に一人で確認へ行っていましたね」
優斗が呟く。
「今回は、火村さんと同じことはしません」
真帆が言った。
「どうしてです?」
「私たちは火村さんではありません」
同じ戦い方はできない。
同じ距離を進むことも。
一人で危険な場所へ入り、生きて帰ることも。
「二人で行動します。少しでも危険だと思ったら戻ります」
「倉庫まで着いても?」
「はい」
「洗剤が見えていても?」
「命よりは大切ではありません」
西村が頷いた。
「それでいい」
千晴は地図へ帰路を二本書き足した。
「行きと帰りで同じ道が使えない可能性も考えて」
「分かりました」
「天気は?」
真帆が窓の外を見た。
「今日は晴れています」
「午後から風が強くなる」
千晴が答える。
「古い気象計の気圧が下がってる。明日は雨になるかもしれない」
「行くなら、今日のうちですか」
「今から準備して出るなら、日没までには戻れる」
真帆は時計を見た。
午前九時を少し過ぎている。
「真帆さん」
優斗の声が、わずかに引き締まる。
「仕入れに行くんですね」
「はい」
「また、その呼び方ですか?」
「旅館に必要な品を取りに行くのですから、仕入れです」
「普通の仕入れは、ゾンビを避けながら倉庫へ行きませんよ」
「少し危険な仕入れですね」
「少しじゃありません」
西村が大きく息を吐いた。
「誰が行く」
「私と優斗くんで」
真帆が答える。
「ゆずは怪我が治っていません。潮見亭に残ってもらいます」
「わふ?」
自分の名前が聞こえたゆずが、顔を上げた。
「今回はお留守番です」
「くぅん」
「駄目です」
ゆずは耳を伏せた。
「わたしも残る?」
リリカが尋ねる。
「はい。薫子さんと一緒に、ゆずを見ていてください」
「また、見守る仕事?」
「大切なお仕事です」
リリカは少し考えた。
「分かりました」
以前なら、自分も連れていってほしいと訴えていたかもしれない。
だが今は、留守番にも役目があると少しずつ理解し始めている。
「洗濯ばさみも、見ておく」
「洗濯ばさみは逃げませんよ」
「ゆずが持っていくかもしれない」
全員の視線が、ゆずへ向いた。
ゆずの前脚の間には、いつの間にか青い洗濯ばさみが一つ挟まっていた。
「ゆず」
「わふ」
「返してください」
真帆が手を差し出す。
ゆずは洗濯ばさみを咥えたまま、顔を背けた。
「やっぱり、見ておく」
リリカが真剣に言った。
「お願いします」
*
結局、その日の洗濯は、医務室のシーツと厨房の布巾だけで終わった。
残り少ない洗剤を量り、無駄が出ないよう慎重に使う。
洗濯機が回っている間に、真帆と優斗は外出の準備を進めた。
リュック。
ロープ。
懐中電灯。
無線機。
救急用品。
飲料水。
非常食。
回収した物資を載せる、小型の手押し台車。
優斗は装備を確認しながら、古いリュックの肩紐を調節した。
「これ、火村さんが使っていた予備ですよね」
「はい」
真帆が答えた。
「重いものを背負っても、肩へ食い込みにくいよう補強してあります」
「火村さん、何でも準備してたんですね」
「何も考えずに外へ出ると、いつか帰れなくなる、と言っていました」
優斗はリュックの留め具を強く引いた。
「俺たちも、帰ってこないといけませんね」
「もちろんです」
「火村さんみたいに、行方不明にはなれませんから」
その言葉に、真帆の手が一瞬止まる。
「火村さんも、帰ってくるつもりだったと思います」
「……そうですよね」
「だから、私たちも帰ってきます」
真帆は迷いなく言った。
帰る場所を守る者が。
帰れなくなってはいけない。
「荷物を積みすぎないで」
千晴が念を押す。
「帰りに重くなる」
「分かっています」
「洗剤だけでいい。余裕があれば石鹸と消毒液」
「千晴さんの一覧は?」
「優先度五だけ」
真帆は紙を見る。
優先度五だけでも、十二項目あった。
「これを洗剤だけと言いますか?」
「洗剤とは別」
「さらに増えてますよ!」
優斗が叫ぶ。
「持てる分だけでいい」
「欲張らないでくださいね」
「私は行かない」
千晴は真顔で答えた。
「だから心配なんです!」
中庭では、洗い終えた白いシーツが、物干し竿へ並べられていた。
海から吹く風を受け、大きな布がゆっくりと膨らむ。
リリカは縁側へ座り、洗濯ばさみの籠を抱えている。
その隣では、ゆずが青い洗濯ばさみを諦め、前脚へ顎を載せていた。
「きれいになった」
リリカが、風に揺れるシーツを見上げる。
「はい」
真帆は干した布の端を整えた。
「お日様の匂いがするようになりますよ」
「お日様に、匂いがあるの?」
「乾いたシーツの、気持ちのいい匂いです」
「洗剤がなくなったら?」
「取りに行ってきます」
「危ない?」
真帆は、すぐには答えなかった。
「危険がないとは言えません」
「行かないと駄目?」
「潮見亭で、お客様を迎えるために必要ですから」
「わたしのシーツのため?」
「リリカちゃんだけではありません」
真帆は、空いている客室が並ぶ本館を見上げた。
「これから潮見亭へ来るかもしれない、次のお客様のためです」
「火村も?」
「はい」
真帆は微笑んだ。
「火村さんも、帰ってきたら大切なお客様です」
「仲間なのに、お客様?」
「長い旅から帰ってきた人には、まずお風呂と食事と布団が必要でしょう?」
リリカは白いシーツを見つめた。
風をはらんだ布が、大きく膨らむ。
まるで、誰かが訪れる日を待ちながら、手を振っているようだった。
「じゃあ、わたしは待っています」
「はい」
「ゆずと、洗濯ばさみを見てる」
「お願いします」
「火村も待つ」
「……ありがとうございます」
「真帆も、ちゃんと帰ってくる?」
真帆はリリカの前へ膝をついた。
「帰ってきます」
「絶対?」
外の世界に、絶対などない。
東京へ向かった火村も、きっと戻ると言って出発した。
それでも、不安そうな紫色の瞳を前にして、曖昧には答えたくなかった。
「必ず帰ってきます」
リリカは真帆を見つめ、やがて小さく頷いた。
その時。
突風が中庭へ吹き込んだ。
ばさあっ!
物干し竿の端に掛かっていたシーツが外れ、真帆とリリカの頭上へ覆いかぶさる。
「きゃっ」
「動かないでください!」
白い布の下。
真帆とリリカがしゃがみ込む。
少し遅れて、ゆずもシーツの中へ鼻先を突っ込んできた。
「わふっ」
「ゆずまで入らないでください」
「秘密の部屋」
リリカが、以前と同じ言葉を口にする。
「またできましたね」
「今度は、洗剤の匂いがする」
「最後の洗剤ですから、大切に嗅いでください」
「それは少し嫌です」
優斗が外からシーツを持ち上げた。
「出発前に遊んでるんですか?」
「風のせいです」
「真帆さん、急がないと昼になりますよ」
「今、出ます」
真帆はシーツの下から抜け出し、着物の裾を整えた。
中庭には、洗い終えた数枚の白い布。
洗濯室には、まだ洗えていない大量の衣類。
倉庫には、空になった洗剤の棚。
そして帳場の机には、持ち帰るべき物資が隙間なく書き込まれた長い一覧表。
火村が残した備蓄は、少しずつ底を突き始めている。
帰りを待っているだけでは、潮見亭の生活を守ることはできない。
温泉が戻っても、生活に必要なものまで戻ってくるわけではない。
足りないものは、自分たちで探さなければならない。
集めなければならない。
危険な外の世界から。
「では、行ってきます」
真帆は神木棍を手に取り、玄関へ向かった。
優斗は火村の予備だったリュックを背負い、手押し台車を押してあとへ続く。
「気をつけて」
薫子が言った。
「欲張りすぎるなよ」
西村が言った。
「一時間ごとに無線連絡」
千晴が言った。
「異常があったら、すぐ戻って」
「分かりました」
真帆は玄関の戸へ手を掛ける。
背後から、リリカの声がした。
「真帆」
振り返る。
リリカは、ゆずと並んで立っていた。
片手には、青い洗濯ばさみ。
「きれいなシーツで、待っています」
真帆は微笑んだ。
「はい。お願いします」
玄関の戸が開く。
潮と硫黄の匂いを含んだ風が、館内へ吹き込んだ。
世界が滅びても。
温泉が奇跡的に戻っても。
洗剤は、勝手には増えてくれない。
そして、火村がいなくても。
潮見亭で暮らす者たちは、自分たちの力で次の一日を迎えなければならない。
潮見亭の新しい仕入れが、始まろうとしていた。




