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第十五話 海辺のリネン倉庫と、命がけの仕入れ


 潮見亭の玄関を出ると、潮と硫黄の匂いを含んだ風が、真帆の頬を撫でた。


 空はまだ晴れている。


 だが、東の海の上には、灰色の雲が薄く広がり始めていた。


「行ってきます」


 真帆は玄関前で振り返る。


 戸口には、薫子と西村。


 その後ろには、リリカとゆずが並んでいた。


 リリカの片手には、なぜか青い洗濯ばさみが握られている。


「ちゃんと帰ってきて」


「はい。必ず」


「洗剤も?」


「もちろんです」


「洗濯ばさみは、あります」


「それは足りていますね」


 真帆は小さく笑った。


「ゆずも、リリカちゃんをお願いします」


「わふ」


 包帯を巻いた後ろ脚を庇いながら、ゆずが短く鳴く。


 本当は一緒に行きたいのだろう。


 だが、まだ長い距離を歩かせることはできない。


「無理に歩かせるなよ」


 西村がリリカへ言った。


「ゆずが外へ行きたがっても止めろ」


「分かりました」


「自分も勝手に外へ出るな」


「……分かりました」


「今、少し間があったな」


「気のせい」


 西村が眉を寄せる。


 その時、真帆の腰に下げた無線機から、千晴の声が聞こえた。


『出発前の確認』


「はい」


『無線機。水。非常食。救急用品。予備の電池』


「持ちました」


『ロープ。ライト。雨具』


「あります」


『優斗』


「はい!」


 手押し台車の後ろに立っていた優斗が、背筋を伸ばす。


『車輪の固定具』


「持ちました」


『潤滑油』


「台車に使う分だけ持ってます」


『私の必要物資一覧』


「真帆さんが持っています」


 真帆は帯の隙間に差し込んだ、折り畳まれた紙を確認した。


 洗剤や石鹸よりも、配管用シール材やヒューズの方が多く書かれている。


「千晴さん。本当に、この中から優先度五だけでいいんですね?」


『そう』


「優先度五だけでも十二個あります」


『持てる分だけでいい』


「では、洗剤を優先します」


『機械油も』


「洗剤です」


『ヒューズ』


「洗剤です」


『絶縁テープ』


「洗剤です」


『……好きにして』


「拗ねないでください」


『拗ねてない』


 ぶつり、と通信が切れる。


 優斗が手押し台車の持ち手を握った。


「怒ってませんか?」


「いつもどおりだと思います」


「最近、千晴さんの『いつもどおり』の範囲が広すぎる気がします」


「帰りに絶縁テープくらいは探しましょう」


「機械油も見つけないと、機関室に入れてもらえなくなりそうですね」


 二人は顔を見合わせ、小さく苦笑した。


「では、出発しましょう」


 真帆は六尺の神木棍を握り直す。


 優斗が台車を押す。


 石畳の上を、車輪が静かに回り始めた。


 潮見亭の次の仕入れが始まった。


     *


 崖の上に建つ潮見亭から汐見崎温泉街へ下りる道は、かつて観光客を乗せたバスや車が頻繁に行き交っていた。


 今は、道路の亀裂から雑草が伸びている。


 ガードレールは錆び、路肩には放置された車が並んでいた。


 フロントガラスの割れた軽自動車。


 電柱へ衝突したままのワゴン車。


 運転席の扉を開いたまま、草に埋もれた観光タクシー。


 三年前の混乱が、そのまま風雨に晒され続けている。


 真帆は先頭を歩き、曲がり角へ差しかかるたびに神木棍の先を下げた。


 視線だけを先へ送り、道の状態を確かめる。


「前方、異常ありません」


「了解です」


 優斗は声を抑えながら、台車を押した。


 台車の荷台は、今のところ空に近い。


 帰りには、洗剤や石鹸でいっぱいになる予定だった。


 もっとも、倉庫に物資が残っていればの話だが。


「真帆さん」


「はい?」


「仕入れって、行きより帰りの方が大変ですよね」


「荷物が増えますからね」


「ゾンビも増えたりしませんよね?」


「それは仕入れと関係ありません」


「安心できる答えではありませんね……」


 坂道を下り始めて、三十分。


 周囲の硫黄臭が、少しずつ薄くなっていく。


 潮見亭の源泉から離れた証拠だった。


 これより先では、温泉の硫黄による防御は期待できない。


 真帆は腰に下げた小さな風向計へ目を落とした。


 海から山へ向けて風が吹いている。


「風が強くなってきました」


「雨になるんでしょうか」


「千晴さんは、午後から崩れるかもしれないと言っていました」


「急ぎましょう」


 その時。


 台車の右側から、小さな金属音が聞こえた。


 きい。


 きい。


 きい。


 優斗が足を止める。


「……鳴ってますね」


「鳴っていますね」


「静かに移動するための台車が、全然静かじゃありません」


 右の車輪が回るたび、古い軸が甲高い音を立てている。


 これでは周囲のゾンビへ、居場所を知らせながら歩いているようなものだった。


「出発前は鳴っていませんでしたよね?」


「坂道で荷重が掛かったからかもしれません」


 優斗は台車を路肩へ寄せ、しゃがみ込んだ。


 小瓶に入れてきた潤滑油を取り出す。


「千晴さんに持たされたものが、もう役に立ちました」


「帰ったら報告しましょう」


「絶対に得意そうな顔をしますよ」


「顔には出さないと思います」


「声には出ます」


 優斗は車輪の軸へ、少量の油を差した。


 何度か回す。


 甲高い音が消え、車輪が滑らかに動き始めた。


「直りました」


「さすが、設備係見習いですね」


「台車の油を差しただけです」


「大切な仕事です」


「千晴さんにも言ってもらいたいですね」


 立ち上がった優斗が、台車の持ち手を握り直す。


 その直後。


 真帆が片手を上げた。


「止まって」


 声が低くなる。


 優斗はすぐに動きを止めた。


 道路脇。


 放置された観光タクシーの向こうから、足を引きずる音が聞こえる。


 ずる。


 ずるっ。


 一体のゾンビが、車体の陰から姿を現した。


 古びた観光地の法被を着ている。


 顔の半分は黒く変色し、口元には乾いた血がこびりついていた。


「一体です」


 優斗が小声で言う。


「後ろに下がってください」


「手伝います」


「台車を押さえていてください」


 真帆は神木棍を両手で構えた。


 ゾンビが二人へ顔を向ける。


「ア……アア……」


 腐った喉から、湿った声が漏れた。


 次の瞬間。


 足を引きずりながらも、意外な速さで真帆へ迫ってくる。


 真帆は半歩だけ前へ出た。


 棍の先端を、ゾンビの胸元へ突き当てる。


 勢いを正面から受けず、体を捻りながら横へ流す。


 ゾンビの体が、道路脇のガードレールへぶつかった。


 真帆はすぐに棍を引き戻す。


 足首を払う。


 ばきっ。


 腐った脚が折れ、ゾンビが路面へ倒れ込んだ。


 その頭部へ、神木棍を振り下ろす。


 ごっ。


 一度。


 動きが止まらない。


 もう一度。


 今度こそ、ゾンビは完全に動かなくなった。


 真帆は荒くなりかけた息を整え、周囲へ視線を走らせる。


 別の物音はない。


「大丈夫ですか?」


 優斗が近づいてくる。


「はい。普通のゾンビです」


「普通という言い方も変ですけどね」


「地下の変異体と比べれば、という意味です」


 神木棍へついた汚れを、持参した布で拭き取る。


 硬い皮膚。


 棍を跳ね返すほどの巨体。


 硫黄を苦にしない地下の変異体。


 それを経験したあとでは、地上のゾンビとの戦い方が、以前よりはっきりと見えた。


 だが、油断はできない。


 一体なら倒せても、十体に囲まれれば逃げるしかない。


「音を立てないように進みましょう」


「はい」


 二人は再び歩き始めた。


     *


 一時間ほど進むと、海沿いの旧県道へ出た。


 視界の左側には、灰色がかった相模湾。


 右側には、閉鎖された土産物店や民宿が並んでいる。


 潮風に晒された看板が、ぎいぎいと揺れていた。


 かつて観光客で賑わっていた温泉街は、ひどく静かだった。


 人の話し声も。


 車のエンジン音も。


 店先から流れる音楽もない。


 聞こえるのは、波が防波堤へ砕ける音だけ。


「リネン倉庫は、この先のバス車庫の近くですよね」


 優斗が周辺地図を見る。


「はい。千晴さんの地図では、県道をもう少し進んだ先です」


 真帆は無線機を手に取った。


「千晴さん。温泉街の入口へ到着しました」


 数秒後。


『聞こえてる』


「周囲に、今のところ大きな異常はありません」


『監視カメラでも確認した。県道の北側に三体いる』


「こちらからは見えません」


『建物の裏。海側を進んで』


「分かりました」


『この先はカメラの範囲外。次の連絡は一時間後』


「はい」


『風が強くなってる。雲も増えてるから、長居しないで』


「千晴さん。源泉の方は?」


『今のところ安定』


「よかったです」


『油断はしないで』


「そちらも休憩してくださいね」


『切る』


 通信が途絶える。


「やっぱり休憩の話をすると切りますね」


 優斗が言った。


「聞こえなかったことにしたいのでしょう」


「便利ですね、それ」


 二人は県道の海側へ寄り、停車した車の陰を使いながら進んだ。


 建物の裏にいるという三体の姿は見えない。


 声も聞こえない。


 それが、かえって不気味だった。


 やがて前方に、錆びた金属製の門が見えてくる。


 門の上には、文字の消えかかった看板。


 ――汐見崎観光バス車庫。


 その奥に、何台もの大型バスが並んでいた。


「ここですね」


「リネン倉庫は、その隣です」


 真帆は門の外から、慎重に内部を確認した。


 大型バスが六台。


 整備用の建物。


 車庫の奥に、灰色の平屋倉庫がある。


 壁には、


 ――汐見崎地区共同リネンサービス。


 という文字が残っていた。


「物資が残っているといいですね」


「先に、車庫を抜けないといけません」


 優斗がバスを指差した。


 一番手前の車両。


 曇った窓の向こうで、何かが動いている。


 腐った手が、内側からガラスへ押しつけられた。


 どんっ。


 続けて、別の窓にも影が現れる。


 どん。


 どんっ。


「中にいます」


「少なくとも三体」


「扉は閉まっていますね」


 真帆は車両の前後を確かめた。


 前方の乗降扉は閉じている。


 窓も割れていない。


 今のところ、車内のゾンビは外へ出られない。


「こちらに気づいています」


「音を立てなければ、ガラスは破れないでしょうか」


「分かりません。近づきすぎない方がいいです」


 二人はバスから距離を取り、車庫の外周を回ることにした。


 手押し台車の車輪は、先ほど油を差したおかげで静かだった。


 だが、砂利を踏むたびに小さな音がする。


 バスの中のゾンビが、その音を追って窓を叩く。


 どん。


 どんっ。


 どんっ。


「急ぎましょう」


 優斗の声が硬くなる。


 二台目のバスは空だった。


 三台目は、側面の窓が大きく割れている。


 車内には何も見えない。


 だが、座席の間に黒い染みが残っていた。


「このバスには近づかないでください」


「外へ出た可能性がありますね」


 二人はさらに距離を取った。


 倉庫まで、あと二十メートルほど。


 その時。


 開いたままの整備工場から、低い声が聞こえた。


「ウウ……」


 一体のゾンビが、暗い建物の中から出てくる。


 油で汚れた整備服。


 片腕が不自然に垂れ下がっている。


 続けて、その後ろからもう一体。


「二体です」


「私が前へ出ます」


 真帆が神木棍を構える。


「一体、俺が引きつけます」


「無理はしないでください」


 優斗は台車から、短い鉄の棒を取り出した。


 護身用として千晴から渡されたものだ。


 武器というより、扉をこじ開けたり荷物を固定したりするためのバールだった。


 二体のゾンビが、別々の方向から近づいてくる。


 真帆は右側の一体へ向かった。


 神木棍を横へ振る。


 膝を打ち、体勢を崩す。


 返す棍で首筋を打ち、そのまま路面へ押し倒した。


 一方、優斗はバールを両手で握り、左側のゾンビと距離を取っている。


「こっちです!」


 声を上げず、足音と動きだけで注意を引く。


 ゾンビが優斗へ両腕を伸ばした。


 優斗は直前で横へ避ける。


 ゾンビの足元へ、バールを差し込む。


 てこのように持ち上げる。


「うわっ!」


 思った以上に重い。


 完全に倒すことはできない。


 だが、足を取られたゾンビが片膝をついた。


「優斗くん、そのまま!」


 真帆が駆け寄る。


 神木棍を、ゾンビの側頭部へ振り下ろした。


 ごっ。


 さらにもう一度。


 二体目も動きを止めた。


「大丈夫ですか?」


「はい」


 優斗は荒い息を吐きながら、バールを引き抜いた。


「千晴さんの真似をしました」


「足を狙ったんですね」


「でも、重すぎて全然倒せませんでした」


「動きを止めただけでも十分です」


「設備係見習いなのに、戦い方まで設備係ですね」


「工具は正しく使ってください」


「今のは正しい使い方だったんでしょうか」


「千晴さんには黙っておきましょう」


 二人は整備工場の内部を確認した。


 他に動くものはいない。


 その間にも、バスの中ではゾンビが窓を叩き続けていた。


「倉庫へ入りましょう」


     *


 共同リネン倉庫の正面シャッターは、途中まで下りていた。


 人が屈めば通れる程度の隙間がある。


 だが、台車を通すには低すぎる。


 横にある従業員用の扉を確かめると、鍵は壊れていた。


「中から何か聞こえますか?」


 真帆が尋ねる。


 優斗は扉へ耳を近づけた。


「……風の音だけです」


「開けます」


 真帆がゆっくりと扉を押す。


 蝶番が、低く軋んだ。


 ぎい。


 薄暗い倉庫内へ、外の光が細く差し込む。


 空気には、埃と洗剤の甘い匂いが残っていた。


 奥まで続く棚。


 積み上げられた段ボール箱。


 白いシーツを入れるための大型ワゴン。


 ビニール袋に包まれたタオル。


 倒れた荷物の間から、雑草が伸びている。


「ありました」


 優斗が、小声ながらも喜びを隠せない声を出した。


 入口近くの棚。


 そこに、業務用洗剤と書かれた箱が並んでいる。


「まだ喜ぶのは早いです」


 真帆は神木棍を構えたまま、倉庫内へ入った。


「中を確認してからです」


 二人は入口の扉を閉めず、そのまま開けておいた。


 緊急時の退路を確保するためだ。


 まず、事務室。


 扉は閉まっている。


 ガラス窓の向こうを覗く。


 机。


 棚。


 床へ散らばった書類。


 人影はない。


 次に、倉庫奥。


 大型ワゴンの陰。


 棚と棚の間。


 一つずつ慎重に確認していく。


「何もいませんね」


「まだ決めつけないでください」


 真帆が答えた直後。


 布の擦れる音が聞こえた。


 さっ。


 二人は同時に動きを止めた。


 右手。


 使用済みのシーツが積まれた、大型の布製ワゴン。


 白い布の山が、わずかに揺れている。


「風ですか?」


「入口からは離れています」


 真帆は神木棍の先を、ワゴンへ向けた。


 一歩。


 また一歩。


 近づく。


 ワゴンの端から、灰色に変色した指が垂れ下がっていた。


「下がって」


 真帆が小声で言う。


 次の瞬間。


「ガアッ!」


 シーツを跳ね上げ、一体のゾンビがワゴンから飛び出した。


 白い布を頭から被ったまま、真帆へ腕を伸ばす。


「真帆さん!」


 視界を塞がれたゾンビが、方向を定められずに暴れる。


 真帆は正面へ出ず、横へ回り込んだ。


 神木棍で片脚を払う。


 ゾンビが倒れ、床へ肩を打ちつける。


 それでも両腕を振り回して起き上がろうとした。


 真帆はシーツ越しに頭の位置を見定める。


「はっ!」


 棍を振り下ろす。


 鈍い音。


 もう一度。


 ゾンビの動きが止まった。


 倉庫へ、再び静けさが戻る。


「びっくりしました……」


 優斗が胸を押さえた。


「洗濯物の中で寝ていたんでしょうか」


「三年間も?」


「それは寝ていたとは言わないと思います」


 真帆は慎重にシーツを外した。


 ゾンビは、倉庫の従業員らしい作業着を身につけている。


 胸元には、


 ――汐見崎リネンサービス 佐々木。


 という名札が残っていた。


「ここを守っていた人でしょうか」


「分かりません」


 パンデミックが始まった日。


 家へ帰ろうとしたのか。


 倉庫へ逃げ込んだのか。


 それとも、最後まで仕事をしていたのか。


 今となっては、確かめることはできない。


 真帆は、わずかに頭を下げた。


「必要なものを、いただきます」


 返事はない。


 それでも、旅館で使われるはずだった品を持ち帰る以上、何も言わずに奪うような真似はしたくなかった。


     *


 倉庫の安全を確認したあと、二人は物資の選別を始めた。


「洗剤、ありました!」


 優斗が棚から箱を下ろす。


 箱の中には、五キロ入りの業務用粉末洗剤が四袋。


 袋は未開封で、湿気も入っていない。


「全部持って帰れますか?」


「二十キロありますよ」


「台車なら運べます」


「帰りは坂道です」


「……二袋にしましょう」


「はい」


 真帆は未開封の洗剤を二袋選び、台車へ載せた。


 次は、固形石鹸。


 個包装されたものが一箱。


 手洗い用の液体石鹸も、詰め替え容器が三本残っていた。


「これも必要ですね」


「全部?」


「石鹸は軽いです」


「その考え方で積んでいくと、最後には重くなりますよ」


「では、半分だけ」


 次に見つけたのは、消毒用アルコール。


 だが、容器の一部は変形し、中身が蒸発している。


 未開封で状態のよいものだけを選ぶ。


「塩素系の漂白剤もあります」


 優斗が大型ボトルを持ち上げた。


「持ち帰りますか?」


 真帆が無線機を取る。


「千晴さん。倉庫へ到着しました」


『予定より少し遅い』


「ゾンビが三体いました」


『怪我は?』


「ありません」


『物資は?』


「洗剤、石鹸、消毒用アルコールがあります。塩素系漂白剤も見つけました」


『容器が劣化してないものだけ。酸性洗剤とは分けて運んで』


「混ぜると危険なんですよね」


『有毒なガスが出る。別の袋へ入れて』


「分かりました」


『機械油は?』


「まだ見つかっていません」


 一瞬、通信が静かになる。


『絶縁テープは?』


「まだです」


『ヒューズ』


「リネン倉庫にあると思いますか?」


『事務所か整備棚』


「探してみます」


『天気が崩れてきてる。三十分で切り上げて』


「分かりました」


 真帆は通信を終えた。


「千晴さん、物資より帰宅時間を気にしていましたね」


 優斗が言う。


「心配してくれているんです」


「機械油より、ですかね」


「同じくらいだと思います」


「同じなんですか……」


 二人はさらに棚を確認した。


 未使用のタオル。


 真空包装されたシーツ。


 浴衣用の帯。


 枕カバー。


 客室用のスリッパ。


 使い捨て歯ブラシ。


 小型の石鹸。


 真帆の目が輝き始める。


「優斗くん。これも載せましょう」


「スリッパ二十足は多すぎます」


「お客様が来た時に必要です」


「今あるものを洗って使えます」


「歯ブラシは?」


「一箱なら」


「タオルは?」


「十枚」


「シーツは?」


「二組」


「浴衣は?」


「もう積めません!」


 優斗は両腕を広げ、台車を守るように立った。


 台車にはすでに、


 洗剤十キロ。


 石鹸。


 消毒液。


 漂白剤。


 タオル。


 シーツ。


 ゴム手袋。


 ごみ袋。


 歯ブラシ。


 が積まれている。


「まだ余裕があります」


「荷台にはあります。でも、俺の足腰にはありません」


「坂道では私も押します」


「真帆さんは戦わないといけません」


「戦わずに帰れるかもしれません」


「そうだといいんですが……」


 真帆は名残惜しそうに、スリッパの箱を棚へ戻した。


 その時。


「真帆さん。これ」


 優斗が、倉庫の奥にある小さな棚を指差した。


 配達用車両の整備用品らしい。


 工具。


 予備電球。


 配線。


 絶縁テープ。


 小型のヒューズ。


 潤滑油。


「千晴さんの一覧です」


「優先度五が、三つありますね」


「持っていきましょう」


「急に積極的になりましたね」


「持ち帰らないと、機関室で一生言われます」


「それは困ります」


 絶縁テープを数巻。


 適合しそうなヒューズを一箱。


 未開封の潤滑油を一本。


 それぞれ袋へ分け、荷台の隙間へ入れる。


「これで、機関室への土産もできました」


「温泉旅館の仕入れとは思えませんね」


「潮見亭には必要です」


 選別を終えた時。


 倉庫の外から、激しい金属音が響いた。


 がしゃんっ!


 二人の表情が変わる。


「何の音です?」


「車庫の方です」


 続いて。


 どんっ。


 がしゃっ。


 ガラスが割れる音。


 低い唸り声。


「バス……」


 真帆は入口へ走り、外を覗いた。


 手前に停まっていた大型バス。


 内側から何度も叩かれていた窓の一枚が、割れている。


 安全ガラスが細かな破片となって崩れ落ち、そこから腐った腕が伸びていた。


「アアアア……!」


 一体のゾンビが、割れた窓から上半身を乗り出している。


 その後ろにも、複数の影が動いていた。


「まずいです」


「すぐ出ましょう」


 優斗は台車の荷物を固定する。


 真帆は倉庫内に残された大型の金属ワゴンを、入口近くへ移動させた。


「何をしてるんです?」


「入口を狭くします」


 倉庫の扉は、人が二人並んで通れる幅がある。


 そこへ金属ワゴンを斜めに置けば、ゾンビが一度に入れる数を減らせる。


「台車を先に外へ出してください」


「でも、ゾンビが」


「まだバスから出ていません。今のうちに」


 優斗は荷台を押し、倉庫の外へ出た。


 車庫を見る。


 一体目のゾンビが、窓から地面へ落ちた。


 続けて二体目。


 三体目。


「三体出ました!」


「台車を倉庫の裏へ回してください!」


「真帆さんは?」


「すぐ行きます!」


 真帆は倉庫入口へ金属ワゴンを押し込み、移動できないよう車輪を固定した。


 さらに、別のワゴンをその後ろへ重ねる。


 完全な壁にはならない。


 だが、足止めにはなる。


「アアアアッ!」


 外からゾンビの声が近づいてくる。


 真帆は神木棍を構え、入口から離れた。


 一体目が倉庫へ飛び込もうとする。


 しかし、斜めに置かれたワゴンへ体をぶつけた。


 がんっ。


 腕だけを隙間から伸ばし、真帆を掴もうとする。


 真帆はその腕へ棍を叩きつけた。


 骨が折れる。


 それでもゾンビは止まらない。


 二体目が背後から押す。


 ワゴンが、わずかに動いた。


「長くはもちませんね……!」


 真帆はワゴンへ棍を差し込み、てこのように押し戻した。


 その間に、三体目が倉庫横の壁を回り始める。


 裏手へ向かっている。


「優斗くん!」


 真帆は無線機へ叫んだ。


「倉庫の横を一体回りました!」


『見えてます!』


 優斗の声。


『こっちへ来ました!』


「戦わず、台車を押して離れてください!」


『でも、荷物が重くて――』


 その直後。


 外から、金属が転がる大きな音が響いた。


 からん。


 がらがらがらっ!


 ゾンビの声が、倉庫裏から離れていく。


 真帆は一瞬、何が起きたのか分からなかった。


『工具箱を投げました!』


 優斗の声が無線から飛ぶ。


『坂の下へ転がってます! ゾンビが追いかけました!』


「千晴さんの工具ではありませんよね!?」


『倉庫にあった空箱です!』


「それなら大丈夫です!」


 真帆は入口のゾンビへ視線を戻した。


 ワゴンの隙間から伸びていた腕が、再び動く。


 棍を突き込み、頭部を強く押す。


 ゾンビの顔が、金属枠へぶつかった。


 真帆は一度棍を引く。


 狙いを定め、側頭部へ横打ちを放った。


 ごっ!


 頭部と金属枠の間で、強い衝撃が加わる。


 一体目が崩れ落ちた。


 その体につまずき、二体目が前のめりになる。


 真帆はワゴンの隙間から神木棍を差し込み、足を払った。


 倒れたゾンビの頭部へ棍を振り下ろす。


 一度。


 二度。


 動きが止まった。


 だが、バスの割れた窓から、さらに別の影が這い出そうとしている。


「これ以上は無理です」


 真帆は倉庫裏へ走った。


     *


 倉庫の裏手には、配送用トラックが停められていた。


 荷台の扉は開いたまま。


 その陰で、優斗が必死に台車を押さえている。


「真帆さん!」


「行きましょう!」


 台車の持ち手を二人で握る。


 荷物が増えた分、車輪の動きは重い。


 車庫からは、バスを叩く音とゾンビの声が続いている。


 先ほど工具箱を追っていった一体は、坂の下で音の消えた箱を探していた。


 今なら抜けられる。


「県道ではなく、裏道へ出ます!」


「千晴さんの地図にありましたね!」


 倉庫の裏には、海沿いの民宿へ続く細い搬入路があった。


 舗装はひび割れ、雑草が伸びている。


 だが台車が通れないほどではない。


 二人は荷物を押しながら走った。


「重い!」


「頑張ってください!」


「やっぱりスリッパを置いてきて正解でした!」


「次は持って帰りましょう!」


「次も来るんですか!?」


 搬入路を抜ける。


 古い民宿の裏手へ出た。


 振り返ると、倉庫は塀の向こうへ隠れている。


 ゾンビが追ってくる様子はない。


 二人はそこで初めて足を止めた。


 優斗は台車の持ち手へ額をつけ、大きく息を吐く。


「仕入れって……こんなに大変でしたっけ」


「以前から危険でしたよ」


「今回は洗剤ですよ。食料でも薬でもなく、洗剤です」


「洗剤も、生きていくために必要です」


「必要ですけど、命を懸けて買いに行くものではない気がします」


「お金は払っていません」


「そこじゃありません!」


 真帆は周囲を確認してから、無線機を取り出した。


「千晴さん。物資を確保しました。倉庫から離れています」


 すぐに返事があった。


『無事?』


「はい。バスの窓が割れて、ゾンビが外へ出ました」


『何体?』


「確認できたのは四体です。二体は倒しました。一体は音で誘導して、残りは車庫付近にいます」


『同じ道では帰らないで』


「裏道から県道へ戻ります」


『雨が来る。今すぐ帰って』


 真帆が空を見上げる。


 先ほどまで青かった空は、灰色の雲に覆われていた。


 海の色も暗くなっている。


「分かりました」


『物資は?』


「洗剤、石鹸、消毒液、漂白剤、タオル、シーツ、歯ブラシ。それから、絶縁テープとヒューズと機械油です」


 通信の向こうが、一瞬だけ静かになる。


『……そう』


「うれしいですか?」


『必要なものが揃っただけ』


「声が少し明るいですよ」


『雨が降る前に帰って』


 通信が切れた。


「やっぱり喜んでますね」


 優斗が笑う。


「帰ったら、最初に渡してあげましょう」


「洗剤より先にですか?」


「そうしないと、拗ねるかもしれません」


「拗ねてないって言われますよ」


 ぽつり。


 真帆の頬へ、冷たいものが落ちた。


 一滴。


 続いて、二滴。


「降ってきました」


「洗剤が濡れたら大変です!」


 二人は倉庫から回収した厚手のごみ袋と防水シートを、荷物の上へ被せた。


 ロープで固定する。


「帰りましょう」


「はい!」


     *


 帰路は、行きよりもずっと長く感じられた。


 荷物を満載した台車は重い。


 平坦な道ならまだいい。


 だが潮見亭へ戻るためには、最後に長い坂を上らなければならない。


 雨は次第に強くなり、路面を濡らしていく。


 車輪が水たまりへ入るたび、台車が大きく揺れた。


「押します!」


 真帆も台車の横へ回り、優斗とともに力を込める。


「神木棍は?」


「荷台へ固定しました」


「ゾンビが来たら?」


「すぐ外します」


「今は来ないでほしいですね!」


「同感です!」


 雨音が周囲を包んでいる。


 それは二人の足音や台車の音を隠してくれる一方で、ゾンビの接近音も聞こえにくくしていた。


 真帆は何度も立ち止まり、周囲を確認した。


 幸い、行きに見た観光法被のゾンビ以外とは遭遇しなかった。


 町の北側にいた三体も、雨を避けるように建物の軒下を徘徊している。


 二人は姿勢を低くし、放置車両の陰を使って通り抜けた。


 坂道へ差しかかる頃には、優斗の呼吸はすっかり荒くなっていた。


「洗剤……重いですね……」


「五キロが二袋ですから」


「どうして数字で聞くと、もっと重く感じるんでしょう」


「あと少しです」


「真帆さんの『あと少し』も信用できません」


「潮見亭の屋根が見えていますよ」


 雨の向こう。


 崖の上に建つ潮見亭の屋根が見える。


 湯小屋の煙突からは、白い蒸気が立ち上っていた。


 源泉は、今も止まっていない。


「帰ってきましたね」


 優斗が息を吐く。


「まだ玄関まであります」


「今くらい、安心させてくださいよ」


 二人は最後の坂を押し上げた。


     *


「真帆!」


 玄関の戸が開く。


 リリカが、雨の中へ飛び出しかけた。


「外へ出てはいけません!」


 薫子が後ろから浴衣の帯を掴み、引き止める。


「でも、帰ってきた」


「中で待ってください!」


「わふっ!」


 ゆずも玄関先で尻尾を振っている。


 後ろ脚を庇いながらも、今にも駆け出しそうだった。


「ただいま戻りました!」


 真帆が声を上げる。


「遅えぞ!」


 西村が軒下まで出てきた。


「雨が降る前に帰れと言ったでしょう」


 千晴も、その後ろに立っている。


「降る前には間に合いませんでした」


「見れば分かる」


「でも、物資は濡らしていません」


「洗剤は?」


 リリカが尋ねる。


「あります」


 真帆は防水シートをめくった。


 台車の上には、未開封の業務用洗剤。


 石鹸。


 タオル。


 シーツ。


 生活に必要な品が並んでいる。


「これで洗える?」


「はい。しばらくは大丈夫です」


「きれいなシーツを作れる?」


「作れます」


 リリカは安心したように笑った。


 その横で、千晴は荷台を見つめている。


「絶縁テープ」


「あります」


「ヒューズ」


「あります」


「機械油」


「ありますよ」


 真帆が一本ずつ手渡す。


 千晴は受け取り、状態を確かめた。


「未開封。規格も使える」


「よかったですね」


「必要なものが揃っただけ」


「声が明るいです」


「雨の音でそう聞こえるだけ」


「では、そういうことにしておきます」


 優斗は台車へもたれかかった。


「誰か、荷物を下ろすのを手伝ってください……」


「仕入れへ行った人間の仕事だろうが」


 西村が言う。


「帰るまでが仕入れじゃないんですか?」


「片づけるまでだ」


「聞いてませんよ!」


「今、教えた」


「千晴さんみたいな言い方をしないでください!」


「どういう意味?」


 千晴が冷たい視線を向ける。


「何でもありません」


 優斗は力なく首を振った。


     *


 その日の午後。


 潮見亭の洗濯機は、久しぶりに十分な量の洗剤を使って動いていた。


 ごうん。


 ごうん。


 丸い窓の中で、白いシーツが水と一緒に回っている。


 リリカは洗濯室の前へ座り、その様子をじっと眺めていた。


 隣には、ゆず。


 そして籠いっぱいの洗濯ばさみ。


「ぐるぐるしてる」


「見ていると、少し眠くなりますね」


 真帆が言う。


「仕事?」


「洗濯機が働いています」


「わたしは?」


「見守るお客様です」


「優斗と同じ?」


「優斗くんは、荷物を片づけています」


 廊下の向こうから、優斗の声が聞こえた。


「洗剤、こんなに棚の上へ載りませんよ!」


『一袋は機関室前の備品庫』


「どうして洗剤を機関室へ置くんですか!」


『湿気が少ないから』


「千晴さんの工具でいっぱいです!」


『整理して』


「俺がですか!?」


 リリカは声の方角を見て、小さく笑った。


「優斗、大変」


「設備係見習いですからね」


「洗剤係にもなった?」


「今日だけだと思います」


「たぶん?」


「たぶんです」


 洗濯機が停止する。


 真帆は扉を開け、洗い終えたシーツを取り出した。


 地下の泥。


 汗。


 医務室でついた汚れ。


 それらはきれいに落ちている。


 白い布からは、控えめな石鹸の香りがした。


「きれい」


 リリカが呟く。


「干すのを手伝ってもらえますか?」


「仕事?」


「お手伝いです」


「やらなくても、ここにいていい?」


「もちろんです」


 リリカは真剣な顔で頷いた。


「じゃあ、やります」


     *


 雨が上がった夕方。


 中庭には、洗い終えた白いシーツが並んでいた。


 雲の切れ間から差し込む夕日を受け、濡れた布が柔らかく輝いている。


 リリカは、洗濯ばさみを一つずつ真帆へ渡していた。


「次」


「はい」


「青」


「青ですね」


「次も青」


「同じ色を揃えたんですか?」


「左右が同じ方が、気持ちいいから」


 以前、真帆が教えた言葉を覚えていたらしい。


「ありがとうございます」


「洗剤の匂いがする」


「お日様の匂いも、明日には加わりますよ」


「本当?」


「晴れれば」


 リリカは空を見上げる。


 雨雲は、海の向こうへ流れ始めていた。


「次のお客様も、これを使う?」


「はい」


「いつ来る?」


「それは分かりません」


「来ないかもしれない?」


「そうかもしれません」


 真帆は、風に揺れるシーツを見つめた。


「それでも、いつ来てもいいように準備しておくんです」


「誰も来なくても?」


「宿ですから」


 リリカは少し考えたあと、青い洗濯ばさみを真帆へ差し出した。


「じゃあ、次のお客様の分」


「はい」


 真帆は最後の洗濯ばさみで、シーツの端を留めた。


 白い布が、夕方の風を受けて大きく膨らむ。


 倉庫で出会った、名も知らないままゾンビになった従業員。


 かつて町の旅館へシーツやタオルを届けていた人々。


 その仕事の続きが、今こうして潮見亭で役立っている。


 温泉が戻っても、洗剤は戻らない。


 食料も、薬も、日用品も、使えば減っていく。


 これからも、必要なものを探しに外へ出なければならない。


 そのたびに、危険と向き合うことになる。


 それでも。


 真帆は、風に揺れる清潔なシーツを見上げた。


 潮見亭は今日も、次の客を迎える準備を続けている。


「真帆」


 リリカが袖を引いた。


「何ですか?」


「次の仕入れは、何を取りに行くの?」


 真帆は答えようとして、少し迷った。


 厨房では、塩や油が減っている。


 医務室では、薬と消毒液が足りない。


 機関室では、千晴の必要物資一覧が増え続けている。


「そうですね……」


 その時。


 厨房の窓が開き、西村が顔を出した。


「次は食い物だ!」


「やっぱりですか」


「洗剤じゃ腹は膨れねえからな!」


 続いて、機関室のスピーカーから千晴の声が響く。


『交換用のベアリングも』


「食べられませんよ!」


 優斗の声が、廊下の向こうから返ってくる。


『必要』


「まず食料です!」


「両方探しましょう」


 真帆が言うと、優斗の悲鳴が響いた。


「荷物が増える未来しか見えません!」


 リリカは、そのやり取りを聞きながら小さく笑った。


 潮見亭の仕入れは、一度では終わらない。


 生きている限り。


 誰かを迎え続ける限り。


 必要なものは、いくらでも出てくるのだから。


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