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第十六話 はじめての磯遊びと、満ちてくる潮


 初夏の風が、中庭に干された白いシーツを大きく膨らませていた。


 昨日、共同リネン倉庫から持ち帰った洗剤で洗ったものだ。長い間染みついていた汗と泥の匂いは消え、風が吹くたび、清潔な布の香りが縁側まで流れてくる。


 その向こう。


 裏庭の鶏小屋から、朝の静けさを破るような鳴き声が聞こえた。


「こけえっ!」


「今日も産んでるな」


 西村が、食事処の机へ小さな竹籠を置いた。


 中には、まだ温もりの残る卵が三個。


 潮見亭で飼っている雌鶏が、今朝産んだものだった。


 その隣には、裏庭の菜園から採った小松菜と葱。大きさも形も不揃いだが、鮮やかな緑色をしている。


「卵と野菜がありますね」


 真帆が籠を覗き込む。


「本日の朝食は、卵焼きでしょうか」


「一人一個あるように見えるか?」


 西村が答えた。


 現在、潮見亭で暮らしている人数に対し、卵は三個。


「では、三人だけ卵焼きですね」


「喧嘩を売るな。汁物へ溶いて全員分にする」


「少し寂しいですね」


「毎日産むとは限らねえんだ。雛にする分も残さなきゃならん」


 西村は菜園の野菜を持ち上げる。


「こっちも、全員の腹を満たす量じゃねえ。味噌汁へ入れて、食卓から緑色が消えねえようにする程度だ」


「それでも、自分たちで作ったものです」


 真帆は嬉しそうに言った。


「立派な自給自足ではありませんか」


「自給自足ってのは、これだけ食って生きられるようになってから言え」


 西村は食事処の隅へ置かれた、厚い帳面を開いた。


 潮見亭の食料管理簿。


 米。


 麦。


 乾麺。


 缶詰。


 調味料。


 卵。


 野菜。


 魚。


 それぞれの在庫と使用量が、細かな文字で記されている。


 穀類については、まだ余裕があった。


 食料庫には、火村が周辺の倉庫や廃業した宿泊施設から集めてきた米袋、小麦粉、乾麺、押し麦が、湿気を避けるため木製の台の上へ積まれている。


 すぐに飢える量ではない。


 だが、それらは畑から採れるものではなかった。


 食べれば、その分だけ確実に減る。


「火村さんが集めてくれた米は、まだあります」


 優斗が帳面を覗き込んだ。


「しばらくは大丈夫なんじゃないですか?」


「その“しばらく”が終わってから慌てても遅え」


 西村は帳面の一項目を指で叩いた。


 ――鮮魚。


 記録された数字は、日を追うごとに小さくなっている。


「最近、魚が取れてねえ」


「釣りには行っているんですよね?」


「ああ。崖下の釣り場にな」


 潮見亭から下りた場所には、古い船着き場を利用した釣り場があった。


 火村が安全を確認し、壊れた手すりや階段を補修してくれた場所である。


 潮見亭から近い。


 短時間で行ける。


 危険があれば、すぐ戻れる。


 そのため、これまでは魚を得るための重要な場所になっていた。


「ここ十日で釣れたのは、小魚が四匹。まともな大きさは一匹だけだ」


「魚がいなくなったんですか?」


 リリカが尋ねた。


 今朝の彼女は、客室用の淡い水色の浴衣を着ている。


 その隣には、後ろ脚の包帯が少しだけ小さくなったゆずが座っていた。


「いなくなったとは限らん」


 西村が答える。


「潮の流れが変わったのかもしれねえ。時期が悪いのかもしれねえし、同じ場所へ餌を落とし続けたせいで、魚が寄らなくなった可能性もある」


「魚にも、飽きられたんですか?」


 優斗が言う。


「お前の釣り方には飽きるほどの工夫もねえ」


「まだ一度しか釣りをしたことがありません!」


「一度で分かる」


「ひどい!」


 真帆は帳面を見た。


 穀類はある。


 卵も、少ないながら得られる。


 菜園では最低限の野菜を育てている。


 だが、どれか一つが駄目になれば、食卓はすぐに偏る。


 鶏が病気になれば、卵は途絶える。


 虫や天候で畑が壊れれば、野菜は消える。


 穀類の備蓄も、永遠には続かない。


「それで、新しい釣り場を探すんですね」


 真帆が尋ねた。


「そうだ」


 西村は周辺地図を食卓へ広げた。


「一つの場所だけに頼るのは危険だ。今の釣り場が完全に駄目になってから、次を探し始めたんじゃ遅い」


「火村さんも、似たことを言っていました」


 優斗が呟く。


「食料も退路も、一つに頼るなって」


「その言葉を覚えてるなら、もう少し普段から使え」


「使ってますよ」


「昨日、倉庫で歯ブラシを三箱持とうとしただろ」


「あれは真帆さんです!」


「優斗くん」


「俺まで巻き込まないでください!」


 真帆は静かに視線を逸らした。


「今日は釣りをするんですか?」


「いや。まず下見だ」


 西村は地図上の海岸を指で叩いた。


「温泉街の南側に、小さな入り江がある。昔、観光客向けの磯遊び場だった場所だ」


「磯遊び?」


 リリカが首を傾げる。


「潮が引いた時に、岩場でカニや貝を探すんです」


 真帆が説明した。


「潮だまりには、小さな魚がいることもありますよ」


「遊ぶのに、食べる?」


「昔は観察するだけのお客様も多かったです」


「今日は食べる」


 西村が言った。


「ただし、食べ物を取るのはついでだ。足場、潮の流れ、釣りができる場所、逃げ道を確認する」


「釣り場として使えそうなら?」


「今の場所と交代で使う。魚を休ませる期間も作れる」


 西村は帳面へ、指を三本立ててみせた。


「理想は三か所だ」


「三か所も必要ですか?」


「必要だ。一か所が駄目でも、二か所残る」


「そこまで増やせるでしょうか」


「だから探すんだ」


 西村は古い潮汐表を地図の横へ置いた。


 紙は日に焼け、端が波打っている。


 三年前まで、釣り客向けに潮見亭の帳場へ置かれていたものだ。


「今日の干潮は、午前十時四十分ごろ」


「三年前の表を使って大丈夫なんですか?」


 優斗が尋ねる。


「日付は違うぞ」


「ですよね!」


「月の動きから、おおよその時間を計算し直した」


 西村が答えるより先に、壁のスピーカーから千晴の声がした。


『誤差はある』


「千晴さんが計算したんですか?」


『古い潮汐表と月齢。それに、ここ数日の潮位を比較した。干潮は十時半から十一時の間』


「そんなことも分かるんですね」


『計算上は』


「つまり?」


『外れる可能性もある』


「怖いことを最後に言わないでください!」


『海に絶対を求めないで』


 千晴の声は、いつもよりわずかに厳しかった。


『岩場にいる時間は一時間以内。十一時半には必ず引き上げて』


「早くありませんか?」


『帰り道が海に沈んでからでは遅い』


 西村が頷く。


「千晴の言うとおりだ。欲張るな。波が高くなったら、その時点で終わりだ」


「食べられるものは、西村さんが判断するんですか?」


 真帆が尋ねた。


「ああ。知らねえ貝や海藻には触るな。見た目が似ていても、食えねえものはある」


「俺、貝なんて全部同じに見えます」


「だから勝手に拾うな」


「カニは分かります」


「種類も見ずに食えると思うな」


「厳しい!」


「腹を壊すよりましだ」


 優斗は黙った。


「誰が行きますか?」


 薫子が尋ねる。


「俺と真帆ちゃん。それに優斗だ」


 西村が答えた。


「西村さんも行くんですか?」


「釣り場を決めるのは俺だ。それに、食えるものを見分ける人間が必要だろ」


「戦闘は?」


「期待するな。包丁なら使えるが、ゾンビ相手に料理する気はねえ」


「西村さんは、海と食材の確認を優先してください」


 真帆が言った。


「ゾンビが出たら、私と優斗くんで対応します」


「俺もですか?」


「昨日も立派に動けていましたよ」


「空の工具箱を転がしただけです」


「音で誘導するのも大切な判断です」


『今日は台車を持っていかないで』


 千晴が口を挟んだ。


「どうしてです?」


『海岸へ下りる階段が急。砂と岩場では車輪が使えない』


「では、荷物は背負うしかありませんね」


『網袋と小型の籠だけ。両手は空けておいて』


「獲物がたくさん取れたら?」


『持てる分だけ』


「西村さん、聞きましたか?」


 優斗が得意げに言う。


「欲張るな、だそうです」


「お前に言われたくねえ」


     *


 出発の準備は、昨日よりも軽装だった。


 真帆は神木棍。


 優斗は短いバール。


 西村は腰へ厚手の作業用ナイフを下げ、背中に籠を背負う。


 ほかには、網袋。


 軍手。


 滑りにくい長靴。


 飲料水。


 救急用品。


 無線機。


 そして西村が以前、漁港から回収していた、先端の曲がった長い鉄棒。


「それは何ですか?」


 優斗が尋ねる。


「岩の隙間を確認したり、貝を剥がしたりする道具だ」


「武器にもなりそうですね」


「岩場で振り回したら、自分が海へ落ちるぞ」


「今日は道具を正しく使えと言われてばかりです」


「お前は、何度でも言われた方がいい」


 玄関前では、リリカとゆずが見送りに出ていた。


「わたしは、また留守番?」


 リリカが尋ねた。


「はい」


 真帆は少女の前へ膝をついた。


「今日は濡れた岩場を歩きます。とても滑りやすくて危険なんです」


「ゆずも?」


「ゆずも、まだ脚が完全には治っていません」


「わふ……」


 ゆずは不満そうに鼻を鳴らした。


「リリカちゃんには、お願いがあります」


「仕事?」


「やらなくても、ここにいていいお手伝いです」


「分かっています」


 少し得意そうに答える。


「何をするの?」


「取ってきたものを入れる籠を、きれいに洗っておいてください」


 真帆が、小さな竹籠を示した。


「それから、ゆずと一緒に待っていてください」


「見守る仕事」


「はい」


「海も見ておく」


「海は、窓から見るだけにしてくださいね」


「波が大きくなったら、千晴に言う」


「それは助かります」


『私も見てる』


 玄関脇のスピーカーから、千晴の声がした。


「ですが、リリカちゃんにも見てもらえれば安心です」


『監視する人が増えすぎ』


「いいことではありませんか?」


『報告が三人分来ると面倒』


「千晴さん」


『……波が高くなったら教えて』


「分かりました」


 リリカは真剣な顔で頷いた。


「今日は、何を持って帰ってくるの?」


「新しい釣り場の情報です」


 真帆が答えた。


「食べられない?」


「食べられませんが、とても大切です」


「魚は?」


「取れそうなら、海藻や貝を少しだけ」


「豪華?」


「西村さん次第ですね」


「夕飯の汁物くらいにはしてやる」


 西村が言う。


「取れればな」


「最後に不安を残さないでくださいよ」


 優斗が肩を落とした。


     *


 海岸へ向かう道は、前日の雨で濡れていた。


 土の斜面からは水が染み出し、道路脇には小さな水たまりができている。


 真帆は先頭を歩きながら、足元に残る痕跡を探した。


 人間の足跡。


 動物のもの。


 ゾンビが足を引きずった跡。


 だが、新しい痕跡は見当たらない。


「今のところ、安全そうです」


「今のところ、か」


 西村が言った。


「千晴さんの口癖が移っていますよ」


 優斗が笑う。


「絶対安全な場所なんてねえからな」


「潮見亭もですか?」


「地下に、あんなものがいるだろ」


 優斗の笑みが消えた。


 硫黄を苦にしない異形のゾンビ。


 潮見亭を守ってきた温泉の防壁が通じない存在。


 今は地下の鉄蓋の下へ封じ込めているが、いつまでも安全とは限らない。


「今日くらい、地下のことは忘れましょう」


 真帆が言った。


「忘れるな」


 西村が即座に返す。


「忘れたふりをするくらいにしろ」


「難しい注文ですね」


「生き残るには、それくらいがちょうどいい」


 坂を下り、海沿いの道路へ出る。


 朝の光を反射した海面が、細かく揺れている。


 潮見亭の崖下にある釣り場とは、波の入り方が少し違った。


 西村は歩きながら、何度も海へ視線を向けた。


「西村さん。もう魚を探しているんですか?」


「海の形を見てる」


「形?」


「波がぶつかる場所。潮が流れ込む溝。海藻の生え方。魚が寄りそうな影」


「俺には、全部同じ海に見えます」


「なら覚えろ」


「簡単に言いますね」


「俺だって、見ただけで全部分かるわけじゃねえ。だから下見に来たんだ」


 遊歩道を進むと、錆びた看板が見えてきた。


 ――汐見崎ふれあい磯。


 看板には、親子連れがカニや貝を観察するイラストが描かれている。


「昔は、子どもが遊びに来ていた場所ですか?」


 優斗が尋ねた。


「夏休みは人だらけでした」


 真帆が答える。


「潮見亭へ泊まったお客様も、よくここへ来ていましたよ」


「真帆さんも?」


「小さい頃、祖父に連れてきてもらいました」


「何か取れました?」


「カニを捕まえようとして、海へ落ちました」


「今とあまり変わっていませんね」


「どういう意味ですか?」


「危ない場所へ迷わず行くところが――」


 真帆が振り返る。


「何でもありません」


 優斗は海へ視線を逸らした。


     *


 遊歩道の先には、海岸へ下りる石段があった。


 一部は波と風で崩れ、手すりも赤く錆びている。


 下には、潮が引いたことで現れた広い岩場が広がっていた。


 大小の潮だまり。


 濡れた黒い岩。


 海藻の揺れる水面。


 岩の隙間を、小さなカニが横切っていく。


「すごい……」


 優斗が声を漏らした。


「海が遠くなっています」


「潮が引いてるからな」


 西村は石段の途中で立ち止まり、周囲を確認した。


 波の高さ。


 風向き。


 階段から高い場所までの距離。


 岩場の幅。


「ここが使えれば、何が釣れそうですか?」


 真帆が尋ねた。


「岩の近くなら根魚。時期によっては小魚も回るだろう」


 西村は海へ突き出した岩棚を指した。


「あの辺りは竿を出せそうだ。ただし、逃げ道が一本しかねえ」


「この階段ですね」


「ああ。壊れたら終わりだ」


「修理すれば?」


「手すりは直せる。だが、潮が満ちた時に岩場がどこまで沈むか確かめねえと、普段使いはできん」


『時間を記録して』


 無線機から千晴の声がした。


「聞こえていたんですか?」


『つながったまま』


「到着は午前十時三十一分です」


『干潮予測の範囲内。水際の位置を印に残して』


「何のためです?」


『次に来た時、潮位を比較できる』


 西村は石段の下から数段目へ、小さな白い印をつけた。


「波はまだ低い。風も強くない」


 続いて、足元の岩場を見る。


「ただし、濡れてる場所は滑る。緑色の海藻がついた岩には、できるだけ乗るな」


「分かりました」


「足元ばかり見て、波を忘れるな。大きい波が来たら、岩にしがみつくより高い場所へ逃げろ」


「荷物は?」


「捨てろ」


「即答ですね」


「命より大事な貝はねえ」


 三人は慎重に石段を下りた。


 最初の岩へ足を置いた瞬間、優斗の長靴が少し滑った。


「うわっ」


 真帆がすぐに腕を掴む。


「大丈夫ですか?」


「はい。まだ一歩目ですけど」


「だから気をつけろと言っただろ」


「気をつけた結果がこれです」


「先が思いやられるな」


 西村は慣れた様子で、安定した岩だけを選んで進んでいく。


 普段は厨房にいることが多いが、足取りに迷いがない。


「西村さん、磯に詳しいんですね」


「昔、親父に連れ回された」


「漁師だったんですか?」


「料理人だ。だが、食材がどこから来るのかも知らずに包丁は握れねえって人だった」


 西村は潮だまりの前へしゃがみ込む。


「見ろ」


 岩の表面に、小さな巻き貝がいくつも張りついている。


「これは食える」


「全部取りますか?」


「小さいのは残す」


「どうしてです?」


「次に来た時、何もいなくなるだろ」


 西村は大きなものだけを選び、鉄棒の先で岩から剥がした。


 ころん、と掌へ落ちる。


「取れるからって、全部取るな。今日腹を満たして、明日空っぽじゃ意味がねえ」


「釣り場も、休ませる必要があるんですね」


「そうだ。畑と同じだ」


 西村は周囲の岩場を見回した。


「一か所から取れるだけ取り続けりゃ、いつか何も残らなくなる」


 優斗も同じように道具を当てようとする。


「先を貝の下へ入れて、捻る。力任せに突くな」


「こうですか?」


 ぐっ。


 鉄棒へ力を込める。


 貝は外れなかった。


 代わりに道具の先が滑り、水面を大きく跳ねた。


 ばしゃっ。


 海水が優斗の顔へかかる。


「しょっぱい!」


「海だからな」


「分かってます!」


 真帆が笑いを堪える。


「優斗くん、大丈夫ですか?」


「大丈夫です。心が少し塩味になっただけです」


「最近、心がよく被害を受けますね」


     *


 三人は岩場を少しずつ進んだ。


 西村は食べられるものを探しながら、同時に釣り場としての条件を確認していく。


「ここは竿を立てるには狭い」


 岩棚の一つを見て言う。


「波が後ろから回る。長時間いる場所じゃねえ」


「こちらは?」


「足場はいいが、水深が浅すぎる」


「魚は来ませんか?」


「潮が満ちれば来るかもしれねえ。だが、その時は人間の立つ場所がない」


「難しいですね」


「魚がいる場所と、人間が安全に立てる場所は別だ」


 西村は地図の余白へ、簡単な図を書き込んだ。


 危険な岩場。


 潮が入る溝。


 石段までの経路。


 竿を出せそうな場所。


 優斗も周囲を見ながら、何かを指差す。


「あの岩の上なら広いですよ」


「上がるまでに濡れた岩を二つ渡る」


「では、板をかければ」


「波で持っていかれる」


「手すりをつけるとか」


「岩へ固定する道具がいる」


『固定できても、日常的に点検が必要』


 千晴の声。


「設備が増えるたび、千晴さんの仕事も増えますね」


『だから簡単に増やさないで』


「ですが、食料も必要です」


『必要性は否定してない』


 少しの沈黙。


『安全に使えるなら、警報器と手すりは作れる』


「もう作る前提になっていますね」


『使える場所だったら』


「ありがとうございます」


『まだ作るとは言ってない』


「言いましたよ」


『条件つき』


 真帆は小さく笑い、潮だまりへ目を向けた。


「これは?」


 幅の広い褐色の海藻を指差す。


「柔らかいところだけなら使える」


「味噌汁ですか?」


「酢の物でもいい。乾かせば保存もできる」


「豪華になりますね」


「汁物に海藻を入れただけで豪華扱いされるのも、料理人としては複雑だな」


「リリカちゃんは喜びますよ」


「なら、いい」


 西村は短く答えた。


 優斗は別の潮だまりで、何かを見つけた。


「カニです!」


 手のひらほどのカニが、岩陰へ逃げ込もうとしている。


「待て!」


 優斗が両手を伸ばす。


 カニは横へ走る。


 優斗も横へ動く。


 さらにカニが方向を変える。


「逃げ足が速い!」


「横へ動く相手を、正面から追うな」


 西村が呆れる。


「出口を塞げ」


「出口って、どこですか!」


「そこの岩の隙間だ」


 真帆が反対側へ回り込んだ。


 カニは逃げ道を変えようとする。


 その先へ、優斗が網を置いた。


「入りました!」


 カニが網の中で脚を動かしている。


「捕まえましたよ!」


「小さい」


 西村が覗き込んだ。


「逃がせ」


「せっかく捕まえたのに!?」


「食うところが少ねえ」


「味噌汁の出汁くらいには」


「次に、もっと大きくなってから取ればいい」


 優斗は名残惜しそうに、カニを潮だまりへ戻した。


 カニは一瞬止まったあと、岩陰へ素早く消えていく。


「覚えてろよ……」


「大きくなったら、同じ個体か分かりませんよ」


 真帆が言う。


「気持ちの問題です」


     *


 下見を始めて、三十分ほど。


 西村の地図には、釣り場の候補が二か所書き込まれていた。


 ただし、どちらにも注意書きが多い。


 潮が満ちると退路が狭くなる。


 強風時は使用不可。


 一人で来ない。


 長時間滞在しない。


 背負った籠には、ついでに採った海藻と巻き貝が少しずつ入っていた。


「これで何食分ですか?」


 優斗が尋ねる。


「全員で食えば、一食の副菜か汁物だな」


「一時間近く歩いて、これだけですか?」


「今日は食料を取りに来たんじゃねえ」


「そうでした」


「海は食料品売り場でもねえ。来れば必ず商品が並んでるわけじゃない」


 西村は岩へ付着した貝の大きさを見比べる。


「人間がいなくなったからって、すぐ海が豊かになるわけじゃねえ。嵐もある。水温も変わる。魚を食うのは人間だけじゃない」


「もっと奥なら、魚がいそうです」


 優斗は岩場の先を見た。


 海岸線に沿って、細い岩棚が続いている。


 その先には、黒い岩壁。


 岩壁の根元に、海食洞のような暗い穴が開いていた。


「行かねえ」


 西村が即答する。


「まだ時間はありますよ」


「潮の流れが変わってる」


「どこがです?」


「さっきまで水がなかった溝に、波が入ってる」


 西村が足元を指した。


 岩場を横切る細い溝。


 そこへ、海水がゆっくりと流れ込み始めている。


「もう満ち始めてるんですか?」


「干潮を過ぎたんだろ」


 真帆は時計を見る。


 午前十一時七分。


 千晴の予測どおりなら、潮が上がり始めてもおかしくない。


「予定より、少し早いですね」


「風向きや波で変わる」


「では、戻りましょう」


 真帆が言った。


「まだ予定の十一時半までありますけど」


 優斗が未練がましく答える。


「決めた時間は、そこまでいていい時間ではありません」


 西村が地図を畳む。


「その時刻までに、岩場から出るための期限だ」


「命にも余裕があるうちに帰ります」


 真帆が言う。


「真帆さんまで、千晴さんみたいなことを言い始めましたね」


「いいから戻るぞ」


 西村が籠を背負い直す。


 その時。


 海食洞の奥から、何かが岩へぶつかる音がした。


 ごつっ。


 三人が動きを止める。


「今の音は?」


 優斗が小声で尋ねる。


「波じゃねえな」


 もう一度。


 ごつ。


 ざりっ。


 何か硬いものが、岩肌を擦っている。


 真帆は神木棍を構え、洞窟の入口を見つめた。


 暗い穴の中。


 波が入るたび、白い泡が広がる。


 そして、引いていく水の中から。


 灰色の腕が現れた。


「ゾンビです」


 真帆が低く告げた。


 海水に浸かり続けていたのか、皮膚は白く膨れ、衣服には海藻が絡みついている。


 ゾンビは片脚を不自然に引きずりながら、洞窟の奥から出てきた。


 その後ろにも、影がある。


「二体……いや、三体」


 優斗が息を呑む。


「戻るぞ」


 西村が言った。


「戦わねえ。潮が来てる」


 三人は洞窟へ背中を向けないよう、ゆっくりと後退した。


 ゾンビたちは水の抵抗を受けながらも、こちらへ向かってくる。


 足取りは遅い。


 だが、波に押されるたび、体が前へ運ばれる。


「走れますか?」


 真帆が尋ねる。


「岩場で走ったら転ぶ」


 西村が答える。


「足元を見ながら急げ」


 三人は来た道を戻り始めた。


 その途中。


 大きな波が岩場へ入り込んだ。


 ざああっ!


「うわっ!」


 優斗の足元へ、勢いよく海水が流れ込む。


 長靴が滑った。


 体が横へ傾く。


 真帆が腕を伸ばす。


「優斗くん!」


 袖を掴む。


 しかし、背負っていた網袋が岩へ引っかかり、優斗の体がさらに傾いた。


 片膝が水へつく。


「袋を外せ!」


 西村が叫ぶ。


「でも、採ったものが!」


「捨てろ!」


 優斗は肩紐を外そうとした。


 だが濡れた手袋では、留め具をうまく掴めない。


「動かないでください!」


 真帆は神木棍を岩の隙間へ差し込み、自分の体を支える。


 もう片方の手で、優斗の肩紐を外した。


 網袋が海水へ落ちる。


 中に入っていた貝が、波に流されかけた。


「俺の貝が!」


「命より大事な貝はありません!」


 真帆が強く言う。


 次の波が来る前に、優斗を引き上げる。


 西村も腕を掴み、二人で乾いた岩の上へ移動させた。


「怪我は?」


「膝を少し打ちました。でも、歩けます」


「なら行くぞ」


 西村は流されかけた網袋を、鉄棒の先で引っかけた。


「西村さん!」


「届く場所にあっただけだ」


 網袋を引き寄せる。


 中身は半分ほど残っていた。


「捨てろって言ったじゃないですか」


「無理に拾うなとは言った。安全に取れるものまで捨てる必要はねえ」


「ずるい理屈です」


「料理人だからな」


 背後から、ゾンビの呻き声が近づいてくる。


 一体が濡れた岩へ足を乗せた。


 滑る。


 体勢を崩しながらも、両腕を伸ばしている。


「急ぎます!」


 三人は再び石段へ向かった。


     *


 潮の満ち方は、想像以上に速かった。


 来る時には乾いていた岩の間へ、次々と海水が入り込んでいる。


 石段まで続く道の一部も、すでに浅い水路へ変わっていた。


「ここを渡るしかない」


 西村が言う。


 幅は三メートルほど。


 深さは、足首から膝下くらい。


 だが波が入れば、一気に水位が上がる。


「先に私が渡ります」


 真帆は神木棍で足元を探りながら、水路へ入った。


 海藻のついていない岩を選ぶ。


 一歩。


 もう一歩。


 流れは、まだ強くない。


「大丈夫です。優斗くん、来てください」


「はい」


 優斗が続く。


 膝を打った影響で、足取りが少しぎこちない。


 西村が後ろから網袋を支える。


 三人が水路の中央へ差しかかった時。


 後方から、ゾンビの声が聞こえた。


「アアアアッ!」


 最初の一体が、水路の手前まで来ている。


 腐った足で岩へ乗り。


 滑り。


 そのまま海水の中へ倒れ込んだ。


 ばしゃんっ。


 水面から両腕を突き出し、這うように進んでくる。


「早く!」


 真帆が優斗の手を掴む。


 その瞬間。


 海側から、波が押し寄せた。


「波が来る!」


 西村の声。


 水路の水位が、一気に上がる。


 優斗の膝を越えた。


 体が流されかける。


「棍を掴んでください!」


 真帆は神木棍を横へ伸ばした。


 優斗が両手で掴む。


 西村も反対側を支える。


 三人は互いに体を支えながら、波を耐えた。


 水が引く。


「今です!」


 真帆が優斗を引き寄せる。


 岩棚の向こうへ上がる。


 西村も続く。


 直後。


 後ろのゾンビが再び手を伸ばした。


 その指先が、西村の背負った籠へ引っかかる。


「西村さん!」


 籠が後ろへ引かれた。


 西村の体が、わずかに傾く。


「離せ!」


 西村は肩紐を外し、籠ごとゾンビへ渡した。


 ゾンビは籠の重みに引かれ、水路へ沈む。


 貝と海藻が、水面へ散らばった。


「獲物が!」


 優斗が叫ぶ。


「命より大事な貝はねえ!」


 西村は先ほど自分が言った言葉を、今度は迷いなく実行した。


「戻るぞ!」


 三人は石段へ駆け寄った。


 最後の乾いた岩を蹴り、階段へ上がる。


 真帆が最初に上り。


 優斗を引き上げ。


 最後に西村が手すりを掴む。


 その足元へ、ゾンビの腕が伸びた。


「触んな!」


 西村は長靴で手を踏みつける。


 指の骨が折れた。


 その隙に、さらに一段上がる。


 ゾンビは階段へ上ろうとしたが、押し寄せた波に横から打たれた。


 腐った体が水路へ流される。


 ほかの二体も、足場を失って海水へ転がった。


 潮に運ばれ、岩の間へ消えていく。


 真帆たちは階段の中ほどまで上り、ようやく足を止めた。


「全員、いますね?」


「俺はいます」


 優斗が荒い息で答える。


「俺もいる」


 西村が濡れた作業着の裾を絞る。


「籠は?」


「海だ」


「ほとんど流されましたね……」


 優斗が肩を落とす。


 真帆は自分の腰へ結びつけた、小さな網袋を確認した。


 巻き貝が数個。


 海藻が少し。


「全部ではありません」


「これで何人分ですか?」


「味噌汁の具くらいだな」


 西村が答える。


「下見のついでに命がけで取って、味噌汁の具……」


「文句があるなら食うな」


「食べます!」


 優斗は即答した。


     *


 遊歩道へ戻ると、真帆は無線機を取り出した。


「千晴さん。海岸から上がりました」


 すぐに返事がある。


『遅い』


「潮が予想より早く満ちました」


『怪我は?』


「優斗くんが膝を打ちました。歩けますが、帰ったら薫子さんに診てもらいます」


『西村は?』


「濡れただけだ」


 西村が横から答える。


『真帆は?』


「問題ありません」


『本当に?』


「はい」


『採れたものは?』


 三人は顔を見合わせた。


「少しだけです」


 真帆が答える。


『少し?』


「味噌汁の具くらいだ」


 西村が言った。


 通信の向こうが、しばらく静かになる。


『一時間歩いて?』


「今日は釣り場の下見です!」


 優斗が叫んだ。


『声が大きい。周囲を確認して』


「すみません……」


 優斗は急いで声を落とした。


『釣り場としては?』


 西村が、書き込んだ地図を見る。


「使えなくはねえ。だが、普段使いには危険が多い」


『理由は?』


「退路が一本。潮が満ちるのが速い。海食洞にゾンビも残ってた」


『候補から外す?』


「磯の採集場所としては残す。釣りは、天気と潮が安定してる時だけだな」


「一つ目の候補は、失敗ですか?」


 優斗が尋ねる。


「失敗じゃねえ」


 西村が答えた。


「危険だと分かった。取れるものも分かった。使える条件も分かった」


「それで成功なんですか?」


「何も知らずに竿を持って来るより、よほどましだ」


『西村の言うとおり』


 千晴が言う。


『次に行くなら、携帯用の潮位警報器を作る』


「作れるんですか?」


 真帆が尋ねた。


『簡単なものなら。水位が一定以上になったら鳴る』


「千晴さんも、釣り場を増やすことに賛成なんですね」


『食料の供給先が増えるのは悪くない』


「心配してくださっているんですね」


『採集係が減ると困る』


「素直ではありませんね」


『それと、波が高くなってる。すぐ戻って』


「こちらでも確認しました」


『潮見亭から見ても、白波が増えてる。風向きも変わった』


「天気が崩れますか?」


『可能性はある。午後は外へ出ない方がいい』


「分かりました」


『帰るまで三十分ごとに連絡』


「はい」


『それと、西村』


「何だ」


『濡れたまま歩かないで。着替えがあるなら替えて』


「持ってきてねえ」


『風邪を引く』


「歩いてりゃ乾く」


『その考え方で体調を崩したら、薫子に言う』


「告げ口か」


『健康管理』


 ぶつり、と通信が切れた。


「真帆さんと同じ言い方をしますね」


 優斗が言う。


「似てきたんでしょうか」


「どちらが、どちらにです?」


「そこまでは分かりません」


「とにかく帰るぞ」


 西村は濡れた作業着を気にも留めず、先に歩き始めた。


     *


 潮見亭へ戻った頃には、海から吹く風が強くなっていた。


 玄関前で待っていたリリカの浴衣の袖も、風に揺れている。


「帰ってきた」


 真帆たちの姿を見つけると、リリカは表情を明るくした。


 その隣で、ゆずも尻尾を振る。


「ただいま戻りました」


「新しい釣り場、あった?」


「一応、見つかりました」


「魚は?」


 真帆は答える前に、西村を見た。


 西村は空になった肩と、真帆の小さな網袋を見比べる。


「今日は釣ってねえ」


「食べ物は?」


「……味噌汁一杯分だ」


「一杯だけ?」


「全員、一杯ずつだ」


「豪華?」


「海の幸入りだ。豪華だ」


 リリカは納得したように頷いた。


「それなら、よかった」


「よくねえよ」


 優斗が玄関へ座り込む。


「俺たち、下見の途中で海へ流されかけたんですよ」


「流されてねえ」


 西村が訂正する。


「流されかけました!」


「だから帰ってきただろ」


「もっと褒めてください!」


「貝を半分落とした」


「西村さんも籠ごと捨てたじゃないですか!」


「あれは判断だ」


「言い方の問題ですよ!」


 薫子が玄関へ出てきた。


「優斗さん。膝を見せてください」


「もう報告が行ってる……」


「千晴さんから聞きました」


「早すぎません?」


「歩けるからといって、軽傷とは限りません。医務室へ」


「着替えてからでも?」


「先に確認します」


「はい……」


 優斗は肩を落としながら、薫子についていった。


「西村さんも着替えてください」


 真帆が言う。


「料理の前に着替える」


「今すぐです」


「風邪なんか引かん」


 その時、館内のスピーカーが鳴った。


『西村』


「何だ」


『着替えて』


「お前まで言うな」


『厨房で倒れたら困る』


「心配してんのか?」


『料理が止まる』


「素直じゃねえな」


『それと、濡れた服を機関室の配管に干さないで』


「誰が干すか!」


 西村は文句を言いながらも、従業員用の浴室へ向かった。


「千晴は、優しい?」


 リリカが尋ねる。


「とても分かりにくいですけどね」


 真帆は答えた。


     *


 その日の夕食。


 食卓の中央には、大きな鍋が置かれていた。


 味噌汁の中には、磯で採った海藻と巻き貝。


 さらに西村が保存していた乾燥野菜と、裏庭で採れた葱も加えられている。


 海の香りが、湯気とともに食事処へ広がっていた。


 茶碗には、火村が倉庫へ積んでくれた米。


 味噌汁には、自分たちで育てた葱。


 そして、新しく調べた磯から持ち帰った海藻と貝。


 備蓄と自給と採集。


 三つを合わせた、今の潮見亭らしい食卓だった。


「これが、今日の収穫ですか?」


 薫子が鍋を覗き込む。


「少なく見えるな」


 西村が不満そうに言う。


「鍋へ入れりゃ、それなりだ」


「貝は?」


 リリカが尋ねる。


「殻を外して、身を刻んである」


「見えない」


「見えないところで働いてる」


「千晴と同じ?」


「一緒にするな」


『聞こえてる』


 厨房のスピーカーから、千晴の声がした。


「食事中くらい、出てきたらどうですか?」


 真帆が尋ねる。


『源泉計を見てる』


「優斗くんと交代する時間では?」


 食卓に座っていた優斗が顔を上げる。


 膝には、薫子が巻いた薄い包帯がある。


「俺、食べ始めたばかりですよ」


『食べ終わったら交代』


「千晴さんも食べていませんよね?」


『あとで』


 西村が、味噌汁をよそった椀を一つ盆へ載せる。


「優斗。持っていけ」


「俺がですか?」


「設備係見習いだろ」


「最近、その言葉で何でも押しつけられてません?」


「温かいうちに持っていけ」


「はい……」


 優斗は自分の椀を名残惜しそうに見ながら、千晴の分を運んでいった。


 リリカは自分の味噌汁を覗き込む。


 海藻を箸で持ち上げる。


 柔らかく煮えた褐色の葉が、湯気の中で揺れた。


「海の匂いがする」


「嫌ですか?」


 真帆が尋ねる。


「ううん」


 リリカは一口食べた。


 ゆっくり噛む。


 次に、細かく刻まれた貝の身を口へ運ぶ。


「少し硬い」


「よく噛め」


 西村が言う。


「味は?」


 リリカは考える。


「しょっぱい」


「味噌汁だからな」


「おいしい」


「そうか」


 西村は満足そうに椀へ口をつけた。


「豪華か?」


「海に流されそうになった味」


 食事処が静かになる。


「誰が教えたんですか、その言い方」


 真帆が優斗の空席を見る。


「優斗だな」


 西村が断定する。


「でも、豪華」


 リリカが続けた。


「みんなが帰ってきたから」


 真帆は、手にしていた箸を止めた。


 西村も一瞬黙る。


「……そうかよ」


 ぶっきらぼうに答え、味噌汁を啜った。


     *


 食事を終えたあと。


 真帆はリリカと一緒に、客室『潮騒』の窓から海を眺めていた。


 昼よりも風が強い。


 沖には、白い波がいくつも立っている。


「朝の海と違う」


 リリカが言った。


「海は、時間や天気によって表情が変わります」


「あんなに水が増えると思わなかった」


「私たちも、少し驚きました」


「怖かった?」


 真帆は少し考えた。


「はい。怖かったです」


「真帆も怖い?」


「もちろんです」


「でも、行った」


「今日は、今後も食べ物を得られる場所を探すためでしたから」


「お米はある」


「はい。火村さんが、たくさん集めてくれました」


「野菜もある」


「少しだけです」


「卵も」


「毎日、全員分はありません」


 真帆は海を見ながら答えた。


「今あるものがなくなってから、新しいものを探し始めるのでは遅いんです」


「だから、先に探す?」


「はい」


「怖くても?」


「怖いからこそ、準備して探します」


 リリカは窓の外を見つめた。


「真帆は、怖くないふりをする?」


「それもあります」


 真帆は、昼間に西村が言った言葉を思い出した。


「ですが、本当に危ない時は、持っているものを捨てて逃げます」


「せっかく取ったものでも?」


「命より大切なものではありませんから」


「潮見亭は?」


 リリカが尋ねた。


「潮見亭も、捨てる?」


 真帆は答えに詰まった。


 源泉が止まった夜。


 撤退の準備をした。


 全員で宿を離れる覚悟もした。


 それでも、実際にその時が来たら。


 自分は迷わず離れられるのだろうか。


「本当に、皆さんの命が危ないなら」


 真帆は静かに答えた。


「潮見亭を離れます」


「寂しい?」


「とても」


「戻れなくても?」


「それでもです」


 リリカは窓の外を見つめた。


「わたしも?」


「何がですか?」


「危なかったら、置いていかない?」


 真帆はすぐにリリカへ向き直った。


「置いていきません」


「何も持てなくても?」


「はい」


「役に立たなくても?」


「関係ありません」


 真帆は、はっきりと答えた。


「リリカちゃんも、ゆずも、潮見亭のみんなも。一緒に逃げます」


 リリカはしばらく黙っていた。


 やがて、窓辺に置かれていた青い洗濯ばさみを手に取る。


「これは?」


「それは、持っていかなくても大丈夫です」


「大切」


「では、ポケットに一つだけ」


「分かりました」


 真帆は苦笑した。


 窓の外では、満ちた潮が岩場を覆っている。


 朝に歩いた場所も。


 貝を採った潮だまりも。


 ゾンビから逃げた水路も。


 すべて海の下へ沈んでいた。


 海は食料を与えてくれる。


 同時に、簡単に命を奪う。


 自然は、ゾンビのようにこちらを襲う意思など持たない。


 だからこそ、話し合うことも、脅すことも、倒すこともできなかった。


「新しい釣り場は、使える?」


 リリカが尋ねた。


「条件がよければ、使えるそうです」


「次も海へ行く?」


「次は、もう少し安全な場所も探します」


「魚を釣る?」


「西村さんは、そのつもりでしょうね」


「釣れる?」


「たぶんです」


 その時。


 館内スピーカーから、千晴の声が響いた。


『たぶんで海へ行かないで』


「聞こえていたんですか?」


『客室の窓が開いてるから、廊下のマイクが拾った』


「盗み聞きですよ」


『設備監視』


「便利な言葉ですね」


『次は古い防波堤を確認する』


「千晴さんが決めたんですか?」


『火村の調達記録に、足場が比較的安定してるって書いてある』


「火村さんが?」


『ただし、港の建物と船内は未確認。行くなら先に監視方法を考える』


「千晴さんも、釣り場を増やす気になっていますね」


『備蓄の米は増えない。卵も野菜も足りない。魚が取れる場所は必要』


 珍しく、千晴が長く答えた。


『今ある食料が残ってるうちに、次を探すべき』


「西村さんと同じですね」


『同じではない』


「どこが違うんですか?」


『私は海に入らない』


「そこですか?」


『それと、西村から味噌汁を受け取った』


「お味は?」


 少しの沈黙。


『……悪くない』


「おいしいという意味です」


 リリカが小声で教える。


『聞こえてる』


「難しい人」


『それも聞こえてる』


 リリカは、ほんの少し笑った。


 潮見亭の外では、風が窓を揺らしている。


 火村が積み上げた米袋は、まだ食料庫に並んでいる。


 鶏は明日も、卵を産むかもしれない。


 菜園では、小さな野菜が少しずつ育っている。


 だが、それだけを頼りに、いつまでも生きてはいけない。


 今日見つけた磯。


 次に調べる防波堤。


 いつか手に入れるかもしれない船。


 一つずつ、食料を得る場所を増やしていかなければならない。


 今日の食卓に並んだのは、ほんのわずかな貝と海藻だけだった。


 それでも。


 誰一人欠けず。


 自分たちで得たものを全員で分けて食べた。


 リリカの言うとおり。


 それは今の潮見亭にとって、何よりも豪華な食事だった。


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