第十七話 釣れない若女将と、海から上がった拾い物
海から吹く風には、夏の気配が混じり始めていた。
朝の相模湾は薄い青色に霞み、沖を飛ぶ海鳥の鳴き声が、潮見亭の中庭まで届いている。
その穏やかな景色とは対照的に、玄関前では出発準備を巡る小さな騒動が起きていた。
「千晴さん。これは釣り道具ですか?」
優斗が、地面に置かれた細長い棒を持ち上げた。
先端には平たい輪。
そこから伸びる防水ケーブルが、小さな箱につながっている。
「違う」
千晴は機関室から出てきていた。
透明な保護ゴーグルを額に上げ、紺色の作業着の腰へ工具袋を下げている。
「海中探知器」
「探知器?」
「水の中に沈んでいる金属を探す」
「魚も分かりますか?」
「魚が金属なら」
「分からないんですね」
「最初から金属を探すと言った」
優斗は、平たい輪を不思議そうに覗き込んだ。
「どうして釣りへ行くのに、金属を探すんです?」
「旧漁港は、岸壁の一部が崩れてる。水中に柵、針金、車両部品が沈んでいたら、釣り糸が引っかかる」
「なるほど」
「歩けそうな浅瀬があっても、足を入れないで。見えない金属片があるかもしれない」
「なるほど……」
「それと、防水は完全じゃない」
「なるほど?」
「箱を海へ落としたら壊れる」
「急に信用できなくなりました!」
「簡易型だから」
千晴は優斗から探知器を取り上げ、スイッチを入れた。
箱の中で、短い電子音が鳴る。
ぴっ。
先端の輪を、優斗の足元へ近づける。
ぴぴぴぴぴっ!
「うわっ!」
優斗が飛び退いた。
「どうして俺に反応するんですか!?」
「靴の金具」
「びっくりさせないでください!」
「正常に動くことを確認した」
「俺で確認しないでください!」
千晴は無表情のまま、探知器を優斗へ返した。
「水面ぎりぎりを、ゆっくり動かして。強く反応した場所は西村に伝える」
「千晴さんも来ればいいのでは?」
「行かない」
「即答ですね」
「源泉設備の監視がある。それに海は専門外」
「昨日は釣り場を増やす必要があると言っていたでしょう」
「必要性と、私が行くことは別」
「合理的ですけど、少しずるいです」
「帰ってきたら記録を見せて」
「見せますけど……」
優斗は探知器を肩へ掛けた。
その隣では、西村が三本の釣り竿を確認している。
どれも新品ではない。
かつて潮見亭の貸し出し用として使われていたものや、火村が漁具店から回収したものを修理した竿だった。
釣り糸も、古いものをそのまま使っているわけではない。
劣化した部分を避け、使える箇所だけを巻き直している。
「針は?」
西村が尋ねた。
「小さいもの、中くらい、大きいもの」
優斗が腰の道具入れを叩く。
「数は?」
「小さいものが十二。中が八。大きいものが四です」
「錘は?」
「十個」
「浮きは?」
「七個」
「餌は?」
「西村さんが持っています」
「逃げ道は?」
「旧漁港の北側階段と、バス停側の道路」
「ゾンビが道路を塞いでたら?」
「港の倉庫裏を通って、山側の細道へ抜けます」
「無線が切れたら?」
「十五分待って、回復しなければ帰還します」
西村が頷いた。
「火村に教わったことは、少しは残ってるみてえだな」
「少しじゃありませんよ」
優斗は胸を張った。
「外へ出る時の確認は、何度も叩き込まれましたから」
「なら、探知器を海へ落とすな」
「それは千晴さんの注意です!」
「注意は誰から聞いても同じだ」
真帆は二人のやり取りを聞きながら、神木棍の紐を締め直した。
今日の目的地は、温泉街から少し離れた旧漁港。
かつては小型漁船や観光船が出入りしていたが、今では防波堤も建物も放置されている。
火村の調達記録には、
――足場は比較的安定。
――港内の建物と船内は未確認。
――魚影あり。
と残されていた。
ただし、その記録が書かれたのは一年近く前だ。
今も同じ状態とは限らない。
「真帆」
玄関脇から、リリカが呼びかけた。
淡い水色の浴衣姿。
片手には青い洗濯ばさみを持っている。
その足元には、ゆずが座っていた。
後ろ脚の包帯は外れている。
だが、走らせるにはまだ早いと薫子から言われていた。
「今日は魚を釣る?」
「その予定です」
「昨日は釣らなかった」
「昨日は場所を調べる日でしたから」
「今日は本当に釣る?」
「本当に釣ります」
「たぶん?」
「……釣れるかどうかは、魚次第ですね」
「たぶん」
「はい。たぶんです」
リリカは少しだけ不満そうに、真帆を見上げた。
「いっぱい釣れたら、何になる?」
「西村さん」
真帆が尋ねる。
「魚による」
西村は餌の入った容器を確認しながら答えた。
「小魚なら唐揚げ。少し大きければ塩焼き。数が多けりゃ干物にもできる」
「干物?」
「塩をして、風に当てて乾かす」
「魚が、薄くなる?」
「魚の形は変わらねえ」
「小さくなる?」
「少しはな」
「では、小さい魚を干したら、もっと小さくなる?」
「食えるところがなくなるほど小さい魚は逃がす」
「昨日のカニと同じ」
「そうだ」
リリカは真剣に頷いた。
「大きくしてから食べる」
「言い方が怖いですね」
優斗が呟いた。
「自然の決まりだ」
西村は気にした様子もない。
「何でも取ればいいってもんじゃねえ」
「西村さん」
薫子が玄関へ出てきた。
「昨日、濡れたまま帰ってきた人の言葉としては、説得力が足りません」
「着替えただろ」
「帰ってからです」
「帰る前に着替えはできん」
「最初から予備を持っていけばよかったでしょう」
「今日は持った」
西村が背中の荷物を軽く叩く。
「昨日より進歩していますね」
「子ども扱いするな」
「では、体調を崩さず帰ってきてください」
「分かってる」
薫子は次に優斗を見る。
「膝は?」
「大丈夫です」
「痛みはありませんか?」
「少しだけです」
「少しでも痛むなら、走らないでください」
「ゾンビが来ても?」
「転んだら、もっと危険です」
「真帆さんが何とかしてくれる前提ですね」
「無理な数なら、戦わず退避してください」
「はい」
真帆は玄関の外へ出た。
潮と硫黄の匂いを含んだ朝の風が、頬を撫でる。
「では、行ってまいります」
「魚」
リリカが言った。
「はい?」
「大きいのをお願いします」
「努力します」
「魚へ言って」
「魚へですか?」
「大きくなって、釣られてくださいって」
「それは難しいお願いですね」
「女将ならできる」
「女将の仕事には含まれていませんよ」
『早く出発して』
玄関脇のスピーカーから、千晴の声が飛んだ。
『潮が変わる』
「今、行きます」
真帆たちはリリカとゆずに見送られ、旧漁港へ向かった。
*
旧漁港までの道は、海沿いの県道を北へ進む。
道路の片側には山肌。
もう片側には、青い海が広がっている。
昨夜の風で落ちた枝が、ところどころ路上へ転がっていた。
真帆が先頭。
少し後ろを西村。
最後尾を優斗が歩く。
探知器の棒が長いため、優斗は何度も木の枝へ引っかけていた。
「扱いづらいです」
「海へ着く前に壊すなよ」
西村が言う。
「壊してません」
「さっきから、三回ぶつけてる」
「枝の方から来たんです」
「木は動かん」
「風で動きました」
「言い訳だけはよく動くな」
真帆が周囲を確認しながら、苦笑した。
「それほど長くはありません。縦に持てば歩きやすいですよ」
「真帆さんが持ってください」
「私は神木棍があります」
「交換しませんか?」
「ゾンビが出た時、探知器で戦うつもりですか?」
「やめておきます」
「それがいい」
道の途中に、古い海産物店があった。
窓ガラスは割れ、店先には発泡スチロールの箱が散乱している。
看板に描かれた伊勢海老の絵だけが、妙に鮮やかに残っていた。
「中に何かありますかね」
優斗が店内を覗こうとする。
「寄らねえぞ」
西村が言った。
「海産物店ですよ?」
「三年放置された魚が欲しいなら、一人で行け」
「いりません」
「今日の目的を増やすな」
火村がいなくなってから。
真帆たちは、外出のたびに目的を一つへ絞るようになった。
途中で魅力的な物資を見つけても、予定外の建物へ無理に入らない。
火村ほど周囲を読む力も、戦闘能力もない。
だからこそ、できないことを認める必要があった。
「火村さんなら、帰りに確認していたでしょうか」
優斗が尋ねた。
「余裕があればな」
西村が答える。
「だが、危険だと思えば見向きもしねえ」
「火村さんって、何でも持ち帰ってくる人だと思っていました」
「持ち帰れるものだけを選ぶのがうまかったんだ」
「そうだったんですね」
「全部拾おうとする真帆ちゃんとは違う」
「私ですか?」
「昨日、歯ブラシを三箱持ち帰ろうとしただろ」
「必要な物資でした」
「洗剤を取りに行った日だ」
「歯ブラシも必要です」
「だから、一箱に減らした」
「二箱です」
「一箱にしろと言った」
「優斗くんが一箱持てると言ったので」
「俺のせいになってます!?」
三人の声が海沿いの道へ響く。
その直後。
真帆が右手を上げた。
二人が黙る。
道路の先。
ガードレールへ寄りかかるように、一体のゾンビが立っていた。
元は男性。
色褪せた作業服。
片腕はなく、頭を垂れている。
風に揺れているだけにも見える。
だが、真帆たちの声を聞いたのか、ゆっくり顔を上げた。
「一体です」
真帆は神木棍を両手で構えた。
「道幅は十分あります。私が対処します」
「手伝いますか?」
優斗がバールを抜く。
「周囲を見ていてください」
「分かりました」
ゾンビが歩き始めた。
足取りは遅い。
真帆は正面から近づかず、山側へ少し位置をずらす。
ゾンビが両腕を伸ばした瞬間。
神木棍の先で肩を押し、体勢を崩す。
続けて、脚を払う。
ゾンビが道路へ倒れた。
真帆は距離を保ったまま、起き上がる前に頭部へ棍を振り下ろした。
一度。
動きが止まらない。
もう一度。
今度こそ、ゾンビは動かなくなった。
「ほかには?」
真帆が尋ねる。
「見えません」
優斗が周囲を見回す。
「店の中も動きなし」
「長居はしねえぞ」
西村が先を促す。
真帆はゾンビの作業服に付いた名札へ目を向けた。
文字は汚れで読めなかった。
港で働いていた人だったのかもしれない。
あるいは、逃げる途中でここへ来ただけなのかもしれない。
確かめる方法はない。
「行きましょう」
真帆は静かに言った。
*
旧漁港の入口には、錆びた鎖が垂れ下がっていた。
立入禁止の看板は半分に折れ、地面へ倒れている。
港内には三棟の倉庫。
小さな管理事務所。
壊れた製氷設備。
岸壁には、数隻の漁船が係留されたまま残されていた。
一隻は大きく傾いている。
別の船は、船尾の一部が沈んでいた。
海面には、縄や木片、発泡スチロールが漂っている。
「思ったより船が残っていますね」
真帆が言った。
「動くかどうかは別だ」
西村は港全体を見回した。
「中にゾンビがいる可能性もある」
「船の中にも?」
「船員が逃げ遅れてりゃな」
優斗が、船の窓を見つめる。
「急に怖くなってきました」
「最初から怖がってろ」
「最初は魚のことを考えていたので」
『到着した?』
無線から千晴の声がした。
「はい。午前九時四十八分。旧漁港の入口です」
優斗が答える。
『周辺は?』
「道路上に一体。真帆さんが処理しました。港内に動いているものは見えません」
『船には近づきすぎないで』
「どうしてです?」
『係留索が切れかけてる船があるかもしれない。潮や風で急に動く』
「分かりました」
『岸壁の縁も確認して。崩れてる場所がある』
真帆たちは、港へ入ってすぐ釣りを始めなかった。
まず、岸壁に沿ってゆっくり歩く。
ひび割れ。
崩落。
錆びた柵。
避難経路。
倉庫の位置。
ゾンビが隠れられそうな物陰。
安全そうに見える場所ほど、念入りに確認した。
「ここは駄目だ」
西村が、岸壁の一角を指す。
コンクリートの下が崩れ、空洞になっている。
「上からじゃ分かりにくいですね」
「人間二、三人が乗ったら、まとめて落ちるかもしれねえ」
優斗が黄色いチョークで、大きく印をつけた。
「危険、と」
『位置も地図に記録して』
「はい」
千晴の指示どおり、簡単な港の見取り図を作る。
北側の岸壁は比較的無事。
西側は崩落あり。
管理事務所の扉は閉鎖。
倉庫は未確認。
船には接近しない。
入口から北側岸壁までの経路は、障害物が少ない。
「釣りをするなら、あそこだな」
西村が指したのは、港の外側へ伸びる古い防波堤だった。
幅は三メートルほど。
表面には細かなひびがあるが、大きく崩れてはいない。
先端には小さな灯台が立っている。
「先まで行きますか?」
優斗が尋ねる。
「途中までだ」
「先端の方が釣れそうですけど」
「逃げる距離が長くなる」
西村は防波堤の中ほどを選んだ。
港側と外海側の両方を見渡せる場所。
入口までも、それほど遠くない。
「ここなら、後ろから来ても気づける」
「魚もいますか?」
「それを、これから確かめる」
*
三人は、ようやく釣り竿を取り出した。
西村が糸と針を確認し、餌をつける。
「今日の餌は何です?」
優斗が容器を覗き込んだ。
「塩漬けにしてた小魚の切れ端。それと、畑で掘った虫」
「虫……」
「嫌なら小魚を使え」
「魚で魚を釣るんですか?」
「そういうもんだ」
「少し怖い世界ですね」
「ゾンビのいる世界で今さら何を言ってる」
真帆も、西村に教わりながら針へ餌をつける。
「これくらいですか?」
「大きい。半分にしろ」
「魚には、大きい方が喜ばれませんか?」
「餌だけ取られる」
「おもてなししすぎても駄目なんですね」
「魚は客じゃねえ」
「釣り場へ来ていただくのですから」
「招待して、食うのか?」
「そう言われると、少し申し訳ないですね」
「釣る前から情を移すな」
優斗が竿を持ち、防波堤の端へ立つ。
「どうやって投げるんです?」
「後ろを確認しろ」
「はい」
「竿を振りかぶりすぎるな」
「はい」
「隣の人間を釣るな」
「それは大丈夫です」
「お前の場合、一番信用できん」
「そこまで不器用ではありません!」
優斗は慎重に竿を振った。
錘と針が、前ではなく斜め右へ飛ぶ。
ぽちゃん。
真帆の仕掛けのすぐ近くへ落ちた。
「優斗くん」
「すみません」
「絡ませるなよ」
西村が言った。
「まだ絡んでません」
直後。
二本の浮きが近づき。
糸が交差し。
絡んだ。
「絡みました」
「早えよ!」
二人の仕掛けを回収し、西村が糸をほどく。
「釣りを始める前から、俺の仕事を増やすな」
「真帆さんの浮きが近づいてきたんです」
「潮に言ってください」
「潮と話せるなら、魚も呼んでくださいよ」
「女将の仕事には含まれません」
「昨日、同じことを言ってましたね」
仕掛けを直し、今度は十分に距離を取って投げる。
三つの浮きが、海面へ並んだ。
波に合わせて、ゆっくり上下する。
風。
海鳥。
遠くで砕ける波の音。
しばらくは、何も起こらなかった。
「釣りって、もっと忙しいものだと思っていました」
優斗が言った。
「何をするんです?」
「待つ」
西村が答える。
「ほかには?」
「浮きを見る」
「ずっと?」
「釣れるまで」
「眠くなりそうです」
「寝たら海へ落ちるぞ」
「起きています」
五分。
十分。
浮きは揺れるだけ。
真帆は水平線を眺めた。
「海がきれいですね」
「そうですね」
優斗も答える。
「ゾンビがいなければ、旅行に来たみたいです」
「昔は、こうしてお客様と釣りへ来ることもありました」
「真帆さんが案内していたんですか?」
「子どもの頃は、祖父についてきただけです」
「釣れました?」
「私は一度も」
「不安になってきました」
「今日は釣れます」
「根拠は?」
「女将の勘です」
「魚には通じないと言ってませんでした?」
その時。
真帆の浮きが、小さく沈んだ。
「あっ」
「引け!」
西村が言う。
真帆は慌てて竿を上げた。
糸の先で、銀色の小さなものが跳ねる。
「釣れました!」
防波堤の上へ上がってきたのは、真帆の人差し指ほどの小さな魚だった。
ぴちぴちと跳ねている。
三人は、しばらく魚を見つめた。
「……小さいですね」
真帆が言った。
「小せえな」
西村も言った。
「でも、魚です」
「魚ではある」
「食べられますか?」
「食うところがねえ」
「では、リリカちゃんに見せてから――」
「生きたまま一時間運ぶ気か?」
「難しいですね」
「逃がせ」
真帆は針を外し、魚を両手でそっと海へ戻した。
小魚は水面で一瞬止まり、すぐに深い方へ泳いでいく。
「せっかくの最初の一匹が」
優斗が残念そうに言う。
「もっと大きくなってから来てもらいます」
「魚に逃げられた人の言葉に聞こえます」
「逃がしたんです」
「記録上は一匹ですね」
『持ち帰りはゼロ』
無線から千晴の声がした。
「聞いていたんですか?」
『通信がつながったまま』
「千晴さん。最初の一匹ですよ」
『小さすぎて逃がした』
「簡潔にまとめないでください」
『記録は簡潔な方がいい』
真帆は少し肩を落としながら、再び餌をつけた。
*
さらに十分ほど経った。
今度は、西村の浮きが一気に沈んだ。
「来た」
西村は短く言い、竿を引いた。
糸が張る。
竿先が大きく曲がった。
「大きいですか?」
優斗が身を乗り出す。
「近づくな。糸が絡む」
西村は魚の動きに合わせ、無理に引き上げない。
少しずつ。
確実に。
海面近くへ寄せる。
銀色の魚体が見えた。
「網!」
「はい!」
優斗が小型のたも網を持つ。
「前へ出すぎるな」
「分かってます」
「魚の頭から入れろ」
「頭はどちらです?」
「見りゃ分かるだろ!」
「動いてるんです!」
優斗が網を差し出す。
一度目は外れた。
魚が跳ね、水しぶきが上がる。
「逃げます!」
「慌てるな!」
二度目。
網の中へ魚が入った。
「入りました!」
優斗が引き上げる。
防波堤の上へ上がってきたのは、三十センチ近い銀色の魚だった。
「大きい!」
真帆が目を輝かせる。
「これなら塩焼きにできますか?」
「一匹だけなら、全員分には足りねえ」
「細かく分ければ」
「焼いてから考える」
西村は魚の状態を確認した。
「悪くねえ。身もありそうだ」
「何という魚ですか?」
「アジの仲間だな。詳しくは持ち帰ってから見る」
「西村さんでも、その場で分からないことがあるんですね」
「魚屋じゃねえ」
「さっきは食材を知らずに包丁は握れないと」
「全部知ってるとは言ってねえ」
西村は素早く処理し、魚を保冷袋へ入れた。
「一匹目」
「この場所、使えそうですか?」
真帆が尋ねる。
「まだ分からん。たまたま一匹来ただけかもしれねえ」
「でも、昨日より豪華です」
「昨日は貝と海藻だけだったからな」
その後、西村は小ぶりな魚を二匹追加した。
真帆は、また小魚を一匹。
今度は先ほどより少し大きかったが、それでも西村から逃がすよう言われた。
優斗の浮きだけは、ほとんど動かなかった。
「俺だけ何も釣れてません」
「釣りは運もある」
真帆が慰める。
「真帆さんも持ち帰りゼロですよね」
「二匹釣りました」
「逃がした二匹です」
「釣ったことには変わりません」
「夕食にはなりません」
「記録には残ります」
『持ち帰りゼロ』
「千晴さんまで!」
優斗は不満そうに竿を握り直した。
「今度こそ釣ります」
浮きが、わずかに沈んだ。
「来た!」
優斗は勢いよく竿を上げた。
糸の先から、長い緑色の海藻が飛んでくる。
べちゃっ。
海藻が優斗の顔へ張りついた。
「……」
真帆が口元を押さえる。
西村は海へ顔を背けた。
「笑ってくださいよ」
優斗が海藻を剥がす。
「我慢される方がつらいです」
「すみません」
真帆は小さく笑った。
「似合っていますよ」
「褒めてませんよね?」
「海の男らしくなりました」
「顔へ海藻を貼った海の男はいません!」
西村が海藻を受け取って確認する。
「これは使える」
「食べられるんですか?」
「ああ」
「俺も一応、食料を釣りましたね」
「魚じゃねえけどな」
「食べ物なら同じです!」
再び仕掛けを投げる。
今度こそ。
優斗は浮きを凝視した。
数分後。
また沈む。
慎重に引く。
少し重い。
「何か来ています!」
「魚の引きじゃねえな」
西村が言った。
「でも重いです」
「ゆっくり上げろ」
海面から現れたのは、錆びた空き缶だった。
針が、缶の開口部へ引っかかっている。
「缶……」
「二匹目だな」
西村が言った。
「魚として数えないでください!」
「海藻と缶。優斗らしい釣果ですね」
真帆が言う。
「どこが俺らしいんですか?」
『廃棄物回収係』
「千晴さん!」
優斗は空き缶を針から外した。
「海へ戻しちゃ駄目ですよね」
「持ち帰れ」
西村が答える。
「金属なら使い道があるかもしれねえ」
『錆び具合を確認したい』
「千晴さんが喜ぶなら、釣った意味はありますね」
『喜んでない』
「少しくらい喜んでください」
『記録対象』
「それは千晴さんなりの喜びです」
真帆が言った。
『違う』
通信の向こうで、千晴が小さく息を吐いた。
*
釣りを始めてから一時間。
保冷袋には、西村が釣った魚が三匹。
真帆の持ち帰りはゼロ。
優斗は海藻と空き缶。
ただし、旧漁港が新しい釣り場として使える可能性は高かった。
「そろそろ終わるぞ」
西村が言った。
「まだ俺は魚を釣ってません」
「海藻を釣った」
「魚です!」
「次にしろ」
「次まで待ったら、俺の初釣果が缶になります!」
「もうなってる」
「嫌です!」
優斗は未練がましく海面を見た。
その時。
腰へ下げていた探知器が、小さな音を鳴らした。
ぴっ。
「何です?」
優斗が振り返る。
「動かしたか?」
西村が尋ねる。
「いいえ」
「波で先端が岸壁へ近づいたんじゃねえか」
優斗は探知器の棒を手に取り、先端の輪を水面へ近づけた。
ゆっくり左右へ動かす。
ぴっ。
ぴぴっ。
ある場所へ近づけると、電子音が強くなる。
「何かあります」
「金属だろ」
西村が岸壁の下を覗く。
水は深く、海面の反射で底までは見えない。
「落ちた柵か、針金かもしれねえ。足場には使わない方がいいな」
「記録しておきます」
優斗が場所を地図へ書き込もうとした。
しかし、海面近くに黒い影が揺れていることに気づく。
「待ってください」
「どうした?」
「あそこに、何か引っかかっています」
防波堤の壁。
水面から一メートルほど下。
古い梯子の一部に、黒い布のようなものが絡みついている。
波が動くたび、ゆらゆらと揺れていた。
「海藻じゃないですね」
真帆が言った。
「鞄か?」
西村が目を細める。
「リュックに見えます」
優斗が身を乗り出した。
「近づきすぎるな」
西村が肩を掴んで引き戻す。
「取れますか?」
「無理に取る必要はねえ」
「でも、荷物が入っているかもしれません」
「中身が何かも分からん」
「食料かもしれません」
「石かもしれねえ」
「火村さんの物資かもしれません」
その言葉に、三人が少し黙った。
火村がこの港を調べたことは、記録から分かっている。
ただし、一年前の話だ。
半年前に東京へ向かった際、この場所を通ったかどうかは分からない。
「色は?」
真帆が尋ねた。
「黒か紺です」
優斗が答える。
「火村さんのリュックは?」
「もっと大きかった」
西村が言う。
「形も違う」
「では、別の人のものですね」
「たぶんな」
それでも、放置するには気になった。
防水のリュックなら、内部に使える物資が残っている可能性がある。
逆に、遺体の一部や危険なものが入っている可能性もある。
「千晴さん」
真帆が無線で呼びかける。
『聞いてる』
「水中にリュックらしきものがあります。古い梯子へ絡まっています」
『触る前に周囲を確認して』
「動くものはありません」
『岸壁から身を乗り出さないで。回収用の鉤は?』
西村が長い竿の先へ、釣り針より大きな鉤を取りつけた。
「ある」
『引っかかってる場所は深い?』
「水面から一メートルくらい下だ」
『引き上げられそうなら、一人でやらないで』
「分かってる」
三人は釣り道具を片づけ、回収の準備をした。
西村が鉤を操る。
真帆が腰を支える。
優斗は少し離れ、周囲と海面を監視する。
「右です」
優斗が言った。
「もう少し右」
「見えてる」
「下です」
「分かってる」
「もう少し――」
「お前は黙って見張れ」
「はい」
鉤が水面へ沈む。
何度か外れる。
三度目。
手応えがあった。
「引っかかった」
西村がゆっくり引く。
リュックは梯子へ強く絡んでいる。
濡れた布が引っ張られ、海中で形を変えた。
「動きません」
「肩紐が梯子に巻きついてる」
無理に引けば、紐が切れて沈むかもしれない。
「別の角度から引けますか?」
真帆が尋ねた。
「やってみる」
西村は鉤を掛け直す。
今度は、紐そのものを持ち上げるように引いた。
ゆっくり。
ゆっくり。
絡んでいた輪が、梯子から外れる。
「外れました!」
優斗が言った。
「慌てるな」
リュックが水面へ浮かんだ。
真帆がたも網を差し出し、下から支える。
三人で引き上げる。
どさり。
濡れたリュックが、防波堤の上へ落ちた。
想像以上に重い。
外側には海藻が張りつき、金属の留め具が赤く錆びている。
「開けますか?」
優斗が尋ねた。
「ここでは開けねえ」
西村が答えた。
「どうしてです?」
「中に何があるか分からん。虫や腐ったものが入ってるかもしれねえ」
「ゾンビは入っていないでしょう」
「小さいゾンビなら」
「やめてください!」
「冗談だ」
「西村さんが冗談を言うと分かりにくいです!」
『外側を袋に入れて』
千晴が指示する。
『潮見亭へ戻ってから、屋外で確認する』
「分かりました」
真帆たちはリュックを厚手の回収袋へ入れた。
持ち上げると、中で硬いものがぶつかる音がする。
からん。
「缶詰でしょうか」
優斗が目を輝かせる。
「石かもしれねえ」
「西村さん、さっきから石を入れたがりますね」
「期待しすぎるなと言ってる」
「無線機かもしれません」
真帆が言った。
「どうしてです?」
「金属探知器が強く反応しましたから」
「缶詰でも反応します」
『中身は帰ってから』
千晴が言う。
『そこで開けて、時間を使わないで』
西村が空を見上げた。
海鳥の群れが、沖の方へ飛んでいる。
風も、朝よりわずかに強くなっていた。
「千晴の言うとおりだ。今日は終わり」
「俺の釣果が缶のままです」
「リュックも釣っただろ」
「探知器で見つけただけです」
「回収したのは三人だ」
「では、共同釣果ですか?」
「魚じゃねえ」
「何か食べ物が入っていれば、俺の釣果にしてください」
「中身を見てからだ」
三人は魚とリュックを背負い、旧漁港を後にした。
*
潮見亭へ戻ると、中庭にビニールシートが敷かれていた。
千晴。
薫子。
中山。
西村。
真帆。
優斗。
少し離れた縁側には、リリカとゆず。
全員が、回収袋へ入れられた濡れたリュックを見つめている。
「魚は?」
リリカが尋ねた。
「ありますよ」
真帆が保冷袋を見せる。
「大きい?」
「昨日よりは大きいです」
「真帆が釣った?」
「私は小さい魚を二匹釣りました」
「二匹」
「逃がしました」
「ゼロ?」
「……持ち帰りはゼロです」
「優斗は?」
優斗は胸を張った。
「海藻と缶とリュックです」
「魚は?」
「ありません」
「ゼロ」
「はっきり言わないでください!」
「魚を釣ったのは、俺だけだ」
西村が魚を入れた袋を掲げる。
「三匹」
「西村、すごい」
「そうだろ」
「真帆と優斗は、下手?」
「次は釣ります!」
優斗が即答する。
「私もです」
真帆も続けた。
「次回に期待してください」
「では、今日はリュックを見ます」
リリカはすでに興味を失ったように、濡れた荷物へ視線を移した。
「切り替えが早いですね」
真帆が苦笑する。
「開ける」
千晴が、厚手の手袋をはめた。
ゴーグルを目元へ下ろす。
「中山、記録」
「分かりました」
「薫子は、臭いや液漏れがあれば止めて」
「はい」
「真帆と優斗は近づかないで」
「どうして私たちだけ?」
「拾ってきた人間は、すぐ手を出すから」
「信用がありませんね」
「昨日、歯ブラシを三箱持ち帰ろうとした」
「まだ言いますか?」
千晴は回収袋を開け、リュックを取り出した。
外側へ水をかけ、表面の泥や海藻を落とす。
材質は厚い防水布。
縫い目にも加工がある。
「普通のリュックではありませんね」
中山が言った。
「防水仕様」
千晴が留め具を確認する。
「完全防水かは不明。でも、中は乾いてる可能性がある」
「金具が錆びています」
薫子が指摘した。
「外側は長く水に浸かってた」
「どのくらいですか?」
優斗が尋ねる。
「分からない」
「一年くらい?」
「分からない」
「半年?」
「見ただけでは分からない」
「千晴さんでも分からないことがあるんですね」
「ある」
「素直に認めるんですね」
「分からないものを分かったとは言わない」
千晴は固くなった留め具を工具で緩めた。
次に、ファスナーへ手をかける。
途中で引っかかった。
「切りますか?」
真帆が尋ねる。
「できるだけ壊さない」
「リュックも使えますから?」
「乾かして、傷を補修できれば」
少しずつファスナーを動かす。
ぎぎっ。
金属が擦れる音。
やがて、口が開いた。
中から異臭はしない。
液体も漏れていない。
「開いた」
千晴が内部へ光を当てる。
中身は、さらに透明な防水袋へ小分けにされていた。
「かなり用心深い人ですね」
中山が言う。
「水へ落ちることを想定してた」
千晴は一つずつ、中身を取り出した。
最初は、缶詰。
魚の缶詰が二つ。
豆の缶詰が一つ。
表示は擦れているが、膨らみや大きな錆は見られない。
「食料!」
優斗が言った。
「俺の釣果ですね」
「まだ食べられるとは決まってねえ」
西村が缶を受け取る。
「状態を確認してからだ」
「でも、石ではありませんでした」
「そうだな」
「西村さんの予想は外れました」
「期待しすぎるなと言っただけだ」
次に出てきたのは、小型の携帯ラジオ。
防水袋に入れられ、予備の乾電池も一緒だった。
「ラジオです」
真帆が声を上げる。
「使える?」
リリカが縁側から尋ねる。
「まだ分かりません」
千晴は袋の外から状態を見る。
「電池は別にしてある。液漏れも見えない」
「直せますか?」
「壊れてなければ」
「壊れていたら?」
「調べる」
さらに、携帯用の水濾過器。
折り畳まれた周辺地図。
細いロープ。
小型ライト。
救急用品。
古い多機能ナイフ。
どれも、一人で数日移動するためにまとめた装備に見えた。
「避難用の鞄でしょうか」
薫子が言った。
「その可能性はあります」
中山が答える。
「持ち主は、海へ落ちたんでしょうか」
「分からない」
千晴が繰り返した。
最後に。
透明な袋へ包まれた、一冊の手帳が出てきた。
表紙は赤。
角が少し擦れている。
「日記?」
真帆が受け取る。
「袋の中は濡れていません」
千晴が言った。
「開いていいですか?」
「手袋をして」
真帆は手袋をつけ、袋の口を開いた。
赤い手帳を取り出す。
表紙に名前はない。
最初のページを開く。
黒いペンで、丁寧な文字が書かれていた。
――宮坂昭人。
「宮坂、昭人さん」
真帆が読み上げた。
「持ち主の名前ですか?」
優斗が覗き込む。
「そのようですね」
ページをめくる。
日付。
天候。
食料の残量。
移動した場所。
遭遇したゾンビ。
短い文章が並んでいる。
潮見亭の周辺を移動していた記録もあった。
「火村さんの名前は?」
優斗が尋ねた。
「まだ分かりません」
「最初から読んでみましょう」
「今、全部読む必要はねえ」
西村が魚を持ち上げる。
「こっちは先に処理しねえと傷む」
「ですが、重要な情報があるかもしれません」
「だから、飯のあとで全員で読めばいい」
「魚も大切ですね」
真帆は頷いた。
赤い手帳を閉じようとした時。
挟まれていた紙が、一枚落ちた。
床へ広がったのは、古い観光地図だった。
海岸。
温泉街。
山道。
いくつかの場所へ、赤い丸がついている。
そのうちの一つ。
山の中。
細い道の先に、小さな文字が書かれていた。
――炭焼き小屋。
その横には、
――食料あり。
――人の気配。
――次に行く。
と記されている。
「炭焼き小屋?」
優斗が地図を覗き込んだ。
「この辺りに、そんな場所があるんですか?」
真帆は記憶をたどった。
「昔、山の奥に炭を焼いていた方がいたと聞いたことがあります」
「今も誰かいる?」
リリカが尋ねる。
「この記録が、いつ書かれたかによります」
中山が言った。
「日記の日付を確認しましょう」
真帆は赤い手帳の後ろのページを開いた。
最後に文字が書かれていた日付。
それは、およそ二か月前だった。
火村が潮見亭を去ってから、四か月ほど後。
「新しい……」
優斗が呟いた。
「少なくとも、この日まで宮坂さんは生きていたんですね」
真帆が言う。
「そして、炭焼き小屋へ向かうつもりだった」
「この鞄が海に沈んでたってことは」
優斗は言いかけて、口を閉じた。
宮坂昭人が無事だったとは限らない。
鞄だけを落とした可能性もある。
誰かに奪われた可能性もある。
海へ落ちた可能性も。
今の段階では、何も分からない。
「決めつけない方がいい」
千晴が言った。
「鞄が海にあった。それだけ」
「宮坂さんがどうなったかは不明です」
中山も同意する。
「炭焼き小屋の人も、今いるとは限りません」
「行くの?」
リリカが真帆を見た。
真帆はすぐには答えなかった。
食料の印。
人の気配。
二か月前の記録。
新しい生存者につながる可能性。
同時に、山道には海とは違う危険がある。
ゾンビ。
崩落。
野生動物。
そして、見知らぬ人間。
「まずは日記を読みます」
真帆は答えた。
「全部確認してから、皆さんで相談しましょう」
「すぐ行かない?」
「行く目的と、帰る方法を決めてからです」
「火村みたい」
リリカが言った。
真帆は少し驚き、それから微笑んだ。
「そうでしょうか」
「優斗が言ってた」
「何をです?」
「何も考えずに外へ出ると、帰れなくなる」
優斗は目を瞬いた。
「覚えていたんですか?」
「うん」
「俺が教えた言葉として覚えてください」
「火村の言葉」
「そうですけど……」
優斗は少し複雑そうな顔をした。
「でも、俺も覚えてます」
玄関の外では、海から風が吹いていた。
今日、真帆たちは新しい釣り場を一つ見つけた。
西村は三匹の魚を釣った。
真帆は二匹釣って、二匹とも逃がした。
優斗は海藻と空き缶。
そして、海底から一つのリュックを引き上げた。
中に入っていたのは、食料と道具。
持ち主の名前。
二か月前の記録。
山の中に残された、小さな印。
ただ魚を釣るだけだったはずの一日は、まだ見ぬ誰かの足跡へつながっていた。
「真帆」
リリカが赤い手帳を見つめながら言った。
「今日の魚は、豪華?」
「三匹ありますから、昨日より豪華ですよ」
「日記も食べる?」
「食べません」
「では、日記は何になる?」
真帆は赤い表紙へ目を落とした。
「道しるべになるかもしれません」
「食べられないけど、大切?」
「はい」
「新しい釣り場と同じ」
真帆は、少しだけ目を見開いた。
「そうですね」
今すぐ腹を満たすものではない。
だが、明日を探すために必要なもの。
潮見亭が生き残るためには、魚も、畑も、備蓄も必要だ。
そして時には、誰かが残した一冊の日記が、新しい道を教えてくれることもある。
「まず魚を料理するぞ」
西村が、全員の感傷を断ち切るように言った。
「日記は逃げねえ。魚は傷む」
「本日の夕食は何ですか?」
真帆が尋ねる。
「一匹は塩焼き。二匹は汁物」
「全員分ありますか?」
「細かく分ける」
「豪華ですか?」
リリカが尋ねた。
「自分たちで釣って、全員で食う」
西村は魚の入った袋を持ち上げた。
「今の潮見亭なら、それで十分豪華だ」
リリカは満足そうに頷いた。
その隣で、ゆずが魚の匂いを嗅ぎつけ、勢いよく立ち上がる。
「わふっ!」
「ゆず」
西村が低い声で呼ぶ。
「これは全員分だ。お前だけで食うなよ」
「わふ」
「分かってねえ顔だな」
魚を追うゆず。
それを止めるリリカ。
道具を機関室へ運ぼうとする千晴。
自分の海藻も料理へ使うよう主張する優斗。
中庭に、久しぶりに賑やかな声が響く。
真帆はその光景を見ながら、胸に赤い手帳を抱えた。
宮坂昭人。
山中の炭焼き小屋。
二か月前まで生きていた、見知らぬ誰か。
新しい釣り場を得た潮見亭は、同時に新しい道も手に入れた。
その道が、食料へつながっているのか。
生存者へつながっているのか。
それとも、別の危険へつながっているのか。
まだ、誰にも分からない。
ただ一つ確かなことは。
今日、海から釣り上げたものの中で、最も重かったのは魚ではなかった。
赤い表紙の、小さな日記だった。




