第9話 ざまぁ
第9話 ざまぁ
その日の第三中央坑道は、いつもより人が少なかった。
深夜一時。
湿った石畳に、ぽたり、と水滴が落ちる音が響く。
ミントの香りは相変わらず優しかった。
草壁茂は、いつものようにポットへ湯を入れていた。
さらさら、と葉が揺れる。
最近では結界の範囲もかなり広がり、初心者探索者たちからは『休憩所』みたいに扱われ始めている。
だが今日は、空気が妙だった。
玲奈もガルドも、少し険しい顔をしている。
「何かあったんですか?」
茂が尋ねる。
玲奈はミントティーを見つめたまま、小さく息を吐いた。
「……来る」
「え?」
その直後だった。
通路の奥から、慌ただしい足音が響く。
複数。
しかもかなり必死な足音だった。
茂が顔を上げる。
やがて現れたのは、見覚えのある男だった。
『インペリアル・レイド』社長。
腹の出た中年男は、汗だくになりながらこちらへ駆け込んでくる。
その後ろには、一条凱。
以前よりさらに痩せ細り、顔色は死人みたいに悪かった。
目は落ち窪み、呼吸も荒い。
もう“最強探索者”の面影はない。
茂は呆然と立ち尽くした。
「社長……」
すると社長は、いきなりその場へ膝をついた。
「草壁くん!!」
「えっ」
「頼む!! 戻ってきてくれ!!」
床へ額を擦りつける勢いだった。
茂は完全に固まる。
「え、いや……」
「君がいないとギルドが回らないんだ!」
社長の顔は真っ青だった。
疲弊している。
以前の尊大な態度など微塵もない。
「補給管理も崩壊した! スポンサーは離れる! 探索者は辞める! もう限界なんだ!」
一条も荒い呼吸のまま茂を睨む。
「……お前のミント」
声が掠れていた。
「それを寄越せ」
玲奈の目が冷たく細まる。
一条は構わず続けた。
「精神安定剤として商品化する。独占契約だ」
「え?」
「金なら出す」
一条の目は完全に焦っていた。
眠れていないのだろう。
指先が震えている。
「頼む……」
その言葉に、茂は少し驚いた。
一条が“頼む”なんて言う人間だと思わなかった。
だが次の瞬間。
「……いや、違うな」
一条の顔が歪む。
「これはお前の責任だ」
空気が冷えた。
「お前がいなくなったせいで全部壊れた」
「一条さん……」
「だから戻れ」
ぎらついた目だった。
「俺たちを助けろ」
その瞬間だった。
玲奈が静かに立ち上がる。
「無理」
一条が睨む。
「あ?」
「茂さんは戻らない」
「部外者が口出すな!!」
「じゃあ証拠出す」
玲奈は小さな端末を机へ置いた。
空間投影が起動する。
そこへ映し出されたのは、大量の内部資料だった。
「な……」
社長の顔色が変わる。
経費データ。
改ざんログ。
裏口座。
高級ポーション横流し記録。
そして。
『草壁茂への冤罪工作資料』
空気が凍った。
一条が顔を引き攣らせる。
「なんで……それ……」
「内部協力者」
玲奈が冷たく言う。
「現場、もうみんな限界だった」
さらに映像が切り替わる。
一条が部下へ暴力を振るう映像。
深層で味方を誤爆した記録。
違法経費。
証拠改ざん。
全部。
全部残っていた。
茂は言葉を失っていた。
「……これ」
玲奈は静かに言う。
「もう協会と報道機関へ送ってある」
社長が青ざめた。
「ま、待て! それは困る!!」
「遅い」
玲奈の声に感情はなかった。
「茂さんを捨てた時点で終わってた」
その瞬間。
社長の端末が鳴り始めた。
着信。
また着信。
また着信。
「しゃ、社長!!」
通信が繋がる。
『スポンサーが契約打ち切りを――!』
『探索者協会が監査に入ります!』
『SNS炎上止まりません!!』
『記者が押しかけて――』
社長の顔から血の気が引く。
一条は呆然としていた。
「……嘘だろ」
玲奈は冷たく見下ろす。
「終わり」
静かな一言だった。
だが、それが全てだった。
一週間後。
ニュースは連日『インペリアル・レイド』崩壊を報じていた。
『大手探索ギルド、不正会計発覚』
『S級探索者による暴力事件』
『冤罪解雇問題へ発展』
世間は大炎上。
スポンサーは撤退。
探索者は離脱。
ギルドは事実上の倒産となった。
そして一条凱。
探索者協会は正式に資格剥奪を発表。
理由は、重度精神汚染および危険行動。
彼はもう深層へ潜れない。
瘴気へ耐えられない身体になっていた。
ある日。
茂は偶然、街角で一条を見かけた。
以前の派手な姿ではない。
帽子を深く被り、怯えるように歩いている。
人混みの中ですら、びくびくしていた。
世界最強だった男。
だが今は、ただ壊れた人間にしか見えなかった。
一条は一瞬だけ茂を見た。
何か言いたそうだった。
だが結局、何も言えず去っていく。
茂はその背中を見送った。
不思議と、怒りはなかった。
ただ少し、寂しかった。
その夜。
第三中央坑道。
いつもの場所。
いつものミント。
湯気。
静かな香り。
玲奈がマグカップを持ちながら言った。
「……終わったね」
「そうですね」
茂はミントへ水をやる。
さらさら、と葉が揺れる。
「でも私は、こっちの方が好き」
玲奈が小さく笑った。
ガルドも頷く。
「俺も。ここがあるなら十分だ」
茂は少し照れくさそうに笑う。
「そんな大した場所じゃないですよ」
「大した場所だよ」
玲奈は静かにミントの香りを吸い込んだ。
「ここ、ちゃんと息できるから」




