第10話 今夜も、よく眠れますように
第10話 今夜も、よく眠れますように
深夜二時。
第三中央坑道は、今日も静かだった。
青白い結晶灯が、湿った岩壁をぼんやり照らしている。遠くで水滴が落ちる音が響き、冷えた空気の中を、ミントの香りだけが優しく流れていた。
草壁茂は、いつもの折りたたみ椅子へ座りながら、小さく息を吐いた。
「……少し増えすぎましたかねえ」
目の前では、青々と茂ったミントが夜風に揺れている。
もう最初の百円プランターでは収まらない。
鉢は増え、棚まで置かれ、小さな庭みたいになっていた。
だが、使っているものは相変わらずだ。
百円ショップのジョウロ。
安い園芸スコップ。
中古の電気ポット。
折りたたみ椅子。
何も変わらない。
茂はジョウロを傾ける。
さらさら、と葉へ水が落ちる。
その瞬間、ミントの香りがふわりと広がった。
「ああ……」
自然と肩の力が抜ける。
あの日。
会社をクビになった夜。
雨のホームセンターで、このミントを見つけた。
全部終わったと思っていた。
人生も。
居場所も。
自分の価値も。
なのに今、こうして誰かのためにお茶を淹れている。
不思議なものだ、と茂は思った。
その時だった。
ざり、と通路の奥から足音が響く。
茂は顔を上げた。
最初に現れたのは玲奈だった。
黒コート姿のまま、少し眠そうな顔で歩いてくる。
「こんばんは」
「こんばんは。今日も遅かったですね」
「二十一階層まで行ってた」
「それは大変だ」
「うん。死ぬほど疲れた」
玲奈はそう言いながらも、以前みたいな危うさはない。
ちゃんと眠れている顔だった。
その後ろからガルドも現れる。
「よぉ、マスター」
「こんばんは」
「今日は新人連れてきた」
後ろには若い探索者が二人いた。
まだ緊張した顔をしている。
玲奈が小さく笑った。
「最近、ここ有名」
「いやいや、大した場所じゃないですよ」
「大した場所」
玲奈は即答した。
「ここなかったら、たぶん何人か死んでる」
ガルドも深く頷く。
「マジでな」
若い探索者の一人が、おそるおそる口を開いた。
「……あの、本当に眠れるって聞いて」
「大丈夫ですよ」
茂は柔らかく笑う。
「お茶飲んで、少し休んでいってください」
その言葉だけで、若い探索者の顔が少し緩んだ。
茂はポットへ水を入れる。
こぽこぽ、と小さな音。
やがて湯気が立ち上る。
ミントの葉を摘む。
指先で軽く潰すと、青い香りが一気に広がった。
玲奈が目を閉じる。
「……好き、この匂い」
「最近さらに香り強くなりましたからね」
「ここ来ると、ちゃんと呼吸できる」
その言葉に、周囲の探索者たちも静かに頷いた。
深層は過酷だ。
瘴気。
死。
緊張。
眠れない夜。
誰もが少しずつ壊れていく。
だから、この場所だけは必要だった。
戦わなくていい場所。
強がらなくていい場所。
ただ、座ってお茶を飲める場所。
茂はカップを並べていく。
「どうぞ」
「……いただきます」
新人探索者が恐る恐るミントティーを口にした。
その瞬間、目を見開く。
「……あ」
「どうです?」
「なんか……すごい落ち着く……」
隣の探索者も小さく笑った。
「本当だ……」
ガルドが豪快に笑う。
「だろ? ここ反則なんだよ」
玲奈はもう椅子へ座ったまま、眠そうに目を擦っている。
茂は苦笑した。
「寝るなら毛布ありますよ」
「……使う」
「はいはい」
毛布を渡す。
玲奈はそれを抱え込みながら、静かにミントティーを飲んだ。
その顔は、初めて会った時とは別人みたいに穏やかだった。
茂はそんな彼女たちを見ながら、小さく笑う。
「不思議ですねえ」
「何が?」
玲奈が尋ねる。
「いや、昔の私は、誰かに『お疲れ様』なんて言われる側だったので」
毎日怒鳴られ、責任を押し付けられ、胃を痛めていた。
誰も休ませてくれなかった。
だから今。
こうして誰かへ「お疲れ様でした」と言えることが、少し嬉しかった。
玲奈は静かに茂を見る。
「茂さん」
「はい?」
「ここ、なくならないで」
その声は、とても真剣だった。
ガルドも頷く。
「俺ら、ここないと困る」
若い探索者たちまで慌てて頷いた。
「ぜひ続けてください!」
「毎日来ます!」
茂は思わず吹き出した。
「はは……大げさですよ」
「大げさじゃない」
玲奈が小さく言う。
「ここ、最後の避難所だから」
静かな声だった。
だが、その言葉は温かかった。
茂は少しだけ目を細める。
そして、いつものようにミントへ水をやった。
さらさら、と葉が揺れる。
青い香りが広がる。
深夜のダンジョン。
静かな湯気。
折りたたみ椅子。
疲れ切った探索者たち。
その小さな中心で、百円のミントだけが、今夜も優しく香っていた。
「はい。お疲れ様でした」
茂がそう言うと、探索者たちはどこか安心した顔で笑った。
今夜も、この小さな聖域だけは変わらない。
(完)




