エピローグ 世界でたった一人のお父さん
エピローグ 世界でたった一人のお父さん
深夜二時。
第三中央坑道には、今日も静かな湯気が漂っていた。
湿った岩壁。
青白い結晶灯。
さらさらと揺れるミントの葉。
その香りだけが、冷えた空気を優しくほどいていく。
草壁茂は、いつものようにジョウロで水をやっていた。
「最近また増えましたねえ」
ミントは相変わらず元気だった。
葉は青く艶やかで、小さな結界全体へ穏やかな香りを広げている。
玲奈は椅子へ深く座り、マグカップを両手で包んでいた。
「……落ち着く」
「今日はかなり疲れてますね」
「二日連続深層」
「それは大変だ」
ガルドが隣で笑う。
「玲奈ちゃん、最近働きすぎなんだよ」
「ガルドも」
「俺はもうおっさんだから無理効かねえの」
「私も無理効かない」
そんな穏やかな会話が流れていた時だった。
ざり、と。
通路の奥で、小さな足音が響いた。
茂は顔を上げる。
こんな時間に子供?
珍しいどころではない。
玲奈も眉をひそめた。
やがて、暗い通路の奥から二つの影が現れる。
一人は、小学生くらいの男の子だった。
ぼろぼろのパーカー。
小さなリュック。
息を切らしながら、必死に誰かを支えている。
そして、その肩にもたれかかるように歩いていた男を見た瞬間、空気が止まった。
「……一条」
玲奈の声が低くなる。
一条凱だった。
だが、以前の姿とはまるで違う。
髪は乱れ、頬は痩せ細り、目は虚ろだった。
身体は小刻みに震え、呼吸も不安定。
まるで重病人だった。
男の子は必死な顔で周囲を見回し、そして茂を見つけた瞬間、駆け寄ってきた。
「お、おじさん!」
茂は戸惑う。
「え?」
少年は、その場で頭を下げた。
「お願いします!」
震える声だった。
「僕のお父さんを助けてください!」
玲奈たちが息を呑む。
少年の後ろで、一条は壁へ寄りかかったまま荒い息をしていた。
焦点が合っていない。
精神汚染がかなり進行している。
玲奈は険しい顔で一条を見る。
「……どうしてここを」
「ネットで……!」
少年が泣きそうな顔で言う。
「ここなら助かるって……!」
茂は少年を見つめた。
まだ幼い。
十歳くらいだろうか。
目元が少しだけ、一条に似ていた。
「君、お名前は?」
「……凛太」
「凛太くん」
茂はしゃがみ込む。
凛太の肩は小さく震えていた。
「お父さん、最近ずっと苦しそうで……夜も眠れなくて……」
少年の声が詰まる。
「でも僕、お父さんしかいないんです」
その瞬間。
一条が苦しそうに呻いた。
「……う、るせぇ……」
頭を抱えている。
呼吸が荒い。
結界へ近づいたことで、逆に瘴気との反発が起きているのだろう。
玲奈が低く言った。
「茂さん。無理しなくていい」
ガルドも頷く。
「あいつ、散々やったからな」
だが凛太は必死だった。
「お願いします!!」
涙声だった。
「悪い人でもいいんです! 怖くてもいい! でも……!」
ぎゅっと拳を握る。
「僕のお父さんなんです……!」
その言葉が、静かな坑道へ落ちた。
ミントの葉が、さらりと揺れる。
茂はしばらく黙っていた。
目の前の一条を見る。
自分を追い出した男。
人生を壊した相手。
憎んで当然の相手。
だが今、一条はもう“敵”には見えなかった。
ただ、壊れてしまった人間だった。
そして、その隣には小さな息子がいる。
必死に父親を守ろうとしている。
茂は小さく息を吐いた。
「……凛太くん」
「は、はい……!」
「少しだけ、ここへ連れてきてもらっていいですか」
凛太の目が大きく開く。
「た、助けてくれるんですか……?」
「絶対とは言えません。でも」
茂は柔らかく笑った。
「お茶くらいなら淹れられます」
凛太の目から涙が溢れた。
「ありがとうございます……!」
玲奈は何か言いたそうだった。
だが、結局何も言わなかった。
一条はふらつきながら結界へ入る。
その瞬間だった。
ばちばちと暴れていた魔力が、少しだけ静まる。
一条が苦しそうに顔を上げた。
「……なん、だ……」
ミントの香り。
柔らかな空気。
静かな湯気。
茂は椅子を引いた。
「どうぞ」
一条は警戒した目で茂を見る。
「……俺を、笑わねえのか」
掠れた声だった。
茂は少し困ったように笑う。
「疲れてる人を笑う趣味はありませんよ」
一条は呆然としていた。
やがて震える手でカップを受け取る。
熱い。
指先へ熱が伝わる。
ミントティーの香りが、ゆっくり肺へ落ちていく。
一条の肩が震えた。
「……っ」
涙だった。
ぽたり、とカップへ落ちる。
一条は慌てて顔を背ける。
「なんで……」
声が震えていた。
「なんでお前……俺なんかに……」
茂は静かにポットへ湯を足した。
「眠れないの、苦しいですから」
一条は何も言えなかった。
凛太が、ほっとした顔で父親を見る。
「……よかった」
その小さな声に、一条の顔が歪んだ。
玲奈は静かに目を閉じる。
ミントの香りが漂う。
誰も怒鳴らない。
誰も責めない。
ただ、静かな湯気だけがそこにあった。
一条は震える手でミントティーを飲む。
そして。
本当に小さな声で呟いた。
「……あったかい」
それは、あの夜の玲奈と同じ言葉だった。
茂は少しだけ笑った。
「はい。お疲れ様でした」
ミントの葉が、さらさらと夜風へ揺れる。
深夜ダンジョンの片隅。
その小さな聖域だけは、今夜も変わらず、誰かを静かに受け入れていた。




