第7話 ミントの葉っぱ一枚
第7話 ミントの葉っぱ一枚
深夜の第三中央坑道には、今日も静かな湯気が漂っていた。
ポットの沸く音。
ミントの香り。
湿った石の匂い。
草壁茂は、いつものようにプランターへ水をやっていた。
「最近さらに増えましたねえ……」
思わず苦笑する。
ミントはもはや小さな鉢植えではなかった。
プランターから溢れ、周囲へ柔らかな緑を広げている。
葉は艶やかで、まるで光っているみたいだった。
さらさら、と葉が揺れるたび、冷たく澄んだ香りが空気へ溶けていく。
結界も広がっていた。
以前は半径数メートル程度だったはずなのに、今では通路のかなり先まで瘴気が薄れている。
玲奈がカップを両手で包み込みながら、小さく息を吐いた。
「……落ち着く」
「お疲れ様です」
「今日、十八階層まで行ってた」
「それは大変でしたね」
「うん。死ぬかと思った」
玲奈はさらりと言う。
だが、その声には前みたいな擦り切れた危うさがなかった。
以前より眠れているのだろう。
顔色もずっといい。
ガルドが隣で大きく頷いた。
「俺も最近かなり楽だわ。前みたいに悪夢見ねえし」
「よかったです」
「全部このミントのおかげだなあ」
そう言って、ガルドは葉を一枚摘み取った。
その瞬間だった。
「……あれ?」
ガルドが目を瞬かせる。
「どうしました?」
「いや」
ガルドは摘んだ葉を見つめる。
そして鼻先へ近づけた。
爽やかな香り。
冷たい空気が肺へ入ってくる。
すると、少し前まで疼いていた頭痛が、すうっと軽くなった。
「……なんだこれ」
玲奈も顔を上げる。
「どうしたの」
「葉っぱ持ってるだけで楽なんだけど」
「え?」
玲奈も一枚摘む。
途端に、ぴたりと肩の緊張が抜けた。
魔力のざらつきが静まる。
「……本当だ」
その場が少しざわついた。
奥で静かにお茶を飲んでいた無口な魔術師まで、珍しく目を見開いている。
「精神汚染の抑制……?」
茂はきょとんとしていた。
「え、そうなんですか?」
「いや、そうなんですかじゃない」
玲奈が呆れた顔をする。
「これ、異常」
「そう言われても……」
茂には本当にわからない。
ただ水をやっているだけなのだ。
だが探索者たちの空気は変わっていた。
皆、ミントの葉をじっと見つめている。
やがて若い女性探索者が、おそるおそる言った。
「……これ、持って帰ってもいいですか」
「え?」
「お守りにしたい……」
その言葉に、他の探索者たちも頷いた。
「欲しい」
「俺も」
「深層で使えたら助かる……」
茂は少し困ったようにミントを見た。
葉は山ほどある。
むしろ増えすぎているくらいだ。
「別にいいですよ」
「本当に?」
「どうせいっぱいありますし」
探索者たちがざわめく。
「い、いくらだ?」
「え?」
「いや、値段」
「いや、葉っぱですよ?」
「こんなの絶対高級品だろ!」
「そんなことないですって」
茂は本気で不思議そうだった。
百円のミントである。
だが探索者たちは真剣だった。
精神汚染を軽減する植物など、世界中探しても存在しない。
しかも、これは即効性がある。
玲奈が静かに言った。
「茂さん」
「はい?」
「これ、普通に国宝級」
「ええっ!?」
茂は本気で驚いていた。
だが結局、その夜。
探索者たちは一人一枚ずつ、ミントの葉を持ち帰った。
小さな葉っぱ。
ただそれだけ。
なのに皆、宝物みたいに大事そうだった。
「絶対なくすなよ」
「お前もな」
「これで少し眠れるかな……」
探索者たちの顔には、少しだけ希望が戻っていた。
数日後。
変化はすぐ現れた。
「第三部隊、生還率九十八パーセント?」
「あり得ないだろ……」
「しかも精神汚染発症ゼロ?」
探索者ギルド内が騒然となる。
これまで死亡率の高かった深層探索で、異常なほど事故が減っていた。
原因不明。
だが一部探索者たちは知っている。
胸ポケットへ忍ばせた、小さなミントの葉。
それが瘴気を和らげ、精神を安定させていることを。
当然、噂は一気に広がった。
『深夜ダンジョンのミント』
『眠れる結界』
『精神汚染が消える葉っぱ』
茂の知らないところで、都市伝説みたいになっていた。
だが本人はいつも通りだった。
「はい、どうぞ」
今日も普通に葉っぱを配る。
探索者たちは真剣な顔で受け取る。
「助かる」
「本当に命救われた」
「ありがとう、茂さん」
その言葉に、茂は少し照れくさそうに笑った。
「大げさですよ」
「大げさじゃない」
玲奈が静かに言う。
「前の私は、たぶんもう少しで壊れてた」
その声は静かだった。
だが重い。
玲奈だけではない。
ここへ来る探索者たちは皆、壊れかけていた。
だから茂は、少しでも役に立てるならと思った。
ある夜。
アパートへ帰宅した茂は、古い机へ鞄を置きながらため息をついた。
「さて……今月どうするかな」
電気代。
家賃。
生活費。
最近少し余裕はできたが、まだ不安はある。
茂は銀行アプリを開いた。
そして固まった。
「……え?」
残高が増えている。
桁がおかしい。
「じゅっ……」
元会社員時代の年収を軽く超えていた。
意味がわからない。
振込履歴を見る。
『お茶代』
『葉っぱ代』
『命が助かったお礼』
探索者たちからだった。
しかも全員、異様に金額が大きい。
「いやいやいやいや!」
茂は思わず立ち上がった。
「葉っぱですよ!?」
部屋に叫び声が響く。
だが翌日。
茂は何も変わらなかった。
いつもの深夜。
いつものダンジョン。
百円ショップのジョウロ。
折りたたみ椅子。
安いポット。
そしてミント。
さらさら、と葉が揺れる。
玲奈が小さく笑った。
「茂さん、お金持ちになったのに何も変わらないね」
「いや、急に変われませんよ」
「普通もっといい店行く」
「ここが落ち着くので」
その言葉に、探索者たちは静かに頷いた。
ここは特別だった。
誰も強がらなくていい。
誰も戦わなくていい。
ただ湯気を眺め、息をつける場所。
茂はいつものようにジョウロを傾けた。
水を吸ったミントが、嬉しそうに夜風へ揺れていた。




