第5話 深夜2時の常連たち
第5話 深夜2時の常連たち
深夜一時五十分。
第三中央坑道は今日も静かだった。
青白い結晶灯の光が湿った岩壁をぼんやり照らし、冷えた空気の中に、爽やかなミントの香りだけがゆっくり広がっている。
草壁茂は、小さなジョウロでプランターへ水をやっていた。
「今日は元気だな」
葉を撫でる。
青々と茂ったミントは、もう百円の見切り品には見えなかった。
葉は艶やかで、夜風にさらさら揺れている。
その周囲だけ空気が柔らかい。
肺が楽だ。
呼吸が深くなる。
茂自身、ここへ来ると胃痛が消えるようになっていた。
ポットの湯が、こぽこぽと音を立てる。
茂はマグカップを並べた。
一つ。
二つ。
三つ。
最初は自分用だけだった。
だが最近は違う。
「……今日は来るかな」
ぽつりと呟いた時だった。
ざり、と通路の奥で足音がした。
「あ」
見覚えのある銀髪。
蓮見玲奈だった。
黒いコート姿のまま、眠そうな顔でこちらへ歩いてくる。
前みたいな危うさはない。
だが、疲れているのはすぐわかった。
玲奈は茂を見るなり、小さく頭を下げた。
「こんばんは」
「こんばんは。今日は早いですね」
「仕事終わったから」
「お疲れ様です」
玲奈は椅子へ腰を下ろすと、深く息を吐いた。
「……はぁ」
その瞬間、肩から力が抜ける。
ミントの香りを吸い込んだだけで、表情が柔らかくなるのだから不思議だった。
茂は苦笑する。
「もう完全に常連ですね」
「悪い?」
「いえ、ありがたいです」
玲奈は薄く笑った。
最初に会った時とは別人みたいだった。
あの頃は目が死んでいた。
今は少し、人間らしい顔をしている。
茂が湯を注ぐ。
ふわり、と香りが立ち上る。
玲奈は目を閉じ、その香りをゆっくり吸い込んだ。
「……好き、この匂い」
「ミント、元気ですからね」
「茂さんのミント、普通じゃない」
「そうなんですかね」
「普通のミントで魔物逃げない」
茂は困ったように笑う。
自分でもまだ理解していないのだ。
なぜここが“安全”なのか。
なぜ瘴気が消えるのか。
だが、細かいことはどうでもよかった。
この場所に来ると落ち着く。
それだけで十分だった。
その時だった。
再び足音。
今度は重い。
鎧が擦れる音が響く。
通路の奥から現れたのは、大柄な男だった。
四十代後半くらい。
全身を分厚い盾役用装備で固めている。
だが、様子がおかしかった。
目の下の隈。
青白い顔色。
肩で息をしている。
玲奈が驚いたように目を見開く。
「……ガルド?」
男がぎくりとした。
「れ、玲奈ちゃん!?」
「なんでここいるの」
「いや、その……」
男――ガルドは気まずそうに頭を掻いた。
S級パーティ『白鉄の牙』のベテラン盾役。
前線では“鉄壁”と呼ばれる有名探索者だ。
だが今は、その面影が薄い。
ひどく疲れて見えた。
ガルドはおそるおそる周囲を見回した。
「……本当にあったんだな」
「何がです?」
茂が首を傾げる。
ガルドは少し迷ってから言った。
「玲奈ちゃんに聞いたんだよ。“眠れる場所がある”って」
玲奈が無言で視線を逸らした。
どうやら話したらしい。
茂は苦笑した。
「そんな大げさな」
「大げさじゃねえよ……」
ガルドは震える声で呟いた。
「俺、三ヶ月まともに寝れてねえんだ」
その言葉に、空気が少し静まる。
ガルドは無理に笑った。
「目閉じるとさ、死んだ仲間の顔が出るんだよ」
低い声だった。
「盾が間に合わなかった。助けられなかった。夢の中で何回も見る」
玲奈が黙って俯く。
探索者には珍しくない。
精神汚染。
そしてPTSD。
死と隣り合わせの仕事なのだから当然だった。
ガルドは苦笑した。
「情けねえよな。俺、盾役なのに」
茂は静かにミントティーを差し出した。
「どうぞ」
「……え?」
「温まりますよ」
ガルドは戸惑いながらカップを受け取った。
熱い。
指先へじんわり熱が伝わる。
一口飲む。
その瞬間。
男の目から、ぼろりと涙が落ちた。
「……っ」
ガルドは慌てて顔を背けた。
「わ、悪い……」
「大丈夫です」
「いや……なんか、その……」
声が震えていた。
「落ち着く……」
玲奈が小さく笑う。
「でしょ」
ガルドは悔しそうに鼻をすすった。
「なんだよここ……反則だろ……」
その時だった。
さらに通路の奥から人影が現れる。
黒ローブの痩せた男。
青ざめた若い女性探索者。
隻眼の魔術師。
皆、疲れ切った顔をしていた。
そして玲奈を見る。
「あ、本当にいた」
「ここか……」
「ミントの場所って」
茂は完全に固まった。
「え、増えた」
玲奈がしれっと言う。
「口コミ」
「口コミ!?」
「広まってる」
「いやいやいや!」
だが探索者たちは、騒がなかった。
静かだった。
皆、疲れ切っていた。
席へ座る。
湯気を眺める。
ミントの香りを吸い込む。
それだけで、少しずつ表情が緩んでいく。
無口な魔術師がぽつりと言った。
「……ここ、頭痛しない」
若い女性探索者が涙目で頷く。
「私、最近ずっと吐いてたのに……」
ガルドが深く息を吐いた。
「実家より落ち着くな……」
「わかる」
玲奈まで頷く。
茂は呆然と彼らを見回した。
S級探索者。
最前線の人間たち。
ニュースで見れば英雄扱いされるような人たちが、今はただ静かにミントティーを飲んでいる。
誰も強がらない。
誰も威張らない。
ただ、疲れていた。
茂は少しだけ胸が苦しくなった。
この人たちは、ずっと戦ってきたのだ。
誰にも弱音を吐けないまま。
だからせめて。
ここにいる間だけでも。
「おかわり、ありますよ」
茂が言う。
すると探索者たちが、少しだけ嬉しそうな顔をした。
その表情を見て、茂も自然と笑っていた。
ポットの湯気が立ち昇る。
ミントの香りが広がる。
深夜二時。
初心者ダンジョンの片隅で、壊れかけた探索者たちは静かに息をついていた。




