第4話 最強探索者、寝落ちする
第4話 最強探索者、寝落ちする
深夜の第三中央坑道は静かだった。
青白い結晶灯が、湿った岩壁をぼんやり照らしている。水滴がぽたり、ぽたりと落ちる音だけが遠くに響き、空気には涼しいミントの香りが満ちていた。
草壁茂は、折りたたみ椅子に座ったまま眠る女性を見つめていた。
長い銀髪が肩から流れ落ちている。
華奢な身体。
だが、ボロボロの戦闘コートの隙間から見える腕には、幾筋もの古傷が刻まれていた。
彼女は完全に眠っていた。
さっきまで、あんなに危うかったのに。
「……本当に寝ちゃったな」
茂は小さく呟いた。
女性――蓮見玲奈は、椅子へ浅く腰掛けたまま、穏やかな寝息を立てている。
その顔を見て、茂は少し驚いていた。
眠る前までの玲奈は、まるで刃物みたいだったのだ。
鋭く尖り、誰も寄せつけない空気を纏っていた。
だが今は違う。
年相応の、ただ疲れた若い女性にしか見えなかった。
茂は立ち上がり、リュックを漁った。
非常用に入れていた薄い毛布を取り出す。
「風邪引くと困るしな……」
そっと玲奈の肩へ掛ける。
その瞬間、玲奈の身体がぴくりと震えた。
茂は慌てて手を引っ込める。
「す、すみません。起こしましたか」
「……」
返事はない。
玲奈は眠ったままだった。
ただ、毛布を胸元へ少し引き寄せる。
その仕草が妙に幼くて、茂は苦笑した。
「よっぽど疲れてたんだな」
ポットの湯はまだ温かい。
茂は自分のカップへミントティーを注ぎ直した。
湯気が立ち上る。
香りが静かに広がる。
一口飲む。
肺の奥がゆっくりほどけていくみたいだった。
玲奈の周囲には、もう魔力の暴走は見えなかった。
さっきまでバチバチと漏れていた冷気も消えている。
まるで、嵐が去った後みたいに穏やかだった。
茂は小さく息を吐く。
「……しかし、どこかで見たことある気がするんだよな」
顔を見ながら首を傾げる。
美人だから印象に残っていたのかもしれない。
その程度にしか思っていなかった。
まさか、この女性が国内最強のS級探索者だとは、まだ知らない。
やがて時間が過ぎていく。
深夜三時。
四時。
ダンジョンの空気は冷えていくのに、ミントの結界の中だけは不思議と寒くなかった。
茂もうとうとしていた頃だった。
「……ん」
小さな声。
玲奈がゆっくり目を開けた。
長い睫毛が揺れる。
ぼんやりした視線が、天井の結晶灯を見上げる。
「……ここ」
掠れた声だった。
茂は慌てて姿勢を正した。
「お、おはようございます」
玲奈がゆっくり顔を向ける。
数秒。
無言。
茂はなんだか落ち着かなくなった。
「あの、身体は……」
「……朝?」
「え?」
玲奈は呆然としていた。
「今、何時」
「五時前くらいですね」
「……は?」
玲奈の目が大きく見開かれる。
「五時……?」
「はい」
「私……そんなに寝てたの?」
「ええ、ぐっすり」
玲奈はしばらく固まっていた。
やがて、震える指で自分の額へ触れる。
「……痛くない」
「はい?」
「頭が……痛くない……」
茂はきょとんとした。
玲奈は信じられないものを見るみたいに周囲を見回す。
呼吸が楽だった。
胸を締め付けていた不快感もない。
視界が鮮明だ。
耳鳴りも消えている。
ここ数ヶ月、自分を蝕み続けていた精神汚染の症状が、綺麗さっぱり消えていた。
「そんな……」
玲奈の声が震える。
あり得ない。
病院でも駄目だった。
高級精神安定剤も効かなくなっていた。
S級専属の治癒術師でさえ、症状を抑えるのが限界だったのに。
なのに。
眠っただけで、治っている。
玲奈は恐る恐る立ち上がった。
身体が軽い。
驚くほど軽い。
いつも感じていた鉛みたいな疲労がない。
茂が安心したように笑った。
「顔色、良くなりましたね」
「……あなた」
玲奈がじっと茂を見る。
「何者?」
「え?」
「この空間、何?」
「いや……私もよくわからなくて」
「わからない?」
「ミント育ててたら、こうなりました」
「……意味わかんない」
玲奈は本気で困惑していた。
だが、漂うミントの香りを吸い込んだ瞬間、また肩の力が抜ける。
安心する。
こんな感覚、いつ以来だろう。
茂は少し気まずそうに頭を掻いた。
「その……良かったら、もう一杯飲みます?」
「……飲む」
即答だった。
玲奈自身、それが少し恥ずかしかったのか、視線を逸らす。
茂は笑いながらポットへ手を伸ばした。
「今淹れますね」
再び湯気が立ち上る。
ミントの葉を摘む音。
熱湯を注ぐ音。
その全部が妙に心地いい。
玲奈はカップを両手で包み込んだ。
温かい。
指先まで熱が染み込んでくる。
「……おいしい」
「ありがとうございます」
「こんなの、初めて飲んだ」
「ただのミントですよ」
「違う」
玲奈は小さく首を振った。
「これ、安心する」
その言葉に、茂は少し黙った。
安心。
自分には縁のない言葉だと思っていた。
だが今、この場所には確かにそれがある。
玲奈は静かにティーを飲み干すと、ゆっくり立ち上がった。
「……そろそろ行く」
「気をつけてくださいね」
「うん」
玲奈は数歩歩き、ふと立ち止まった。
「名前」
「え?」
「あなたの名前」
「ああ……草壁茂です」
「……茂さん」
玲奈はその名前を小さく繰り返した。
そして懐から、小さな革袋を取り出す。
どさり、とテーブルへ置かれた。
重い音。
中には高純度魔石がぎっしり詰まっていた。
青白く輝くそれは、一個だけでも一般会社員の月収を超える代物だ。
茂は目を剥いた。
「えっ!? ちょ、ちょっと待ってください!」
「お茶代」
「いやいやいや、多すぎますって!」
「足りないくらい」
「いや絶対おかしいですから!」
玲奈は少しだけ笑った。
本当に少しだけ。
だがその表情は、昨日までニュースで見ていた“氷姫”とはまるで違っていた。
「……また来てもいい?」
茂は一瞬きょとんとしたが、すぐ柔らかく笑った。
「はい。お疲れの時はどうぞ」
玲奈は静かに頷く。
そしてミントの香りを纏ったまま、朝焼けのダンジョン通路へ消えていった。
茂はしばらく、その背中を見送っていた。
テーブルの上では、大量の高級魔石が朝の結晶灯を反射して静かに輝いていた。




