第3話 お疲れ様でした
第3話 お疲れ様でした
深夜二時。
第三中央坑道は、水を打ったように静まり返っていた。
青白い結晶灯だけが、岩肌をぼんやり照らしている。遠くで時折、低級魔物の鳴き声が響くが、不思議とこの場所には近づいてこない。
草壁茂は、小さく息を吐いた。
「……よし」
折りたたみ椅子を広げる。
ホームセンターで千円もしなかった安物だ。座るたびに、ぎし、と頼りない音が鳴る。
だが、それで十分だった。
隣には小さな折りたたみテーブル。その上には中古の電気ポットと、安いマグカップが二つ。
そして、青々と繁ったミントのプランター。
葉は夜風に揺れ、爽やかな香りを漂わせていた。
「すごいな、お前」
茂は苦笑した。
たった数日で、百円の苗とは思えないほど育っている。
葉の色は濃く艶やかで、触れると張りがあった。
茂は指先で一枚摘み取る。
その瞬間、ふわりと香りが広がった。
青い。
冷たい。
それでいて、どこか甘い。
鼻の奥を抜ける香りに、自然と肩の力が抜ける。
「ああ……落ち着く」
ぽつりと呟く。
誰もいないダンジョン。
湿った石の匂い。
静かな空気。
ポットが湯を沸かす音。
それだけなのに、会社にいた頃よりずっと息がしやすかった。
ぐつぐつ、と湯が沸く。
茂はマグカップへミントの葉を入れ、熱湯を注いだ。
透明だった湯に、じんわり緑が溶け出していく。
湯気が立ち昇る。
ミントの香りが一気に濃くなった。
茂は慎重に一口飲む。
「……あっつ」
少し舌を火傷した。
だが、その熱が妙に心地よかった。
爽やかな香りが喉を抜け、胸の奥まで染み込んでいく。
冷え切っていた身体が、ゆっくり温まる。
「うまいな……」
本当に、ただのミントティーだった。
高級茶葉でもない。
特別な技術もない。
なのに、不思議なくらい安心する味だった。
茂は静かに湯気を眺めた。
こんな時間が、自分の人生に来るとは思わなかった。
会社にいた頃は、毎日数字に追われていた。
探索者の無茶な経費申請。
事故処理。
クレーム。
深夜まで残業し、帰宅して寝るだけ。
休んでいるのに、ずっと胃が痛かった。
だが今は違う。
静かだ。
誰にも怒鳴られない。
誰も無理を押し付けてこない。
ただミントの香りだけが、夜の空気に溶けている。
その時だった。
ざり、と。
遠くで足音がした。
茂は顔を上げる。
誰かいる。
初心者ダンジョンの深夜に、人が来ること自体珍しい。
しかもその足音は、妙だった。
ふらついている。
重い。
今にも倒れそうな歩き方。
やがて、通路の奥から人影が現れた。
女性だった。
黒い戦闘コートは裂け、肩口には血が滲んでいる。長い銀髪は乱れ、顔色は異常なほど白かった。
だが一番異様だったのは、目だ。
焦点が合っていない。
瞳孔が開ききり、虚空を睨んでいる。
身体の周囲では、淡い青白い魔力がバチバチと漏れ出していた。
空気が震える。
岩肌が軋む。
茂の背筋に冷たいものが走った。
この人、危険だ。
理屈ではなく本能でわかった。
ニュースで何度も見たことがある。
精神汚染。
深層探索者が瘴気に侵され、理性を失いかける症状。
最悪の場合、暴走する。
女性は壁へ手をつき、荒い呼吸を漏らした。
「……っ、ぁ……」
声になっていない。
苦しそうだった。
まるで溺れているみたいに息をしている。
茂は思わず立ち上がった。
「だ、大丈夫ですか」
女性がぎろりと顔を向けた。
殺気。
ぞっとするほど鋭い視線だった。
茂は反射的に息を呑む。
だが次の瞬間。
女性の身体が、ふらりと前へ倒れた。
結界の中へ、一歩踏み込む。
その瞬間だった。
ばちばちと暴れていた魔力が、ぴたりと静まった。
女性が目を見開く。
「……え」
苦しそうに歪んでいた顔が、ゆっくり緩んでいく。
肩から力が抜ける。
呼吸が変わる。
浅く乱れていた息が、少しずつ深くなっていく。
「な……に、これ……」
掠れた声だった。
女性は呆然と周囲を見回した。
ミントの香りが漂っている。
静かな空気。
柔らかな夜風。
瘴気特有の頭痛も吐き気もない。
茂は戸惑いながらマグカップを持ち上げた。
「あの……お茶、飲みますか」
「……は?」
「ミントティーです」
「……」
女性はしばらく茂を見ていた。
警戒している。
当然だった。
深夜のダンジョンで、おっさんが突然お茶を勧めているのだから。
だが、彼女はゆっくり椅子へ腰を下ろした。
「……毒、入ってたら殺す」
「入ってませんよ」
「ならいい」
ぶっきらぼうだった。
茂は苦笑しながらカップを差し出す。
女性の指先は小刻みに震えていた。
かなり限界なのだろう。
彼女は警戒したまま、一口飲んだ。
その瞬間。
ぴたり、と動きが止まった。
「……っ」
長い睫毛が震える。
茂は少し慌てた。
「まずかったですか」
「違う……」
女性は呆然とカップを見つめていた。
「……あったかい」
ぽつりと呟く。
その声は、さっきまでの鋭さが嘘みたいに弱かった。
彼女はもう一口飲む。
熱い湯気が頬を撫でる。
ミントの香りが肺へ落ちていく。
そして。
ぽろ、と。
女性の目から涙が落ちた。
「え」
茂が戸惑う。
女性自身も驚いたようだった。
「なんで……」
震える声。
「なんで、こんなので……」
言葉が続かない。
限界だったのだろう。
張り詰めていた糸が切れたみたいに、彼女の身体がぐらりと揺れた。
「あっ」
茂が慌てて支える。
女性は抵抗しなかった。
そのまま椅子にもたれ、ゆっくり目を閉じる。
「……少しだけ」
掠れた声。
「少しだけ、寝る……」
数秒後。
静かな寝息が聞こえ始めた。
茂は呆然と彼女を見つめた。
本当に眠っている。
さっきまで、あんなに危うかったのに。
茂はそっと立ち上がり、自分の上着を彼女へ掛けた。
「……お疲れ様でした」
小さく呟く。
返事はない。
ただ、女性は安心しきった顔で眠っていた。
ミントの香りが、静かに夜のダンジョンへ広がっていく。
その穏やかな空気の中で、茂は久しぶりに、自分が誰かの役に立てた気がした。




