第2話 深夜ダンジョンの片隅
第2話 深夜ダンジョンの片隅
アパートの部屋は、昼でも薄暗かった。
築四十年。北向き。一階。窓の外は隣の建物のコンクリート壁で、陽の光なんてほとんど入らない。
草壁茂は、小さな流し台の前で黙っていた。
昨日買ったミントの苗が、窓際でしおれている。
「……やっぱり駄目か」
小さく呟く。
百円の苗とはいえ、たった一日でここまで元気をなくすとは思わなかった。葉先はぐったり垂れ、色も悪い。
茂はコップに水を汲み、そっと土へ流した。
黒い土がじわりと水を吸い込む。
だが、ミントは元気を取り戻さない。
「悪いな……こんな部屋で」
思わず苦笑する。
自分で言っていて惨めだった。
会社をクビになり、妻にも出て行かれ、今はこの狭い部屋で一人。冷蔵庫の中には安売りの豆腐と半額の惣菜しかない。
テレビをつけても、流れてくるのは探索者ニュースばかりだった。
『S級探索者・一条凱、深層ボス討伐成功!』
画面の中で、一条が派手な笑顔を浮かべている。
茂は無言でテレビを消した。
部屋が静かになる。
エアコンも古く、時々ガタガタと不穏な音を立てる。
ふと、茂はミントを見つめた。
昔、まだ妻と仲が良かった頃、ベランダで小さな家庭菜園をしていた。
トマト。バジル。シソ。
休みの日、土を触っている時だけは、少し心が落ち着いた。
「……光か」
ぽつりと呟く。
植物には陽の光が必要だ。
だが、この部屋にはそれがない。
茂は窓の外を見た。灰色の壁しか見えない。
その時、不意に昔聞いた話を思い出した。
ダンジョン内部には特殊な魔力光が存在する。
人工照明とは違う、生体活性効果を持つ未知の波長。高級薬草園では、それを利用した栽培も研究されている――。
そこまで考えて、茂は自分で笑った。
「何考えてるんだ、俺は」
初心者ダンジョンへ植物を持ち込む人間なんて聞いたことがない。
だが。
このまま部屋に置いても、どうせ枯れる。
茂はしばらく黙っていたが、やがてゆっくり立ち上がった。
「……散歩だ。深夜の散歩」
誰に言い訳するでもなく呟く。
深夜一時。
街は冷えていた。
コンビニの明かりだけがやけに白い。吐く息がうっすらと夜気に混じる。
茂は古びたリュックを背負い、その中へミントの鉢を入れて歩いていた。
行き先は、初心者用常設ダンジョン『第三中央坑道』。
二十四時間営業の低級ダンジョンだ。
昼間は学生探索者や配信者で賑わっているが、深夜はほとんど人が来ない。
入口の受付にいた警備員が、眠そうに顔を上げた。
「……あ? 一般利用ですか?」
「ええ、少しだけ」
「武器は?」
「持ってません」
「は?」
警備員が眉をひそめた。
「いや、あんた……手ぶらで?」
「危険な場所へは行きませんから」
警備員は呆れた顔をしたが、初心者区域なら問題ないと思ったのか、端末を操作した。
「死んでも自己責任ですよ」
「はい」
軽く頭を下げ、茂はゲートをくぐる。
空気が変わった。
地下特有の湿った冷気。
岩肌の匂い。
微かに鉄臭い空気。
天井の結晶鉱石が青白く光り、ぼんやり通路を照らしている。
「……久しぶりだな」
経理時代、視察で何度もダンジョンへ来たことはある。
だが、探索者としてではない。
いつも書類と数字ばかり見ていた。
茂は人気のない通路をゆっくり歩いた。
遠くから魔物の鳴き声が聞こえる。
水滴が、ぽちゃん、と岩場へ落ちる。
不気味なのに、不思議と落ち着いた。
やがて通路の隅に、小さなくぼみを見つけた。
人も来ない。魔物の気配も遠い。
「ここなら……」
茂はリュックを下ろした。
百円ショップで買った小さなプラスチックプランター。安い園芸スコップ。ホームセンターの培養土。
五百円もしない簡素な道具だった。
茂は床へしゃがみ込む。
土を入れる。
ミントを植え替える。
指先に土の感触が伝わる。
少し湿っていて、ひんやりしていた。
「狭かったよな」
ミントへ話しかける。
「もうちょっと広い方がいいだろ」
自分でも変だと思う。
四十五歳の男が、深夜のダンジョンで植物に話しかけている。
だが、誰も見ていない。
だから少しだけ気が楽だった。
最後にペットボトルの水を注ぐ。
その瞬間だった。
ぶわっ、と。
風が吹いた。
「……え?」
茂は目を見開いた。
ミントの葉が震えている。
いや、それだけじゃない。
しおれていた葉が、みるみる色を取り戻していく。
茎が伸びる。
葉が開く。
青々とした新芽が次々と芽吹き、プランターから溢れそうなほど繁殖していく。
「な、なんだ……?」
茂の脳裏に、淡い光文字が浮かぶ。
『スキル【雑草魂】発動』
次の瞬間。
濁っていた空気が、一気に変わった。
ダンジョン特有の重苦しい瘴気が、すうっと消えていく。
代わりに広がるのは、冷たく澄んだミントの香りだった。
肺が軽い。
呼吸が楽だ。
頭の奥にこびりついていた鈍い疲労感が、ゆっくり洗い流されていく。
「……なんだ、これ」
茂は呆然と周囲を見回した。
すると、通路の奥にいたスライムが、びくりと震えた。
本来なら初心者を見つければ寄ってくる低級魔物だ。
だが、そのスライムは怯えるように後退した。
逃げる。
ずるずると。
まるで、この場所を恐れているみたいに。
「魔物が……逃げてる?」
信じられなかった。
ミントの香りはさらに広がっていく。
湿った空気が変わる。
冷たい石床さえ、どこか柔らかく感じた。
茂はゆっくりその場へ座り込んだ。
プランターの隣。
背中を岩壁へ預ける。
静かだった。
遠くの魔物の声も、今は妙に遠い。
ミントの葉が、さらさら揺れる。
その香りを吸い込んだ瞬間、不意に肩の力が抜けた。
「……ああ」
思わず声が漏れる。
会社をクビになってから、ずっと胸の奥を圧迫していた重苦しさ。
胃の痛み。
呼吸の浅さ。
それが少しだけ、軽くなっていた。
茂は目を閉じた。
静かな風が頬を撫でる。
ミントの青い香りが、夜のダンジョンへゆっくり溶けていった。




