第1話 45歳、ゴミのように捨てられる
第1話 45歳、ゴミのように捨てられる
会議室の空気は、妙に冷えていた。
草壁茂は、閉まりかけたドアを静かに押さえながら中へ入った。白いLED照明がやけに明るい。長机の向こうには、総務部長、法務担当、それから腕を組んで椅子にふんぞり返る一条凱の姿があった。
「草壁さん、座ってください」
総務部長の九条美月が言った。その声は固い。いや、怯えているようにも聞こえた。
茂は無言で椅子に座る。背広の肘が擦り切れているのが、自分でも見えた。
一条が鼻で笑った。
「ずいぶん落ち着いてるじゃねえか。観念したってことか?」
「……何の話ですか」
「とぼけんなよ」
一条は机の上へ書類を放り投げた。ばさり、と乾いた音が響く。
印刷された経費データ。高級ポーション購入履歴。探索装備の発注記録。そして、その承認欄には確かに茂の名前があった。
だが。
「……こんな承認、私はしていません」
「でも、電子署名がある」
法務担当が淡々と言う。
「アクセス記録も草壁さんのIDからです」
「そんなはずは――」
「証拠は揃ってるんですよ」
一条が身を乗り出した。香水と煙草の混じった臭いが鼻につく。
「まったくさあ、経理課長ともあろう人間が横領とか、笑えねえよな」
会議室の隅で、誰かが小さく息を飲んだ。
茂は周囲を見回した。視線を合わせる者は誰もいない。みんな、机か床を見ている。
長年一緒に働いた部下もいた。何度も徹夜を共にした人間もいる。だが誰一人、口を開かなかった。
茂はゆっくり息を吐いた。
「……一条さん。あなたの不正経費を止めた翌日に、これですか」
一条の口角が吊り上がる。
「あ?」
「高級ポーションの私的流用。接待費の架空請求。私は先週、それを監査部へ提出しました」
「言いがかりだな」
「数字は嘘をつきません」
「でも人間は嘘をつく」
一条は笑った。
「今みたいにな」
その瞬間、九条が苦しそうに目を閉じた。
茂は理解した。
終わったのだ。
もう決まっている。
この場は裁判ではない。ただの処刑だ。
社長の名前入りの解雇通知が机に置かれる。
「本日付で懲戒解雇とします。社員証を返却してください」
淡々とした声だった。
茂はしばらく社員証を見つめた。角の擦れたカード。二十年以上、この会社に通った証。
深夜残業。現場対応。クレーム処理。探索者の事故対応。過労で倒れた新人を病院へ運んだ夜。全部、このカードと一緒だった。
一条が苛立ったように机を叩く。
「聞こえねえのか? さっさと出せよ」
茂は静かに首からストラップを外した。
机に置く。
カツ、と乾いた音。
それだけで、自分の人生が終わった気がした。
「……失礼します」
立ち上がる。
誰も引き止めない。
背後で一条の笑い声が響く。
「無職のおっさんとか、マジ終わってんな」
エレベーターの鏡に映った自分の顔は、驚くほど老けて見えた。
四十五歳。
目の下には濃い隈。頬はこけ、白髪も増えている。
いつからこんな顔になったのだろう。
外へ出ると、雨だった。
冷たい雨粒が頬を打つ。街はネオンで滲み、人々は足早に通り過ぎていく。
誰も茂を見ない。
世界から切り離されたみたいだった。
アパートへ帰ると、部屋は静まり返っていた。
「……ただいま」
返事はない。
嫌な予感がした。
テーブルの上に、一枚の紙。
離婚届。
横に置かれたメモには、短くこう書かれていた。
『もう無理です』
それだけだった。
茂はしばらく立ち尽くした。
冷蔵庫のモーター音だけが、やけに大きく聞こえる。
スマート端末を開く。
銀行口座残高。
四万八千百三十二円。
「……はは」
笑ったつもりだった。
だが喉から出たのは、掠れた息だった。
腹が減っているはずなのに、何も食べたくない。
部屋にいると息が詰まりそうで、茂は再び外へ出た。
雨はまだ降っていた。
駅前のホームセンターだけが明るい。
閉店間際の店内は、人もまばらだった。
濡れた靴で歩くたび、床がきゅっ、きゅっと鳴る。
園芸コーナーへ来た時だった。
ふと、足が止まる。
見切り品ラック。
値下げシールの貼られた小さな苗たち。
その隅に、ひとつだけ萎れかけたペパーミントがあった。
葉はしおれている。茎も細い。
百円。
赤いシールが貼られていた。
茂はしゃがみ込んだ。
「……お前も、売れ残りか」
土は乾ききっていた。
店員ももう諦めているのだろう。葉先は茶色く変色している。
だが。
小さな葉を指先で触れた瞬間、かすかに香りがした。
青くて、冷たくて、懐かしい匂い。
その瞬間だった。
胸の奥に押し込めていたものが、一気に崩れた。
「……っ」
涙が落ちた。
ぽた、と葉の上へ落ちる。
茂は慌てて顔を覆った。
情けなかった。
会社を追い出されても泣かなかった。
離婚届を見ても泣かなかった。
なのに。
こんな百円の草を見て、自分は泣いている。
「なんでだよ……」
声が震える。
「ただの草だろ……」
ミントは何も言わない。
ただ、弱々しくそこにあるだけだった。
まるで自分みたいに。
茂は震える手で苗を持ち上げた。
「……帰るか」
誰に言うでもなく呟く。
雨音が、静かに店の屋根を叩いていた。




